湿原
第百六十四節
あれだけ大きかった声が尻すぼみになる頃、辺りには僕達だけとなった。もう無言でいる時間はお終い。
チラッと後ろにいるキャロウェイお爺さんを見ると、小さく頷いてくれた。話してもいいみたいだ。
「ヨゼフッ! とっても格好良かったよッ! 僕、思わず声が出そうになるくらい興奮しちゃったッ!!」
「俺もですッ! ヨゼフ師匠は本当に凄いですッ! 何て言ってるか全然わかんなかったけど、村のみんなの心をあんなに動かすなんて、感動しましたッ!!」
少年魂を揺さぶる一幕を見せつけられて、僕とハイクの心にじーんとくるものがあった。うん、まさに英雄たる姿だった!
「私もヨゼフの事を少しは見直したわ。村長さんにお金を返してたしね。ヨゼフがお金のために戦う人じゃないって事を、私には理解出来たわ」
「……ボクもです。自分の栄誉となるそれだけの所業を、厭わず行おうとしているのに、広く知られる機会を自ら捨て去るなんて……利益を追い求める人間には不可能な事ですよ」
冷静に状況を分析したイレーネとドーファンは、ヨゼフの行いの本質を突いていた。そこだよね。普通ならあそこでお金を受け取ろうとするよ。
「そうか。それは良かった。お前達の俺への評価は高くなったみたいだな。どんぐらい格好良かったか?」
「それはもう、とっても!」
「……その一言がなければ、もっと格好良かったわよ。はぁ〜、やれやれね…」
ヨゼフへの反応に著しく温度差のあるハイクとイレーネだったけど、二人は共通の笑顔を浮かべていた。
返事には着飾った言葉はなく、愛嬌のある遊び心に溢れていたから。
「だろっ! あれでいいんだ! あれだけで村のみんなの顔に笑顔を作れるんだったら、俺はそれで満足なんだっ!!」
「……でもなぁ、ヨゼフ。ギルド長に報告はしとかんと、後でバレた時エライ目に遭うぞ」
「それがどうした! 時にはああいう事もしとかないと、ギルドの評判にも関わってくるだろう! 俺はギルドの株上げに貢献したんだ。怒られてもこれで言い返す!」
「い、いやぁ。それでは公平性に欠けるのじゃが……」
「うるせぇ! 公平もクソもあるか! それならこの世界そのものが不公平だろ! 民はひもじい生活を強いられ、貴族共は肥えていく一方だ! そんな事を言われたらこれで押し通してやるよ!」
「し、しかしのぅ……」
「ぷふっ……ぷふふっ……」
「「「「あっはっはっはっは!!!」」」」
キャロウェイお爺さんとヨゼフのやりとりが、言い訳じみた子供と、その返事にほとほと疲れきった親のように見えたら、自然と笑顔が溢れ出した。
村を出る前はヨゼフほ方がキャロウェイお爺さんを子供扱いしてたけど、今では立場が反転している。
にも関わらず、困っているのがキャロウェイお爺さんの方だっていうのも、笑いのツボに入るものがあった。ぷふふ…ヨゼフは聞かん坊さんだね。
「それはそうと、ここから暫くの間はひたすら真っ直ぐに駆け続けて行くぞ。今日は
山に入る手前で野営を張る。まずは奴らに気付かれない安全な場所まで足を進めるぞ」
「「「「「おぉーっ!!!」」」」」
一斉の声を上げてヨゼフの指示に従った。今日はこのまま平原を駆け続けていくだけで一日が終わりそうだ。
そこからしばらくの間は、平原の間をひたすらに駆け抜けて行った。ふと空を見上げると、天頂を超えた太陽が沈み始め、夕焼けの空が広がろうとしていた。
もう、こんなに時間が経っていたのか。かなりの距離を移動したんじゃないかな。お昼ご飯も抜きでそのまま突っ走って来た。
お腹の虫もぐぅ〜っと合図を送ってくる。お腹空いたなぁ……。みんな走りながら皮袋に入った水を飲んでいた。
水分補給が主な目的だろうけど、お腹の減りを誤魔化すのも兼ねているのだろうね。僕も全く同じ目的で水を飲んでいるからよくわかる。
「あら? カイもお腹が空いたのね。私もそろそろって感じね」
同乗しているイレーネも虫の音を聞いて相槌を打つ。やっぱりお腹が空いてくる時間に差し掛かっているようだね。
アイリーンの背に乗っているとはいえ、ずっと乗っているだけで筋力も体力も使う。賊に気付かれない位置まで駆けると言っていたけど、はてさてどうなるのやら…。
「……そろそれだな。腹も減っているだろうが後もう少しだ! ここからは陽が沈み切る前に辿り着くぞ!」
僕とイレーネは顔を見合わせて喜んだ。あと少しだって! よし、もうちょっと我慢だ! そう思えたらさっきまでのお腹の減りは多少収まった。僕も現金な性格をしているとつくづく思う。
さらに駆け続けていくと、何やら地形が少しずつ変化し始めた。……あれ? 葦の草が生えている。
すると、目の前に小さな森が見えてきた。だが、ヨゼフは進行速度を緩めない。焦った声でドーファンがヨゼフに質問する。
「ヨ、ヨゼフさん! 今日は森に入らないんじゃなかったのではっ!? 流石にいきなり侵入するのは……」
「大丈夫だ。ここは賊のいる森とは別だ。それにここは森って言うよりな…」
そこから小さな森の中に入って行くと、周りの木々の姿は徐々に減少し、最初は平原にまばらに生えていた葦は、次第にそれは群生を形成する程にまでになり、森の中心地と思える拓けた場所に着くと、僕達の背丈を超える程の葦が沢山生えていた。
「ここは湿原だ。賊の拠点になるには小さ過ぎるが、俺達が一泊するには安全な隠れ家となってくれる。一先ず今日はここで休もう。お前達も疲れただろう」
子供組は一斉にふぅ〜っと重たい息を吐き、地面に降りるとそのままコテッとへたりこんだ。
いやぁ〜疲れたー。
「わっはっはっは! 流石のお前さん達でも疲れたか。そりゃあそうじゃろうな。かなり無理のある速度だったしな」
「そ、そうなんですか?」
「うむ。ここまでは普通は飛ばしてまで走らん。今回は先を急ぐというのもあったし、後は空じゃな」
「空…?」
そう言われて空を見上げる。すっかり夕闇が辺りを包み込み、最早夜の訪れも差し迫っている事は明らかだった。
「夜になる前にここまで辿り着くには、かなり急ぐ必要もあったんじゃ」
「……誰かさんが、もう少し早めに支度を整えていてくれれば、もっと余裕があったんだけどな」
「うぐぅっ……」
バツの悪そうなキャロウェイお爺さんを横目に、ヨゼフは再び黒雲に跨った。
「よし、んじゃ俺は念のため周囲をもう少し探索してくる。爺さん、こいつらの事を頼んだ。一緒に飯の準備を済ませてくれ」
「お、おう。任されたっ!」
一人、周囲の見廻るためにヨゼフは離れて行った。…よくあんなすぐに動けるよね。疲れていないのかな。黒雲もだけど。
「さて、この中で儂と共に森の中に入ってくれる元気ある者はいるかのう?」
うへぇ! まだそんなに動けないよ! 足腰がカチコチに固まっているから、動きたくて動きそうにもなかった。
「爺ちゃん。俺なら動けるぞっ! 一緒に手伝うよっ!」
「そうか、ハイク。では共に森の中から乾いた木の枝を集めてくれ。焚き火に使う薪を集めたい」
「わかった!」
「……三人共、動けるようになってからで構わん。お前さん達の愛馬と儂の馬に水を飲ませてやってくれ。ほれ、そこの中心地の湿原を見てくれ。水が溜まっておるじゃろ。んじゃ、儂らは行って来る」
「「「は、はぁーい…」」」
気の抜けた返事をするのでやっとの僕達は、暫く同じ姿勢で身体を休めていた。
「よくハイクはあんなすぐに動けますね…。ボクには無理です」
「男の子なんだから当然でしょ。カイもドーファンも弱っちぃんだから」
「うっ! 人には得手不得手があります! そう言うイレーネも倒れているじゃないですかっ!?」
「私はね、か弱い女の子だからいいのよ。ちょっとくらい休むのは見逃して欲しいものだわ」
「………そうですね。イレーネはとってもか弱い女の子ですもんね」
「…な、何よ?」
ん? 何やらドーファンはイレーネに対して反撃するようだ。ちょっと楽しみだな。
「イレーネは一緒に洗い物をしていても、僕達よりもお皿の枚数を少なく持って移動します。ですがイレーネは”ちょっとだけ少なく持って、何だか悪いわね“って気遣う事の出来るか弱い女の子です」
「…ッ!」
「イレーネは飼い葉桶に干し草を入れている最中であっても、”あら、今日もアイリーンは可愛いわね。ふふふ、いい子ね。私と一緒だわ“なんて独り言を呟いてしまう、可愛いくてか弱い女の子です」
「ちょ、ちょっとッ! あんた見てたのッ!?」
「イレーネはカイだけが工房に残っていた事を心配して、”…カイ、大丈夫かな? 大丈夫よね?” なんて勝手にボソッと言ってしまうような、仲間想いの優しいか弱い女の子………」
「う、うわぁぁぁぁーッ!!!」
「…へぶしッ!」
最後の言葉を言い切る前にイレーネが叫び声をあげて、ドーファンの頬を思いっきり叩く。い、今のは痛そうだった。
……それにしても。
「ふーん、僕の事を心配してくれていたんだ。ありがとうね、イレーネ」
「……ふんッ!」
「…ぐ、ぐはぁッ! な、何で僕まで…」
お礼を言ったつもりなのに、思いっきり腹にいいものを喰らわしてきた。……り、理不尽過ぎる。
聞かん坊は北海道・東北地方の言葉のようですね。




