とある誰かの視点 小鹿のような
薄暗い地下室にその男はいた。人目を避け、目立たぬように。あるのは一本の蝋燭が灯す一カンデラの光源のみ。ごく僅かな灯りが男の顔をぼんやりと照らしていた。
「───様、城下に潜らせていた者からの知らせです。…姿を確認したとの事」
放っていた斥候の者の知らせに飲んでいた銀のグラスを傾け、濃い血の色のような葡萄酒の表面を眺める。
何も見えないであろう底を見つめて。
「……そうか。して…首尾の方は?」
「全て整いました。いつでも行動出来ます」
「そうか。…クソッ、どうして俺がこのような役目を」
あの蛇のような細い目をした男の言いなりになるしかない。それが生き抜く術だ。
全ては領地を守るため。時勢における権力者に靡くしかない。
…それに、殆どの貴族はあの“本の虫”に敬意など払わぬ。奴のような虚弱な者が上に立ったとて、帝国に立ちゆく指導力など期待すら湧かぬ。
……なら、今は嫌な役を買ってでもあの男の求める役を演じよう。
ここで働きを示せばこそ、我が将来は安泰というもの。忠誠や大義などもはや過去の時代の思考だ。
滅びゆく存在に頭を下げるのは無駄骨であり、すでに流れ出した潮流の中を逆行するなど不可能。
…しかし、あの男は今…自身の立場が危うい状況だ。嫌な知らせが耳を痛くさせた。
果たしてこのまま付き従っているべきなのか。
「あぁぁぁぁッ!! なぜこうも悩ましい立場にあるのだッ!! クソッ! クソッ! クソッ!! ……」
艶のない枯れた声が室内で孤独に響く。
小鹿のようにプルプルと震え、両手で頭を抱えながらわなわなと…。
それは酒による震えなのか、もしくはこの男の生来の性分によるところなのか…。
恐らく、両方だ。
酷い酩酊と錯乱状態がこの男の心の奥底を曝け出し、他者に尻尾を振るしかないと思い込んだ一人の人生を呼び起こしていたから。
机に置かれた燭台を手で振り払う。
その時、男の首にぶら下がった紋章に、宙を舞いこれから消えゆく蝋燭の灯りが反射した。
“鹿”の紋様が…その首飾りに映し出された。
明るさの単位カンデラは、一本の蝋燭の明るさを一カンデラとしているようですね。勉強になりました。




