安に居て危を思う
「…ふむ、どうやら上手くいったようだのぅ」
ぼそりとツクモは呟く。全てはこの老獪が仕組んだものだ。自身の望んだ結果を得たようで大層満足し毒々しさを交えた微笑を称えている。
「全く…君は本当に悪どいよ。民達の気持ちを利用するようなやり方をするなんてね」
周りに聞こえない声で蕭何は声を漏らした。隣で聞く僕もそば耳を立てる。
「じゃが、これでこの街に多少の備えが出来る。それで安心するのは蕭何も含めてであろう?」
「まぁ…ねぇ…お陰で政務に専念は出来そうだ。それも民達に十分の糧を供給するという膨大な課題を持ってね」
この策を授けたツクモを軽く睨み、お陰様にもそれ相応の結果を出さねばならぬ状況に追いやられたと、深いため息と共に蕭何は愚痴を吐いた。
「クックック…そう喜びなさんな」
「誰が喜んでなど…」
「さて、そろそろ下に降りよう。この後は大変だぞ。あんなにも民達が喜んでいるのだから」
僕達の会話を掻き消すようにパラド伯爵がみんなに次の行動に移るように促す。
民達に手を振り続けているシャルルにも目配せで合図を送った。
「では、アルデンヌの民達よ。可能であればこの後にでも壺を食糧庫まで持って来て欲しい。その折に皆に食糧を配ろうと思う」
「うおぉぉぉッ!! …な、何て良い王様なんだッ!!」
「急げッ! 王様のために壺を持って行くんだッ!!」
一気に民達は我先にと自分の家へ向けて走り出した。
屋敷には跡形もなく人が去る。あんなに人で埋め尽くされていたのにだ。まるでそれは太陽と月が一直線に並び引力が重なった大潮のような光景であった。
「よし、じゃあ行こうか」
シャルルも民達の様子を見てとても充足し満ち足りたのであろう。
正面を向いた彼の顔に満面の笑みがくっついていた。
──※──※──※──
「じゅ、順番にこちらにお並び下さいッ! 慌てずとも全員に配る分だけの糧がここにありますッ! 無闇に押さないで下さいッ!!」
体感温度が上昇するばかりの熱気が辺りを包んでいた。
喧騒を起こすなというのも無理はない。今まで奪われる事はあっても施される事などなかったのだから。
「ありがとうございます…これで当分は心配なく持ちます」
「うっ…うっ…良かった。本当に良かった」
老いた者やか弱き女性達は口々に涙ながらに礼を述べ糧を受け取り、男達はやっと家族にまともな食事を供せれた安心に胸を撫で下ろした。
「かぁ〜、本当は俺がやろうとしていた事だってのによ。シャルル王が羨ましいったらありゃあしないぜ…ったく」
民達に食糧を渡す者と食糧を取り分ける者で役割分担した。僕とイレーネは岳飛とクローと一緒に大きな麻袋から小麦を掬い、それを小さな麻袋に振り分ける作業を行なっている。
手際よく小麦を均等に分けながら、動かす口も達者にクローは文句を垂れ流した。
「あれ? そう言えばクローは何で民達に施しをしなかったの? 民のために立ち上がったんでしょ?」
「そりゃあ施しはしたさ。だけどな、状況を分析した結果まだ大々的な施しすべきじゃないって爺と話したんだ」
「状況って何よ? 困っている人がいるのに助けないのは良くないわよ」
「この半助で猪尾助な奴め。ただ助けるって感情だけで反乱は起こさねーんだ」
「…何を言っているかわかんないけど、悪口を言われているって事だけは理解したわッ! さぁ、やっちゃっていいわよカイッ!!」
「えッ!? ぼ、僕ッ!?」
歯に衣着せぬ物言いで見事にイレーネの怒りの尾を踏むクローであったが、巻き込まれる僕の身にもなって欲しい…。
「ふふ…イレーネ殿。確かにその者…クロー殿は口周りが随分と汚れているようですが、言っている事は間違っていませんよ?」
「何よ…この人の肩を持つって言うの? …えーっと岳飛は?」
言い慣れない岳飛という名で呼びながらも、クローに対する態度とは真反対に穏やかに問う。
「肩を持つ持たないではありません。民に施したくても反乱を起こしたてのクロー殿達にとって、川も氾濫し作物を満足に得られない土地だけで兵を賄うにも限りがあり、無策に糧を配っては行き詰まった時に困るのは自分達です。“安に居て危を思う”というものです」
流石は春秋左氏伝の愛読者。危うい時の事を平常な時にも考えろと岳飛は言っている。つまり、いつでも万が一の時を考え行動するべきものだと唱えたのだ。
「みんな難しい言葉を使ってよくわかんないけど何となくはわかったわ。クローもみんなに食糧を配れなくなった場合を考えて、最初からバァーっと配らなかったって事ね?」
半助は半人前、猪尾助は小さいとか小生意気という意味があるようです。




