”左“ ”翠微“
「はぁー、何だか目には見えない重圧を感じてなりませんよ…ズゥオさん」
「ふふ、では私もさらなる重圧をかけさせて貰いますかね。楽しみにしていますよ、カイ殿」
「ちょっ…! ズゥオさんまでッ!?」
「ふふふ…あはははっ!」
揶揄いを交えた上機嫌なズゥオさん。この人との付き合いは短いけど、何となく普段よりも機嫌が良いのはわかった。
少しでも前向きに未来が進んでいるこの状況が喜ばしいものであるようだ。
「料理に使う物なんですが、汁物に使う野菜が欲しいです。あとはベーコン…じゃなかった、豚のお肉もあれば嬉しいですけどありますか?」
「えぇ、ありますよ。野菜はカイ殿達が寝ていたあの部屋に。動物の脂肪と豚肉はこちらにあります。先にこっちを取りに行きますか。豚の肉については残念ながら生肉はありません。塩漬けにした肉ならあります。それで大丈夫でしょうか?」
「えぇ、大丈夫です。それにしてもよく豚肉なんてありましたね。僕はてっきりない物だと思っていたのですが」
「流石に我々も肉は食べたくなります。時折、外にいる賊の隙を見ては山を駆け降り、この山の麓にある村で豚肉と我々の育てた米を物々交換していたんです。どうやら米は物珍しかったようで、喜んで豚肉と引き換えてくれました」
ドーファンも近くに村があるとは言っていた。
どうやらその村との交友はあるみたいだ。
この会話で思い出し、ずっと気になっていた事を聞いてみる。
「ふーん、そうだったんですね。…ズゥオさんの実力なら賊を倒して山を降りたり、もしくは賊自体倒す事が出来たんじゃないですか?」
「そうですね。無論それくらい出来たかもしれません。ヨゼフ殿のように一振りでという訳にはいきませんがね……。時間をかけてゆっくりと狩っていけば賊を討伐出来たでしょう」
まさに狩人のような言い草で出来ると断言した。
それならどうして…。
「ですが、それにはかなりの時を要します。それに賊に山を占拠して欲しかった理由もあったので、私達は当分の間は放置しようっという結論に至っておりました。……キャロウェイから聞いていませんでしたか? この山には沢山の魔物がいた事を?」
「…あッ! そっか……」
なるほど。ズゥオさんは魔物が沢山いたから、それらを討伐してくれる賊という存在をあえて放置する事で利用していたんだ。
「おかげでほとんどの魔物はこの山からいなくなりました。まさか魔物を使役する術があったとは思いませんでしたがね。ですが、賊の手を使ってこの山にいる魔物を一掃出来た」
「結構ズゥオさんも策士なんですね」
「なぁに、カイ殿には及びませんよ。私は効率良く勝つ事を常に考えて生きているだけです」
武勇だけじゃなく頭を使った戦い方も心得ているのだろう。
だからこそ近隣諸国の力がなくても、帝国と渡りあえたんじゃないかな。
一体、ズゥオさんって誰なんだろう……そうだ…。
「ねぇ、ズゥオさん。僕、ずっと気になっていた事があるんです。”ズゥオ“って名前と、ズゥオさんが名付けたっていうこの地の名前の”スイウェイ“って名前……これってどんな字で書くんでしょうか?」
ピタッと歩く足を止めて僕の顔を覗き込む。
恐らく、どこまで明かしていいのかを葛藤しながらも、僕に打ち明けるべきかをこの目を見て判断しているんだ。
ならば、真剣にズゥオさんの目を…その瞳の奥に広がる感情に訴えかける。”信じてくれ、だから教えて欲しい“と。
そんな想いが通じたのか、ズゥオさんは薄く微笑みを浮かべながら受け入れてくれた。
「……わかりました。カイ殿が知りたいという理由もよく理解出来ます。せっかくドーファン様、いえ…シャルル様にお仕えする志しを抱く者同士です。お教え致しましょう。但し、一つだけお願いがあります。この先…何があってもクワン様を見捨てないで頂きたいのです。あの方は癖がある分、皆様の不快も買いますでしょう。それに…カイ殿があの方の本当の名を知った時に、貴方が失望するかもしれません。ですが…あの方以上に”国のために生き、国のために己を殺した“人物はいません。どうか……あの方の想いも汲み取って欲しいのです」
切実な願いだった。
この人は…自分よりも他の人のために生きる事を旨とする人物のようだ。
……”尽忠報国“。この言葉には二つの意味がある。
文字通りの国のために忠を尽くし報いるという意味。国家への忠誠だ。
だが、時としてそれは対象が国ではなくなる時がある。
国…つまり国家君主。
皇帝や王のために忠を尽くし報いる事を指す場合があるのだ。そして恐らく…ズゥオさんは後者を旨とし、そういう時代に生きた人物なのだろう。
だからこそ、仕えるべき君主へ求める想いが…人への想いの強さが誰よりも深いのじゃないのだろうか……
「わかりました。もし、失望したとしてもクワンさんの想いときちんと向き合うと約束致します。…僕もクワンさんの事をもっと知りたいですから。もちろん、ズゥオさんの事も…」
微笑み返して彼の想いに応えてみせた。
貴方の事も知りたいという想いを添えて。
「…ありがとう。カイ殿だけでも理解してくれると知れただけで、心のつっかえが一つ取れました。では、願いを叶えて頂いた御礼に…この文字を貴方に」
炊事場の床に張り巡らされた木板は歩く度に軋み、緊張のあまりに滴り落ちた僅かな汗は、木板に吸収されると夏特有の気温の上昇につられて緩りと蒸発し、表面の水滴は幾十も経たずに消え去った。
優男は炊事場から外に出、家の周りを囲った池の水に手を浸すとすぐに戻ってきた。
膝を屈めてしゃがみ込み、木板に自身の人差し指に残った水分をインクにしながらこう書き綴った。
”左“
”翠微“……と。




