“恥は一時、志しは一生である”
「全ての者と同じ食事をするのは春秋戦国の呉起に倣ったまでです。私は彼の在り方に感動し真似ただけです」
「真似ようと志しても貫き通せる人はなかなかいませんよ。岳飛のように最後の最後まで…民を救おうと抗う事が出来る人なんて……」
「カイ殿。それは間違いです。私は民を救えなかった。助けを求める者達…いや、助けられる者達を見放し、我々は中原から引き揚げたのです」
「けど、それには理由が…」
岳飛は一日に十二回も皇帝に向けて上書を飛ばし、救いを求める者達を助け中華の中原の地を守り抜くべきだと主張したのだ。
だが、国は岳飛の意見を退けたのだ。宮廷内では和平派が大多数を占めていたためだ。
「私は後悔しているのです。あの時…私が中原に留まり戦い続けていれば、涙を流しながら私達を見送った民達を救う事が出来たのではないかと……。だから…今度こそは“助けを求める者達を救う”という想いを旨に、この世界で生きると決意していたのです。実のところ…公国の者達を救えなかった時点で私は死のうとしていました」
「…えっ!!」
「ですが、その時にあの御方…クワン様がこう言ったのです。“私のよく知る者はかつてこう言ったのだ。恥は一時、志しは一生である…と。今は耐え難きを耐え、必ずやこの地の民達を救うぞ。そのためには我々は生き残るのだと」
「その台詞…って……」
「……もう、カイ殿にはわかっているのでしょう? あの御方が誰であるかを。つまり、あの御方にとってこの台詞が…どれだけ重みがあるかもおわかりのはず。それでも…それでも私に告げてくれたのです。あの御方が自分に課した罪…目を背けたくなるような過去から拾いあげた言葉を贈ってくれた。私もこの言葉の意味を理解したからこそ生き残ろうとした。そして…カイ殿達に出逢う事が出来た。……私の名を呼んで貰えた」
「………」
階段を降りる足音がやけに大きく聞こえた。僕が何も言わずに岳飛の話しを聞いていたから、余計に空いた間を埋めるような反響音が耳に残ったのだ。
まるで彼のかつての日々に足らなかった感情を埋め合わせるように。
「カイ殿…ありがとうございました。私は自分の名をこの世界で名乗る自信がなかったんです。……貴方に名前を呼んで頂いた時、誰かに必要とされているという事がこの上なく喜ばしいものなのだとやっと想い出せたのです」
扉の前に立ち止まり、松明の灯りに照らされた岳飛の表情は穏やかさそのものであった。
彼が古びた扉を開けようとすると、経た年月以上に軋む甲高い音と共に拓けた一室が目に焼き付いた。
「あの御方の心もこの部屋のようにドス黒い暗澹に覆われています。カイ殿なら…あの御方の心を開く事が出来るかもしれません。何も知らないところから自分の名を探り当て、大切な名前を呼んでくれる貴方のような存在であるならば。…どうやら、その時はもう近いのでしょうね」
その時、背後の階段からコツ…コツという静かな響きを刻む足音が聞こえてきた。




