”変人の辺境伯“
“辺境伯”。
かつてフランク王国や神聖ローマ帝国などにおいて、軍事上の重要な辺境の地を守るいわば国の盾となった指揮官兼地方長官。それが辺境伯だ。
一般の地方長官を伯爵とするなら、辺境伯にはより広大な領土に加え大きな権力も与えられる。
しかし、時代が下るにつれて役職の称号の意味合いにも変化が生じ、世襲の封建制度の波に揉まれて諸侯の爵位称号の一種となった。国や時代によって異なる権力をこの辺境伯の地位は辿る事になるが、辺境伯は侯爵にも匹敵、もしくは同等とも言える権力者とも言える。
確かに普段は自分の領土を守るために宮廷での権力を保持するのは難しいけど、それでも大きな権力を有する。なぜなら最前線で戦い続ける前線指揮官・行政を国から一手に与えられる程の信頼ある人物であるという証だからだ。
「シャルル。辺境伯にも逢っておいた方がいいんじゃない? シャルルのお父さんからの信頼も厚かったんでしょ?」
「…ッ!! ……う、うーん」
こちらの提案にビクッと身体が震え上がり、小動物が怯えた時のようにオドオドとした様子でこちらを見る。あれ? 何だか乗り気じゃないみたいだ。
「逢わなきゃいけないのはわかっているんです。けど、それでも逢いたくないというか……」
「シャルル様は男爵には逢われたいと言っているのに辺境伯には逢いたくないと? シャルル様を後押ししてくれた御方だからこそお逢いすべきではないですか?」
「うーん…そ、それはそうなんだけど……」
ズゥオさんの助言にも後ろめたそうにもじもじと手を揉み合いながら右手の甲を何度も摩っている。明らかに様子が変だ。
そういえばあの時…シャルルが王位継承について話しに触れた時って、“伯爵ともう一人の人物が亡くなる前の父に提言してくれた”って濁しながら言ってたんだっけ。
「もしかしてシャルルはその辺境伯ってのが苦手なのか?」
「ッ! …う、うん。ちょ、ちょっとね…あんまり辺境伯にはいい想い出がないんだ」
ヨゼフのストレートな物言いでようやくシャルルは観念したのか理由を語ってくれる。いつまでも右手の甲に手を置いて。
「クワンとズゥオは知らないと思うけど、ボクの右手の甲にはずっと治らなかった病があった。小さい頃からね。その事を何処からか聞きつけた辺境伯は…いきなりドンッ! って大きな音を立ててボクの部屋の扉を開けて、“私が王子の傷を治して差し上げましょうッ!!” なんて言いながら、医者の真似事をして右手の甲を針でプスプス刺してみたり、ペシペシ叩いてきたりで余計に悪化したんだよね。それになぜか塩も食べさせられたし……父にも怒られてたよ」
「と、とんでもない変人だな…」
「あとは寒い冬の日の早朝に、またしてもいきなり部屋にズケズケと入り込んできたと思ったら、いきなり服を脱がされて一緒に宮廷内にある噴水にダイブだよ。“これが身体にいいんだッ!“ なんて言ってたけど、あの時はもう…寒さで死んだと思ったよ。実際にボクはショックで気を失ってたし……父にも沢山怒られてたよ」
ドン引きである。伯爵の言っていた変人の意味とシャルルが逢いたくないと言っていた理由もよくわかった。
「シャルル。辺境伯には逢わなくてもいいんじゃない?」
「本当ッ!? やったーッ!! それならボクも嬉しいッ!!」
「何を馬鹿な事を言っているんだ。逢わなきゃダメだ。たとえ変人であっても味方につけるべきだ」
「うぅ…やっぱり逢わなきゃダメかぁ…」
僕の賢明な提案はクワンに即座に却下され、シャルルをぬか喜びのまま失意させてしまった。解せぬ。良い案だと思ったんだけどな。逢ったら僕達にまで危害が及びそうだよ。
「…王よ。今の会話で気になったのですが、”右手の甲にはずっと治らなかった病があった“などと過去の事のように仰いましたが……それに、その右手の甲…まさか本当に……」
「…うん、治ったんだ。ほら、これを見てよ伯爵」
そこにはかつての腫れ上がった肉片の跡は消え去り、もはやその姿は欠片も見えない。
本当にそんな物が存在していたかも疑わしいまでに、シャルルの手は健常であり少年の若々しい手であった。
「何と…王が国中の名医を掻き集めても治せなかった不治の病を……一体どうやって……」
愕然と慄きながら手を凝視する目は暫くのあいだ離れようとはしない。嫌悪するものではない。まるでずっと探し求めていた宝石を見つけだした旅商人のように、憐憫から歓喜へと次第に目の奥の色は移り変わっていく。
「カイのおかげだよ。それじゃあ伯爵には、これまでのボクの偉大な冒険譚の聴き手になって貰おうかな。せっかくだから帝国語で話させてね」
「……カイのおかげですと? それに帝国語とは…。どうやら王は話しの話題に欠かない御方のようだ。これ程に胸踊る終ぞなる冒険譚が聴ける日がこようとは…。長生きはするものですな」
珍妙な動物を見るような好奇心が伯爵の顔を満たし、シャルルはこれまでのいきさつを、自身の辿ってきた旅路に息を吹き込み物語を紡ぎ出す。
時刻はちょうど陽の下で街と人々がまどろみ始め、ゆったりと時が流れる頃だった。




