転生者の条件 八 抱きしめた香り
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「………カイ? 泣いているの?」
「…え?」
目を開けるとそこにはイレーネがいた。心配そうにこちらを見ているが、何を言っているのかわからない。
だが、頬に手を当ててようやくわかった。頬を濡らし、今でも肌を湿らせ続けているものの正体に。ゆっくりと手を目元まで上げていくと、目からは大粒の涙が滴り続けていた。
「…大丈夫?」
憂いげに気遣う少女の姿はいつも以上に眩しく見えた。月明かりに照らされた神々しさがそう錯覚させているのだろう。そう思う事にした。
指先に繊細さが宿るしなやかな手を伸ばし、未だ肌を濡らし続ける涙の雫を指に乗せ、柔かな指先からするりと地面に滴っては消えていった。
「不安…なのよね?」
そのまま僕の頬を少女の手が覆う。今にも吸い込まれてしまいそうな緻密なガラス細工で造られたような美しい目が、こちらを真っ直ぐに見つめてくる。
すぐに目を逸らした。今だけは…真っ直ぐにその目を見つめる事は不可能に思えたから。……どうやら幻惑の作用もあるようだ。彼女の神々しさにあてられて、僕の心臓は急速に刻む音を早めていく。
「ねぇ、カイ」
だけど、すぐに自分の行いを後悔した。目を逸らしたために彼女が僕の耳元まで近づく口実を与えてしまった。
「ちょっと…いい?」
吐息が…耳にかかる。
……距離が…近い、近過ぎる。
お願いだ…離れてくれ……
これ以上、みっともない姿を彼女に見せたくなかった。
だって僕の心臓は…夜の静けさを破るくらいに大きな音を立てていた。その原因は間違いなく、僅か数センチの距離にいる彼女だった。
そんな想いが通じたのか彼女は一瞬だけ離れた。
良かった…その一文字が頭を過るかに思えたのも束の間。
ギュッと、彼女は僕の顔を抱き締めた。
膨らみかけの胸の感触がほんの一枚の布越しに伝わってくる。もう本当に本当に逃げたくて仕方なくなった。
羞恥心やら焦りやら動揺が身体中の血流と共に駆け巡り、全身の体温が急激に上がってしまう。
「大丈夫…大丈夫だから」
さらに抱き締める手に力が籠もり、彼女は自分の顔を僕の頭に埋もれるようにしながらこう言ったのだ。
「以前の貴方の事は…何も知らない。でもね…カイ、それでもいいのよ。カイ…貴方は“カイ”よ。私は…カイの事を良く知っている。今のカイを私は知っている。だからね…自分に自信を持って。……今のカイにも立派な“名前”があるんだからね。もっと…自分を大切にして」
それは、間違いなく誰かを想った言葉だった。他でもない…この世界における僕の”名前“を、彼女は愛おしそうに何度も呼びながら。
……そうか…そうだったんだ。確かに僕は…自分の過去ばかりを気にして、今の僕を…この世界の自分を受け入れるのがずっと怖かったんだ。
だからこそ自分の過去を振り返るのを躊躇い、怯え、逃げてきた。今の自分が…本当の自分じゃないような気がしていたから。
でも、そんな僕を彼女は受け入れてくれた。”カイ“という名前に生気を、生きているという証明を言葉に乗せて。
目を閉じると彼女の鼓動の音が聞こえる。静かなひと時にあってとりわけよく聞こえた。それはとても穏やかな音色だった。
ギュッと僕は彼女の身体を抱きしめた。蕩けるような甘い香りが優しく包み込んでくれる。
……あぁ、何だか懐かしいなぁ。…そうだ、これは母さんと同じ香りだ。
そうだよ、この世界でも大切な父さんと母さんがいた。…この世界にも大切な人がいた。今でも抱きしめてくれている大切な家族がいる。
それを知った時…僕は彼女の鼓動の音に紛れて、声を殺して泣いたのだった。
明日から盆休みなので投稿再開出来そうです。長く待たせてしまいすみません。




