“僕の一番欲しかったもの”
第百四十節
僕に出来る事は、イレーネがこの先の旅において、未来において、彼女の手にこれ以上直接的な仕方で、誰かを殺めるという事から逃れさせる事だった。
この旅において人を殺す事は避けられても、魔物と対峙する事自体はずっと付き纏う問題だ。僕の巻き添えでハイクとイレーネは、僕と一緒にずっと旅を共にしていかなければならなくなった。
なら、どうするか。真っ先に思い付いたのが魔法による後方支援。それならイレーネの手を穢れずにいられるのではないか。
そのために何が出来るかを考えていた時に、ジャイアント・グリズリーを倒した後の木に宿った神聖さを感じ取って、これは使えるかもって思った。
奇しくもジャイアン・グリズリーの魔石もあり、なおさら早く作りたいという気持ちに拍車を掛けた。
イレーネの手を、これ以上血で穢す事からいち早く救って上げたかった。
僕はイレーネの前で膝を突き、両手に杖を持ち直して、恭しく畏まりながらイレーネに杖を献上するように差し出した。
「この杖には僕の想いの全てが詰まっている。……ほぼほぼキャロウェイお爺さんが造ってくれたんだけどね。それでも僕も一生懸命にこの杖を一緒に造り上げた。どうか、受け取って欲しい」
下を向いてイレーネの反応を待っていた。……時間が経つのがゆっくりに感じる。……まだか、まだかな。
ひょっとして受け取って貰えないのではないか、という一抹の不安が胸を掠める。杖を握る手には無意識のうちに汗が滲み出ていた。
元から緊張強いではあるものの、こんなにも心臓の音が体内で振動し、脳にまでその鼓動が響き渡った事は未だかつてあっただろうか。
早く受け取って欲しい気持ちとは裏腹に、早く波打つ鼓動の響きだけは聴かれて欲しくなかった。
スッ、と衣擦れの音が聞こえた。その音はすぐ近くで聞こえたようだった。
発せられた音を掴むよりも先に、僕が大事に持っていた杖を掴まれた感触が、小さな揺れと共に伝ってくる。
手に込めていた力を緩める。両手の指を少しづつ開いていくと同時に、その杖は自然と手から手へと繋がれていく。
手元から杖が優しく掬われるように、ゆっくりと僕の手から離れていく。
過度に込められた腕の力を労わるのに充分な安心感が心を満たした。
上へ視線を向ける。視線を上げるまでの思考の中で様々な光景を想像したが、どれも無駄な想像に終わった。
そこには、僕のどの想像も上回る光景が待っていたから。
目の前にいる少女の瞳には微かながらも鮮明に、一粒の涙が溜まっていた。
「……ありがとうね、カイ。大事にするわ」
僕の元へ届いた声は、心なしか少し潤んだように響いてきた。
イレーネの瞳には、僕の姿が滲んで見えていた事だろう。
零れ落ちるのが必然であった雫は、小さいながらも頬を撫でるように流れ落ち、頬に一筋の線を描いた。
「……あれ? さっきも泣いたのに、何でまだ涙が出るの」
そんなありきたりの言葉をイレーネは紡ぐ。
「それはイレーネがいい奴だからだろ」
「………えっ?」
ハイクの言葉でイレーネは戸惑いの色を見せた。
「悲しい時に悲しくて涙が出るのは当然だろ? だけどな、人からの好意に涙を流せるのは、本当に心が透き通った奴だけだ。カイも言ってたけど、イレーネは優しい。そんな優しさの塊みたいなイレーネが、仲間を助けるために人を殺めたんだ。……普通なら心が狂ってるんじゃねぇか? それでもイレーネは優しいままでいられた。いようと想いを留めた。カイを傷付けないようにって我慢してたのは俺にもわかった。優し過ぎるくらいだと俺は思うぞ。そんな心の優しいイレーネだから、涙を流せるのは当然だ。……よく頑張ったな」
その言葉が決めてとなり、少女は感極まって堰を切ったように涙がとめどなく零れ落ち始めた。
少女の整った顔は崩れ、普段の強気な性格ではなく、ただの拙くて、幼気な、か弱い少女に戻っていた。
その華奢な身体をより縮こませながら、必死に杖を握り締めて、咽びらせながらも声にならない声を上げ泣き続ける。
いつでも少女は強くあろうとしていた。どんな時にも真っ直ぐでありたいと願っていた。
それは自分の行き場のない感情を、他の人に知られたくない少女が作り出した自己防衛本能からの、自身と僕達を誤魔化し続けた優しさで塗り固められたガラス細工のような想いだった。
そのガラス細工の想いは綺麗で眩い。だけど、そのきめ細やかなガラス細工は少しの衝撃で砕けてしまう。それ程に少女は自身にも周りにも優しい嘘を吐き続け、ここまで無理をしてきた。
あんな小さな手で誰かを殺めたなど、誰か見知らぬ人に言っても信じないだろう。少女は僅かな人生の間に、一生分の辛い出来事を一身に背負ったようなものだ。少女が優しければ優しいだけ、その辛さも比例して心に重く覆い被さった。
ハイクもわかっていた。当然だ。だって僕達は……
「……な……何で……ハイクは…わかったの?」
「何でって…そりゃあ……」
涙声を抑えられないまま、イレーネはハイクに不思議そうに尋ねる。
チラッとハイクがこちらを見る。……僕に説明しろって言うんだね。ハイクがなぜ僕に言わせようとしているかはすぐにわかった。
「だって、イレーネがさっき言ってたじゃないか。“どれだけ付き合いが長いと思っているんだい? ……わかって当然だよ“」
「……ッ!!」
まさか自分が言った言葉を逆手に取られるとは、イレーネは考えてもいなかったようだ。……さっきから言葉の応酬を繰り返しているのに何を今更。
ハイクもそれをあえて僕に振ったのは、僕が言うのが相応しいと判断したからだろう。ハイクもやはりわかっていたんだね。
「イレーネは昔から無茶をしている時、普段よりも気を張ってツンツンしているんだよ」
「そうそう。普段も気が強いけど、いつもよりもこう何て言うか…言葉に勢いが無いんだよ。いつもならもっと、カイや俺にも当たりが強いだろ。それに……」
再びハイクと視線を交わす。その目を見て僕も口を開く。
「「誰かに甘えたくなるのは昔から変わらないからね(な)ッ!!」」
全く同じセリフが重なって出てきた時、僕達は大いに笑い合った。
……昔からイレーネは、僕達と喧嘩した時は早々に家に帰っていた。
僕とハイクはイレーネに謝ろうとイレーネの家に訪問しようとすると、大抵は家の入り口で少しの隙間が空いていて中の様子を見ると、イレーネは自分のお母さんに甘えて寄り掛かり、頭を優しく撫でられて安心しているようだった。
僕達もその様子を見て安心して家に帰り、翌日にイレーネに謝るのはいつもの事だった。
イレーネはヨゼフに頭を撫でられて、安堵感を覚えているのはその姿を見てすぐにわかった。その事にあえて触れなかったし、イレーネのために必要な事だった。
「も、もうッ!! 二人共酷いわよッ!!」
イレーネははちょっといじけたように頬を膨らませる。
「「あっはっはっはっはっはッ!!」
「……ぷ…ふふふふ……あっはっはっはっは!」
イレーネも僕達に連れて笑い始めた。久しぶりに三人で心を、想いを通じて笑い合えたような気がした。
少女の顔は貼り付けた笑顔を破り捨て、本来の花のように明るい顔がそこにはあった。しわくちゃにした顔を隠す事なく、少女にもっとも似合う笑顔。
笑い声は空の下で大いに響き、少し前までの僕達のいた場所がそこにはあった。
少女は抱え込んでいた感情以上に笑い終えると、僕の方へと振り向いた。
「……改めてお礼を言わせてっ。カイッ! 本当にありがとうッ! ずっとずっと大事にするわッ!!」
少女の顔は微笑みで一杯になっていた。
その笑顔が、何よりも嬉しい僕への一番の贈り物だった。
この素敵な贈り物をいつまでも大切にしたいと、そう思えた。
書き溜めていた部分をようやく出せました。ちょっと書き足しましたが。
カイがイレーネに後ろめたい感情を抱いていた理由がわかりましたね。イレーネが戦いが嫌いだと言っていたのに、イレーネが敵に槍を刺した事に違和感を感じた方もおられると思いますが、彼女は自分の矜持を曲げてまでカイを救おうとして、その行き場のない感情にずっと悩んでいました。
そろそろハイクとイレーネ視点の話しも挟みたいですが、次で三人での話しは終わるかもです。




