"幻の英雄 ヨゼフ・バッセベテ 二"
第百七十六節
ヨセブ・バッセベテ。ヨシェブ・バシェベド
彼の名前の訳し方は資料や箇所、翻訳によって異なる。ヤショブアムという名で記されている聖句もあるが、ヨゼフの事を指していると思われる。
彼はペリシテ人との戦いで大いに活躍し、出陣すれば八百人を倒したという豪傑である。旧約聖書の中においてヨゼフ程の活躍を見せた者はかなり少ない。
その武勇に並びし者こそ、アホアハ人トドの子エルアザル。そして、ハラル人アゲの子シャマである。
エルアザル。ペリシテ人との戦いでイスラエルの兵士達が退却しても、彼はそこに踏み止まり、手が剣について離れなくなるまでペリシテ人を討ち続けて、遂にはペリシテ人達は敗れた。イスラエルの兵士達がエルアザルの元に戻ってきたのは、倒れたペリシテ人達から物資を奪うためだった。
シャマ。ペリシテ人がレンズ豆の密生した畑に集結した時、イスラエル人の兵士達は退却した。しかし、シャマは畑の中に踏み止まって戦い続けて、ペリシテ人を討ち続けた。
これが三勇士の偉業の数々だ。味方が逃げたとしても彼らは戦い続け、味方を守ろうと踏み止まり続けた。
彼らの勇姿は多くの者の心を打ち、それはダビデ王も例外ではなかった。
ある時ダビデは,“ベツレヘムの門のそばにある水ための水を飲めたらよいのに”と口にし、それを聞いていた三勇士はペリシテ人の宿営に無理に突入して,ベツレヘムの門のそばにある水ためから水を汲み,ダビデの所に持ってきた。
しかしダビデは飲もうとはせず、地面に注ぎ出してこう言った。「神よ、命を懸けて行った者達の血を飲む事など,私には考えられないことです!」
ダビデは水を飲もうとはしなかった。自分のために、死ぬ覚悟を決めてまで取ってきた水を、飲むことはできない。二度と自分のために、ここまで危険なことはしないで欲しい。水よりも従者であるヨゼフ達のほうがよっぽど大切だとダビデは叫び、その水を神に捧げたのだ。
彼らを綴った物語はかなり少ない。彼らがいなければ、ダビデはサウルから逃げ続ける事も、ペリシテ人と戦い続ける事も、そして、王になる事すら叶わなかっただろう。
ヨゼフはダビデが権力を得ると、二万四千人からなる軍の部隊長に任じられる程に、ダビデからの信任を得ていた。
その後の彼らの最後は知らない。歴史は彼らがどうなったかを語っていない。いつの間にか歴史の表舞台から消え去ったからだ。
そんな勇士達は、彼らの敬愛する王が亡くなった後に、ほんの少しだけ王位継承の政争で名前が出てくるくらいだ。
歴史の影に埋もれてしまった勇士達。その輝かしい活躍と武勇に反して、彼らの名は次第に人々の記憶から忘れ去られてしまった。
「──本当に、本当に実在したんだ」
あまりの現実離れした光景に、頭の理解は未だ追いついていない。ようやく絞り出した内容は、ヨゼフ・バッセベテという過去の英雄の名前だった。
けど、僕以上にハイクとイレーネは大いに興奮していた。
「ヨゼフ師匠ッ!! 本当に凄いですッ!! たった一振りであんな一撃を放てるなんてッ!!」
「ヨゼフッ!! 凄〜いッ! ヨゼフ一人いればこの旅もへっちゃらねッ!!」
わいわいとヨゼフを讃える言葉を並べる二人に対して、キャロウェイお爺さんとドーファンは、怪訝な顔で僕とヨゼフを見比べている。
「…………」
「……はて、儂はヨゼフの名の全てを聞いた事はないが……カイ、お前さんは聞かされていたのか? それに幻の英雄とは…」
視線には沢山の意味が込められていた。懐疑的であり疑念を抱かせるだけの名前。それが持つ意味をキャロウェイお爺さんは疑問に思い、ドーファンは僕とヨゼフのあの時の会話を思い出しているのだろう。
「──僕は多分、貴方を知っている」
「っ!? おい! それってどういう……」
「だけど、今は口に出来ない。口にすべき時は、まだだと思う。僕は貴方が貴方であると確信した時にこそ、それを告げなきゃいけない」
ジャイアント・グリズリーに襲われ、ヨゼフの一族の祈りを模倣した祈りを見られた時に僕は言った。
貴方を知っている、と。僕はこの時の出来事や、焚き火を囲んだ時のヨゼフの話しを聞いて、ヨゼフはあのヨゼフ・バッセベテじゃないかと考え始めていた。
これだけの意味不明な怪しげな発言をした僕に対し、ヨゼフはこう約束してくれていた。
「お前が俺を信用して本心を打ち明けたように、俺もお前を信じる。その理由は言わなくてもわかるはずだ。お前の言葉は明らかに、この世界の奴の言葉じゃねぇ」
「それだけわかれば充分だ。少しは納得出来たからな。お前の持つ不自然さにも。そして、これは命令だ。あの祈りは二度と俺ら以外の人前で行うな。わかったな?」
「………うん、わかった」
「そして、これだけは誓って欲しい。俺が俺であることをお前がわかった時、お前も本当のお前を教えろ。約束出来るか」
「約束する。その時は笑いながら話し合おうね」
「………あぁ、約束だ」
そして、槍を片手に立ち尽くす一人の英雄は、こちらを振り向き僕の方に近寄って来る。真っ直ぐに僕だけを見据えて。僕の前に立つ。それだけで酷く心は乱れる。
何をヨゼフが言うのか、とても緊張していた。だけど、それ以上に僕は違う意味でも緊張していた。
「……まさか、本当だったとはなぁ。俺の事を知っている奴がいたなんてな……。まぁ、何にせよ」
ポンっと肩を叩かれ、優しげな瞳のままにこう言った。
「……これでお互い、もっと笑いながら話せそうだな。カイ」
交わした約束を忘れないでいてくれた。それだけで心は温かくなる。……けど、けどね。僕はそれ以上にすでに心が活力で漲っていたから。
だって、だって………
「ほ、本当にヨゼフはあのヨゼフなんだねッ!! うわー、うわーッ!! 僕、ヨゼフとダビデ王の話しが大好きで何度も何度も読んだんだッ! ねぇ、ねぇ! 何でダビデ王に仕えようと思ったのッ!? どこでそんな槍を倣ったのッ!? どうしてあの時あの選択をしたのッ!?」
「な、何だッ!? どうしたってんだカイッ!? は、離れろッ!!」
ゆさゆさとヨゼフの衣服を掴んでは揺さぶり詰問する。だってあのヨゼフ・バッセベテだよッ! 英雄の中の英雄ッ! 名だたる三勇士の一人だよッ! 興奮せずにはいられないじゃないかッ!
「だぁ〜〜、もうッ! は・な・れ・ろってんだぁッ!! 今はまだ油断する時じゃねぇんだよッ!」
へ? 油断しちゃダメなの? だって賊は討伐したばっかで、ここにはもう脅威となる敵はいないんじゃ……
無理くりに僕を引き離すと、背後の断崖絶壁の方へと目をやる。
「…おいッ! 誰だッ! さっきから覗き見とはいい根性してるんじゃねぇか……さっさと姿を見せろッ! じゃねぇとテメェも斬るッ!!」
先程振るったばかりの槍をそちらへ掲げると、何もないように見えるただの壁に向かって、猛々しく言葉も振るう。
……明らかに賊への態度以上に、警戒がその表情と言葉には表れていた。
一体、何が……。
ヨゼフの目線は高い高い場所へと向けられていた。その視線を追うように目線を上げていくと、夜空の暗闇が包む中に、僅かながら異なる色が星々の光に照らされていた。
異なる色のそれが人である事に、ふらりと動いてようやく気付いた。全身を甲冑で覆い、矢を番えた構えを解き、こちらへの攻撃意志がない事を示した。
谷間へ落とし込まれるように放たれた声は、とても透き通るようによく響き、僕達を安心させるだけの声音を帯びていた。
「……素晴らしい槍捌きでした。深く敬意を表します。私は貴方達の敵ではない。だが、一つだけ私は問わねばならない。………禁足となったこの土地に、何用で参られた?」
この時期も忙しくなるので、投稿頻度が下がってしまいそうです。予めご了承ください。




