“希望とは” 一
第百七十三節
「ヨゼフッ! 本当にこのまま進んで大丈夫なのッ!? この先に罠とかあるんじゃないのッ!?」
不利な状況に望んで身を投じているとしか考えられないこの展開に、イレーネは叫び声を上げて抗議する。
「あぁ、これ自体が罠だろうなッ!」
断言した内容にイレーネは絶句する。それがわかっていながらどうして……と信じている者への信頼を失いかけそうな表情へと転落する。
それに、僕は不思議だった。百戦錬磨であろうヨゼフがどうしてあんな道を通ったのか。他にもやりようがあったのではないか。
……恐らくだけど、あそこに賊が潜んでいる事も初めからわかっていたんじゃ……
「ア、アレを見て下さいッ!」
ドーファンが指差したその先に簡易的な杭による防壁が設けられ、隙間から矢の雨が飛んでくる。
「退避だッ! こっちの道に行くぞッ!!」
矢の雨から逃れるように、分かれ道のもう一方へと大きく急転させ矢の被害を受ける前に、その場しのぎの転進を果たす。
「ヨ、ヨゼフ師匠ッ!! また分かれ道ですッ! 奴らも待ち構えていますよッ!」
「構うなッ! 放っておけッ! また同じように逃げればいいだけだッ!!」
ひたすらに、ずっとひたすらに逃げ続ける。同じような分かれ道が訪れる度に、矢の雨に恐れをなして逃げているように、反撃の狼煙を上げることもなく。
逃亡に次ぐ逃亡は、仲間達の心に大きな乖離を生んでしまう。本当にこのままでいいのか……そして、ヨゼフを本当に信じてしまってよいのだろうか…と。
「ヨ、ヨゼフさんッ! これは絶対に罠ですッ!! 賊の狙いはこちらを特定の場所に誘い出そうとしていますッ!! そのために幾つもの分かれ道で待ち構え、逃げて欲しい道をあえて空かしていると思いますッ!! ここは一旦攻勢に出るべきではッ!?」
「ダメだッ!! このまま敵の思惑に乗りそのまま突き進み続けるッ!!」
…唖然とさせるだけの力がその言葉にはあった。なぜ…なぜそれをわかっていながらも突き進み続けるのか。その罠というのは間違いなく、僕達を決して逃そうとしないための罠であろうに。
「ヨゼフ師匠ッ! 馬鹿な俺でもわかりますッ! これは俺達を疲れさせて、疲れ切ったところを狙ってくる作戦ですよッ! このままじゃあ……このままじゃ俺達はッ!!」
ただ必死に子供でもわかるような敵の罠の危険性を、尊敬する師匠であるヨゼフに伝えようと努めるハイク。
また分かれ道が訪れた。また矢の雨が飛んできた。……また、その雨から逃げるように逃げ惑った。
みんなも何を信じていいのかわからなくなっていた。ヨゼフを信じていいのか。本当にヨゼフは僕達を守ろうとしているのだろうか。
だが、その足を止める事はない、止めてしまえば後ろから迫って来る賊になぶり殺され、無惨な最後を遂げてしまうだろうから。
下を向いてしまう。もはや希望などないのだろうか……。どうすればいいのかわからないという状況で、無慈悲な暗闇の夜空には光は見当たらなかった。
「カイッ! 松明だッ! 松明を持って、爺さんに火をつけて貰えッ!!」
暗い雰囲気を振り払うように、松明を灯せと叫ぶヨゼフ。足元も暗くなってきたから当然だろう。だけど、この状況で火を灯してしまえば、みすみすと賊達に僕らの居場所を教えるようなものじゃ……。
不可解な言動に首を傾げながらも、指示通りに麻袋の中から松明を取り出し、いつも火打ち石を常備しているキャロウェイお爺さんに火をつけて貰う。
火が灯り、周囲を明るく照らす。暗い雰囲気の中に少しばかりの明るさは前向きな気にさせてくれた。
………その筈だった。だが、すぐに明かりをつけた事を後悔した。その先にあるものを見上げてしまい、それがもう避けようもないくらいすぐ目の前に立ち塞がり、もうじきそこに辿り着いてしまう事に気付いてしまったから。
「ヨ、ヨゼフッ!! これ以上は先に進んじゃダメだッ! だってこの先はもう……ッ!!」
目の前に立ち塞がるは白に似た灰色の壁。それは先ほどまでの岩壁と比べるのは憚れるほどの断崖絶壁。もはや、そこに辿り着いてしまえば逃げられない。
……僕達は嵌められたんだ。賊は全く逃げられない状況の中、圧倒的な兵力差を持って疲弊し切った僕達を殺すつもりだ。
初めから抱いていた懸念は、最も残酷な形で実現しようとしていた。
深い間があった。ヨゼフは返事をしてくれない。けど、それでも捻り出したように叫んだ声は、取り繕うような言葉もなく、ただ率直に…ただ愚直に…何度も聞いた言葉を繰り返す。
「………前進だッ!!!」
もはや手の施しようもないくらい、みんなの想いを無視するようにヨゼフは終始一貫して前進を決める。
決定事項……だったのだろう。しかし、今回ばかりは周りのみんなは許さなかった。黒雲達の足を止めることも出来ないままに、ヨゼフへ自分達の想いを打ち明ける。
「ヨゼフさんッ! こんな時にあんな場所に逃げるのは愚策の中でも愚策、愚かな人のすることですッ!! 今すぐ他の場所に逃げましょうッ! 幸い、ここは山の中だ。山中を逃げ回れば、上手く敵の追跡をかわせるかもしれませんッ!!」
ドーファンが至極真っ当な意見を述べる。普通なら誰もがそうする。だが、ヨゼフの意見は覆らない。
「ダメだッ!! この山中は奴らの根城だ。こんな中を逃げ回ったところで、奴らに地の利がある。いずれ体力の尽きたお前らが、奴らに殺されるのが目に見える」
「いいか、奴らは広範囲に分散しながら俺らを追ってきている。それを一つに集めるんだッ! 今はこの松明を目がけて追い詰めようとしているだろうな。…奴らを全員一つの場所に集結させることを考えろッ! あんな窪地だからこそ俺らに勝機がある! 俺を信じろッ!!!」
普通、今の状況でこんな事を言われれば正気の沙汰じゃないと思う。みんなの顔が血の気の引いた表情になっていて、ヨゼフの言っていることを疑っている。
「ヨゼフ師匠ッ!! お言葉ですが、そんな事をしたら俺らは逃げられなくなりますよ! 敵が一箇所にまとまってしまえば、俺ら五人と山賊全員が対峙することになって、俺らの体力が尽きればもうお終いですッ! あそこに逃げれば殺されに行くようなもんですッ!!」
そんな反抗も虚しく未だ前進を辞めない僕達の前に、その絶望が現れた。
扇状にそびえ立つ断崖絶壁の崖があった。つまり、その場所は一方向以外が崖に囲まれた場所。川を背にはしていないが、まさに背水の陣のような場所だった。
何でそんな場所に前進をしようとしているのかを理解出来ない。絶体絶命の危機に瀕しながらも、なお自らを死地へと追いやるような指示。
心を狂わせ、想いを壊してしまうには十分だった。
「そうよッ! あそこはダメよッ! あんな所に逃げ込んだところで、もう逃げるだけの体力なんてアイリーン達には残ってないッ!! 希望なんかあんな場所にある訳がないッ!! あんな場所で立ち尽くして待っていても希望なんて訪れないわ……お願い…私達の言う事を聞いてよ…ヨゼフ……」
黒雲達もゼェゼェとした息を吐きながらも懸命に走り続けている。懸命に生きようと走り続けている。しかし、あんな場所に逃げ込んだとしても、囲い込まれて死の淵に追いやられるだけ。そこには希望も何もない。残るのは僕達の死だけだ。
怖気づきながらも、みんな必死にヨゼフを説得しようと頑張った。……けど、ヨゼフは自分の信念を曲げる事はなかった。
半信半疑ではなく疑念しか残っていないであろう、全員に向けて言葉を紡ぐ。
「………俺が言った言葉を覚えているか?」
唐突に響いた言葉は優しげで、その場の喧騒に似合わないだけの穏やかさを含んでいた。
「……俺のやろうとしている事ってのは、普通だったら間違いなくこうするっていう先入観を利用し、実はそれが奴らにとって絶対にこうせざるをえない選択肢だった……って貶めようってのが魂胆だってお前らに教えたよな?」
よく覚えている。本当にヨゼフの言葉の真意を掴みきれなかったから、あの場面ごと思い出せるくらいだ。
「……今、この時がそうだ。あと一歩…あと一歩で奴ら全員を追い込む事が出来る。……お前らの不安は痛いほどにわかる。怖いだろうよ…もしかしら自分は死ぬかもしれない……そう考えただけで進みたくもなくなるだろう……」
「……頼む。俺を信じてくれ。俺はお前達を誰一人死なせやしない。俺はお前達を必ず守る。必ず俺が…お前達の生きる道を切り開いてみせるッ!!!」
……あの時と…同じ言葉だった。
あの時、僕はなんて言ったか………忘れる事なんてしないさ。
だって、あの時の約束は…僕にとって大事な約束だったから。
……もう一度、あの時と同じ誓いを胸に宿し、同じ言葉を紡ぎ出す。
「…僕は……僕はヨゼフを信じる。……だって、ヨゼフは大事な仲間だから。その大事な仲間の言葉を…僕は信じたいッ!!」
……疑う必要なんてなかったんだ。だって、大事な仲間な言葉だもん。僕はヨゼフの想いを信じるんだッ!!
そうだ。僕の信じるヨゼフという偉大な英雄は…どんな逆境であろうとも立ち向かい続けてきたじゃないか。
…その時、ふとある英雄の記述を思い出す。それは、かつて古き書物に記された…とある英雄の伝説を。
……待って…もしかして…ヨゼフのやろうとしている事って───
…そうだった。ヨゼフというあの英雄は……
もはや…迷いはなくなった。僕は何があってもヨゼフを信じる。信じるだけの根拠がある。
「ハイク、イレーネ、ドーファン……みんな、どうかヨゼフを信じて欲しい。僕の知っているヨゼフっていう偉大な英雄は、どんな時でも…どんな窮地でも……どんな敵が立ちはだかろうとも…仲間を救ってきた。お願いだ…信じて……」
「カイ……」
僕の方を振り向きながら神妙な面持ちをしたイレーネは、とっても苦しそうな表情だった。何を信じていいのか……どこに助けを求めればいいのか……。
そんな苦渋を深く味わいながらも、イレーネは決して泣く事はない。……本当に強くなったね。僕はイレーネの真っ直ぐな想いを信じているよ。
はぁ〜っと深い溜め息の後、いつもの調子を取り戻すように、朗らかな表情で仲間を信じる想いをぶつける。
「……わかったわ。私もヨゼフを信じる。やっている事はほんっと〜によくわかんないけど、ちゃんと私を守ってよね」
イレーネは信じる道を選ぶ。後はハイクとドーファンだ。
「……俺もヨゼフ師匠を信じる。師匠のやろうとしている事は理解出来ないけど、カイの言うように、師匠は俺達をいつでも守ってくれていた。…だから信じたい」
「……宣誓の儀を誓い合った仲間です。ヨゼフさんの言う事を信じます。……ただし、次からはちゃんと説明を求めますっ! もやもやして気持ち良くありませんからっ!」
「ありがとう、みんな……」
みんなが一つに纏まっていく。それだけでより一層の絆が強まった事を確信する。
「おや、カイ? 儂の意見は聞かんのか?」
「キャロウェイお爺さんは、最初からヨゼフを信じていますよね? 意見する訳でもなく粛々とヨゼフの指示に従ってますし……」
「わっはっはっはっは!! その通りじゃなッ! 儂は最初からヨゼフを信じておる。今でも何をするのか楽しみじゃッ! ヨゼフ、存分にお前さんがやりたい事をやればいいッ! 期待しておるぞッ!!」
全ての全権をヨゼフに委ね、みんなも同じように微笑を浮かべながらヨゼフへと目を見やる。最後に僕も笑いながらヨゼフへ想いを託した。
「ヨゼフ……その槍を振るうがままに振ればいいと僕は思う。後は任せたよ」
あの時の約束は果たしたよ……ヨゼフ。村を出る時に僕に託した信頼に対して、少しは応える事が出来たんじゃないかな。
みんなの想いを一身に預かったヨゼフは、最後に後ろを振り向きながら呟いた。
「………助かる。後は俺に任せてくれ」
もはや逃げ場などなかった。絶対絶命と思える窮地へと追い込まれ、僕達は断崖絶壁に囲まれた窪地へと踏み入れた。
先頭を走っていたヨゼフは立ち止まり、槍で自分の後ろに行けと指示を与える。黒雲から降り、額を撫でながら“ありがとうな。今は後ろに下がってろ”と語りかけると、賢い黒雲は僕達の方へと早足になりながら駆け寄ってくる。
僕のそばに近寄って来たので、安心させるように同じように額を撫でてあげる。
「俺の前には決して出るなよ。……それとな…イレーネ、一つだけ教えといてやる」
大きく振りかぶった槍を手に、かの英雄は石突を地面に突きつける。
「……希望っていうのは、ただ待っているだけの奴のための言葉じゃない」
その勇姿は、暗い夜空でも輝いて見えた。眩いくらいに真っ直ぐな想いを英雄は抱いていた。
「自らが待ち望んだ未来を実現させようとする奴のもとに……自然と望んだことが舞い降りる神の奇跡の事だッ!!」
──まさに今、神の奇跡を実現させるべく一人の英雄は立ち向かう。
やっとヨゼフの名前が明らかになります。ようやくですね。長らくお待たせしました。
次は“幻の英雄”です。




