瀝青
第百二十一節
アスファルトって聞くと、以前にいた世界の人々だったら”道路の材料じゃんっ!!“ って思うかもしれない。
でも実は、アスファルト改め瀝青は、道路の材料に使われるよりも遥か前から人類に貢献してきた。防水、防腐、接着能力に長けた材料だ。
その歴史は長く、あのノアの方舟の建造に使うように神が命じたとも云われる素材。方舟の内側と外側にも塗られ、防水剤としての役割を担っていた。
あるいは伝説の塔であるバベルの塔。かの塔の建設の際には石の代わりにレンガを、漆喰の代わりに瀝青を用いて、天まで届く塔のある街を造ろうと試みた。
または紅海の海を奇跡によって切り開き、五書を書き上げたモーセが赤子の時に、両親によって川を利用して逃された際に、赤子のモーセを乗せたパピルスの籠に塗られていたのも瀝青だ。
モーセで連想するのがエジプトだけど、エジプトのミイラの防腐剤にも使われた。
ここまでは防水と防腐の優れた材料という事を伝える記述だけど、接着剤としても古くから使われてきた事も歴史は伝えている。
紀元前三千八百年頃のメソポタミアでは接着剤として使われた記述がある。日本においては縄文時代から使われた痕跡があり、石の矢尻や骨の銛などの漁具の接着や、土器や土偶の補修にも使われてきた。
日本書紀の中には”燃える水と燃える土が越の国から天皇に献上された“との記述があり、燃える土は瀝青だと考えられている。
意外に思うかもしれないけど、瀝青は昔から接着剤として日本でも親しまれてきた材料だった。
でも、本当にどうしてこんなにキャロウェイお爺さんは瀝青を持っているんだろう。しかし僕には、この疑問の答えを求める前に言うべき事があった。
「キャロウェイお爺さん。瀝青があるのは嬉しい事実ですけど、僕にはその瀝青に対する対価として支払えるお金や物は持っていません。それによく考えたら、キャロウェイお爺さんに手伝って欲しいなんて思う事自体が間違っていました。キャロウェイお爺さんと一緒に作って頂く事への対価を払う必要を失念する程、僕のわがままな思いが先走ってしまいました。すみません。王都に着いてから作ります」
そうだ。僕は何も持っていない。ワイルド・ドックの亡骸も村長さんに渡してしまったし、お金なんてそもそも持ち合わせていなかった。
何も対価がないのにキャロウェイお爺さんの瀝青を使用する事は出来ない。そもそもキャロウェイお爺さんに、何の報酬も無しにお願いする事自体が大きな間違いだった。
「……そうか。カイは何も持ってないか」
少しお爺さんが落ち込んだような表情をしたように見えた。しばしの間を置いて、再びお爺さんが口を開く。
「では、こうしよう。儂が一緒にお主と作る事への報酬として、儂からお主に求めるものは三つじゃ」
「三つ?」
「一つは儂と共に作る事、一つは儂と共に明日の出発までこの宿の手伝いをする事、これが今のカイに求める二つの条件じゃ。そしてもう一つ、王都でカイがお金を稼げるようになったら儂に今回の報酬をくれ」
「そ、それは流石に僕に都合の良過ぎる条件ですよっ! それだと僕がキャロウェイお爺さんの人の良さに甘えているような……」
「お前さんは素直な子じゃなぁ……。だが、ここで作らなかったとしたら、カイの望みは果たされるのかのう? それに、あの子のために儂は早く作る事へ賛成したからこそ、こう提案したのじゃが」
キャロウェイお爺さんの好意は本当にありがたい。だけど、それだけじゃダメだ。何か、何かもっと信頼を別な見える形で勝ち得る事は出来ないだろうか。
僕は自分に出来る事を考える。今、自分に出来る事は何だろう……。旅の道中何か出来る事とか? うーん、ちょっと漠然としているな。
あと思いつく事は将来お金を払う事は絶対行う。出来ればそれを保証するような何か誓いを。……誓い? そうだ。
「宣誓の儀って、このようなやり取りでも適用されるんですか?」
咄嗟にヨゼフとドーファンが行なっていた宣誓の儀を思い出した。誓いって意味では、キャロウェイお爺さんの目の前で行えば信頼を得られると思った。ドーファンも“そこまでするなんて”って言っていたし、特別な誓いなんだと考えて。
けど、キャロウェイお爺さんは眉間を寄せて、険しい顔をしながらこう言った。
「…本当にそれで良いのか? その誓いの意味をわかっておるのか?」
「誓いの意味?」
言っている意味がわからなかった。特別な誓いの中に何か僕の知らない意味が隠されているような…。
「……そうか、まだそこもヨゼフから聞いてなかったのか。なら少し説明しておこうかのう。宣誓の儀は神への誓いじゃ。ゆえにその誓いを破る事になれば神からの厳しい処罰が下される。宣誓の儀を軽んじて行わないのはこのためじゃ」
「神からの厳しい処罰……」
ヨゼフとドーファンはお互いに誓い合って、宣誓の儀を果たしていた。誓いを破る事で神からの厳しい処罰があるなんて聞いてなかった。
でも、恐らく二人はこの事を知っていて誓っていた。リスクを背負うような真似までして……。
「神からの厳しい処罰というのは、下手をすれば命を失う事すらあり得る。自分の命にも関わる大事な誓いだからこそ、多くの商いをする者は宣誓の儀をして、神の前で商売の内容を誓い合う事で後で裏切る事などないようにする。とりわけ大きな商取引、または国同士の契約などでな。本来ならこのような作業で宣誓の儀をする必要はない。神の前で誓う事の重みはとても重い。その誓いを破る事には大きな責任を伴う。別に儂はそこまでする必要は……」
「やります」
「っ!?」
キャロウェイお爺さんは驚いて、こちらを凝視している。驚きの中に心配そうに僕を気遣うような想いも含まれているような気がした。
今の説明を聞いてなおさら必要な事だと思った。だって、それだけ大事な誓いなら行う事への意味は、計り知れない程に重みがあるという事だからだ。
「キャロウェイお爺さん。僕には本当に何も無いんです。なら、将来必ずお支払いする事をキャロウェイお爺さんに示すためにも、これは必要な誓いだと思うんです。僕にはこの瀝青の値段や、お爺さんへお支払いするお金の相場など一切わかりません。なのでキャロウェイお爺さんの言い値で大丈夫です。なので、どうかお願いします。僕はこれくらいしかお願いするやり方を思いつきません」
深々と頭を下げて、いま出来る精一杯の誠意を示す。別に行わなくてもいいとキャロウェイお爺さんは言うけれど、そう言う訳にはいかない。
何もないからこそ、行うべき事をやるべきだと思う。
「………本当にカイは素直な良い子じゃ。カイ、頭を上げてくれ」
僕はキャロウェイお爺さんの言う通り、頭を上げると肩をポンッと叩かれた。
「カイが将来、儂への報酬の支払いを踏み倒そうとする者ではないとわかった。だからこそ、宣誓の儀は必要ない」
「で、でもそれじゃあ……」
僕は続けて言葉を言おうとしたけど、キャロウェイお爺さんはさらに言葉を続けた。
「普通なら宣誓の儀は、信頼出来ない相手と交わす事だと思うじゃろ? ……儂のように古臭い者にはな、この誓いっていうのは信頼出来る相手だからこそ行う宣誓だと思うのじゃ。お互いに信頼し、この者なら大丈夫と心動かされたからこそ行う。儂は宣誓の儀はそうあるべきだと思う。商いを行なっている者達が宣誓の儀をしている事を卑下している訳ではない。これは儂の理想であって、今のこの世界の在り方とは違う考え方じゃ。ただ、儂は儂の理想を崩したくないだけなのじゃ」
「キャロウェイお爺さん……」
何も言えなかった。ただ、その意味は良くわかった。ヨゼフは宣誓の儀を心が動かされたからこそ行なったって言ってた。
僕もあの時、ヨゼフとドーファンの二人の誓いは神聖なもので、それは穢してはならない誓いだと、あの場にいた時に感じた。
そう言われてしまうと、僕は商人のように将来と宣誓の儀を担保にして、キャロウェイお爺さんの信頼を得ようとしていた自分がいる事に気付いた。
僕のやろうとしていた事は、あまりにキャロウェイお爺さんの理想からかけ離れていた………。
「カイ、そう落ち込まないでくれ。儂にそこまで言ってくれた事は本当に嬉しいんじゃ。普通、自分にとって不利な契約の時には、自ら宣誓の儀を行なうという者などごく稀じゃ。カイのその素直さは、紛れもなく誇るべきものじゃ。大切にするべき事じゃ。そして、カイがあれを作ろうとしたきっかけは、誰かを想ってからの気持ちであって、カイのわがままな気持ちからではない。儂はカイの優しさを知ったからこそ、一緒に作りたいと思ったんじゃ。だからどうか、儂と一緒に作ってくれんか」
まるで自らがそう望んでいるかのような言草で、キャロウェイお爺さんは小さい子供相手に優しく語りかけくれる。
……これ以上、キャロウェイお爺さんを困らせる訳にはいかない。僕は素直にその申し出に甘える事にした。
「わかりました。お金を得たら必ずお支払いします。そして、僕が大きくなったら、この御恩も必ずお返しさせて頂きます」
瀝青と宣誓の儀のさらなる情報でした。ただ、ここでの説明とあの時の出来事は……と思う方もいるかもしれませんが、その辺りもふさわしい時に書きたいと思います。
越の国についてですが、今の日本の福井県敦賀市から山形県庄内地方にかけてまでを指します。その後さらに分割されて、越後・越中・能登・加賀・越前になったようですね。
次は、神聖さと蘭奢待になるかと思います。




