“万民の英雄”
「カイ、これからどうするつもり?」
「うーん…一先ずは僕達も前進して屋敷に合流するのを目的に街道を抑えるのも手だと思う。今はツェレクさん達が中堅として屋敷に迫っているけれど、僕達本陣との間には結構な距離がある。もしも、相手の将が有能ですぐに農民達の混乱を鎮められると仮定するなら、本陣と屋敷を取り囲む部隊を分断して包囲殲滅からの各個撃破なんて手も考えられる。これを防ぐためにも街道に本陣を前進させる。…ズゥオさんはどう思いますか?」
「よろしいかと。今はまだ叫び声が止む気配もなし。なればこそ街道に歩を進めて先行している部隊と合流し、早々に農民達に対して我らの勝利を高らかに宣言すべきかと。さすればこの反乱の鎮圧という大いなる大義もなし得るかと…」
「わかりました。二人の言う通り前進しましょう。特殊部隊を率いるファンさんにもこの旨を伝えておきましょう。一人の伝令を遣わし、他は全員前進します」
方針をすぐに決めて、ヨゼフ達に合流すべく本陣の者達全員で屋敷を目指す。何も見えない煙の中にあって、周囲の家々に逃げおおせた農民達の痛々しい声が反響するように街道を埋め尽くす。
先頭を悠々と騎馬に跨がり進むはズゥオさん。襲い来る者達に備えて最も危険な先陣を請け負ってくれている。その後ろに四人の領民兵を引き連れ、少しの距離を置いて僕とシャルルが騎馬を並べて歩を進め、一つ間を設けた後方に伯爵様とシャマと五人の領民兵を伴った陣形である。
街中の人々を脅やかすように流れ続ける紫煙を恐れる怨嗟の声は、さも霧の都ロンドンも興醒めだろうな…。恐怖が全ての街にいる者達を飲み込んでいた。これなら何も問題は起こらないだろう。このまま屋敷に無事に合流する。……そう、思っていた。すぐにこれが誤ちであったのを僕は知るのであった。
───甘い考えに揺られた小鹿を見逃すのを、牙を研いだ猟犬は許してくれやしないのだ。
……煙がざわめいた。最初は風の流れが変わったのかと思った。だけど…煙を割くように迫るそれは、明らかな敵意を煙に纏わせ隠しきれなかった牙を剥く。
「貴殿らがこの戦さの要たる将と御見受け致すッ!! ……御覚悟ォォォッ!!!」
混濁の最中にあって、その漢はずっと息を潜めていたのだ。ずっとこの時を…戦さの始まる前から想い描き、一撃必殺の手合いを狙って。
何かがあるとすれば、それは農民達の指揮系統の破壊である。この漢は知っていたのだ。カイの手段を、用いるであろう策を読んで今…この時を待っていた。
それがまさか童なのかと…この隊列を盗み見た時は驚愕した。隊の真ん中でしっかりと守られ、まるで大切な茶器を壊されないように丁重に扱われた童達……。
であれば、たとえ比興であろうと罵られようとも…この命が潰えようとも刀を振り下ろすのみッ!
もはやこうなっては…高貴な貴族の首を掲げ、下剋上の音を高らかに民草に響かせんッ! 貴族政治を打ち砕く狼煙になれるのなら…これ本望なりッ!! …と。
迫る凶刃を避ける術をカイにはなかった。せめてシャルルの身代わりになる事ばかりが脳内を巡る。
走馬灯たる刹那、カイはこれまでの思考に試行を重ねた日々の賜物が開花する。何が最適解であるかをたった数秒の間で脳内の算盤が弾き出す。
……視界の端に遠くで霞んで映る、かつて約束したとある万民の英雄との約束がふと過ぎった。
“仲間の誰かが命の危険に晒されてしまった時、僕はつい必死のあまり貴方の本当の名前を叫んでしまうでしょう……ズゥオさんはそれでも助けてくれますよね?”
あの時の約束を彼は覚えているだろうか。
…彼は助けてくれるだろうか。
……いいや、違うッ! 彼は絶対に助けてくれるッ!
助けを必要とする誰かのために、自分の矜持を守るためにどんな状況であろうとも手を差し伸べてくれるッ!!
かの英雄の逸話からすでに確信している…彼は間違いなくあの英雄で、こんなどうしようもない状況さえ覆す実力を秘めているとッ!!
刃があと一手幅まで来た時、遂にその名に助けを求める。
「───助けてッ! “岳飛”ッ!!!」
───その時、一筋の光が万民の英雄“岳飛”の手元から放たれた。
遂にズゥオさんもとい岳飛の名が明らかになりました。クワンが先ではなかったですね。筆者はずっとこの場面を夢見ていました。窮地を救う英雄はやはり彼であるべきだと。
日本ではそこまでの知名度はありませんが、岳飛の英雄譚は今なお人々の心をうつ物語です。彼の歩んだ人生を筆者の視点で少しずつ書かせて頂きたいと思います。
あえて子鹿ではなく小鹿の表現は後々明らかになるかと思います。




