洋樽と蛇口
第百十八節
キャロウェイお爺さんの後をヒヨコの行列みたいに歩いていると、本当にすぐ近くの場所でキャロウェイお爺さんはピタッと止まった。
そこは焚き火場から見て工房の陰に隠れた場所だった。
「ここじゃ。ここで使った食器と手を洗うんじゃ」
そう言ったキャロウェイお爺さんの示した先には、木の台座の上に横倒しに置かれた大きな洋樽があった。
うおぉぉぉっ! 凄いっ! 本物の洋樽だよっ!! 前世でワイナリー見学をした時に見た事はあるけど、異世界で見る洋樽は雰囲気が増してなおさら感動物だ。
「凄いねっ! ハイク、イレーネっ! 僕達の村にこんなの無かったよねっ!?」
「え、えぇ。確かに無かったけど、カイは何をそんなに興奮しているの?」
歴史好きとしては、前世で普段お目にかかれない歴史に大きな役目を担った人類の遺産を見て、興奮せずにはいられない。
洋樽は前世の僕のいた時代から二千年以上前から使われてきた物だ。洋樽の最古の記録はギリシアのヘロドトスの記した「歴史」という書物の中で、バビロニアのユーフラテス川の上流から来る船が葡萄酒を椰子の木板製の樽で運搬していた事が記述されている。
その後、アカシアやポプラ、栗等も使い樽として使う木の材質を選んできたが、樽を作られる主な材料はオーク材と呼ばれる木材に変わった。日本語では落葉樹ではナラ、常緑樹ではカシと呼ばれる木だ。
どちらかといえば、ナラの木が主に使われてきた。昔から道具の柄や樽などに使用され、大航海時代には木造の巨大戦艦の材料に使われた強度な頑丈さと耐水性を誇る木材だ。
パレットを用いた物流とコンテナ化が導入されるまで、ずっと人類の物流を担ってきた偉大な発明品がこの洋樽。
凄いのは二千年近くの間、樽製造業・樽職人の技術にほとんど大きな変化がなく、発明当初から完成された素晴らしい物なんだっ!
僕が感動に打ちひしがれていると、何やら奇妙に感じたのかドーファンも話しに加わった。
「あれ? 帝国では樽を使うことは無かったのですか?」
「少なくとも僕達の村では無かったよ。収穫した小麦も麻袋に詰め込んでたよ。あとは樽を使うような特産品が僕達の村には無かったしね」
「なるほど。村の中にはそういう村もあるんですね。知らなかったです」
「ほう、じゃあこれも見るのは初めてかのう?」
その指差した先には、横倒しになった樽の平らな面の鏡板と呼ばれる板に、一つの部品が付けられていた。
「爺ちゃん。これ何だ? これも初めて見るぞ」
「そうね。一体これは何かしら?」
二人は興味深そうに目の前にある部品を見ていた。……僕にとっては懐かしいと呼べる部品だった。
「どれ、ではどう使うか見ておれ。少しビックリするかもしれんのう」
「ビックリ?」
二人はキョトンとした顔で、キャロウェイお爺さんの動きを見つめ始めた。一体何が始まるんだろうとじっと見ていた。
お爺さんがその部品に手を掛け、その部品の一部を少し上に持ち上げると、その樽からは灰色の水がジャァァァァッと音を立てて出てきた。
「うおぉぉぉっ! 何でこれを捻ると水が出てくるんだっ! すげぇなぁっ!!」
「本当っ! こんな便利な物もあるのねっ!!」
そこには前世の僕の生活上なくてはならない“蛇口”がついていた。樽についてるから“コック”の方が正しいかな? コックと言っても、キュッキュッと回すタイプでも金属で出来ている訳でもない。
木製のコックに一本の棒が突き刺さっていて、その棒を少し持ち上げると水が出てくる非常にシンプルな作り。
恐らく、その木の棒の水が出てくる部分だけ、穴がくり抜いてあるんだろうな。
蛇口、いわゆる弁の起源をたどると紀元前千年頃の古代エジプトの遺跡から発掘された、樽についていたコックと推定される木製のものまでさかのぼる。
古代ローマ時代には、すでに貴族の家に水道のパイプが敷かれていた。その出口には青銅製の蛇口がついていて、水道だけでなく船でも使われていた。ローマのカリグラ帝時代のガリー船とともに引き揚げられた青銅製の蛇口も発見されている。
以前は使っていたけど異世界に来た事で使えなくなった環境に置かされた身からすると、再びこうして文明品を使えるようになるのは凄く感動する。
「ねぇ! カイ凄いわよっ! ほらっ!!」
イレーネはとても嬉しそうに手を洗って見せた。その水の色には気を留めず、コックから水が出てくる現象へ素直な驚きを見せていた。
「うんっ! 本当に凄いっ! この村には僕達の村には無かった物が一杯あるねっ!!」
僕も無邪気に喜んだ。誰かが喜んだ顔をするのは嬉しいし、こういう先を進んだ文明に実際に触れる事が出来る、知る事が出来るっていうことは、歴史好きからすると本当に素晴らしい事だと思う。
「くわっはっはっはっはっ! そうか、そうかっ! 物珍しいかっ! 後でゆっくりと宿屋の中を観て回ってくれ。まだまだ知らない物があるかもしれんぞ」
「いいのかっ!? やったな、カイっ! 後でみんなで一緒に観て回ろうぜ」
「うんっ、そうだね! ドーファンも一緒に見ようね!」
「っ!! …うんっ! ボクも見るっ!!」
「どれ、早く観て回るためにも手早く食器を洗って、この後の用事を済ませるぞ」
「「「「わかったっ(はいっ)!!」」」」
少しテンションが上がり気味になりながら、リーダーのヨゼフの言葉をきっかけにみんなで食器洗いを手早く終わらせていく。
一人は食器を軽く灰色の水で注ぎ、灰色の水で濡らした粗布で食器を拭いてから、再び灰色の水で軽く注いでいく。
一人はその食器を受け取り、乾いた布で拭き上げていく。
一人は山鳩を切り分けたテーブルの掃除を、例の灰色の水をバケツに入れて、その水を使って粗布を絞り、その粗布で丁寧に濡れ拭きを何度か繰り返した。
もう三人、つまり僕とヨゼフとキャロウェイお爺さんはその間に別な作業に取り掛かっていた。
「よし、ではこの灰を煮るぞ」
「はいっ!」
「………おい、カイ。お前まさか…」
「ち、違うよっ! 冗談で言ったつもりじゃないからねっ!」
いや、本当に冗談で言ったのではなく、ちょっとテンションが上がって返事をしただけだ。今から行うのは、あの灰色の水を作る作業だったから気持ちが舞い上がってしまった。
またまた短めですが投稿です。
先日から調べていた資料調査で、この物語の今の段階での世界観を崩さない程度の文明利器を調べていました。それは今回書いた蛇口についてでした。
蛇口の歴史について調べると、日本で酒樽の栓などはかなり古くから使われていましたが、金属製のバルブが登場したのは1863(文久3)年、紡績用のボイラが輸入されたとき一緒に入ってきたのが最初だという事や、本文でも書いたローマの水道に青銅製の蛇口が使われていた事はすぐに出てきます。
今回は“樽のコックを使われ始めたのはいつか”を調べていてもなかなか発見出来ずにいました。ようやく発見して、この物語のこの段階で出しても良いと判断して書かせて頂きました。
もし物語上合わないと判断したら、樽から柄杓を使って水を掬う等に描写を変えるつもりでした。
細かなどうでもいい描写かもしれませんが、筆者は“今の段階ではこの時代までの物の記述を書くのは良しとしよう”と物語上に登場させる物の年代への線引きをしているので、その都度調べるようにしています。
なかなか物語が先に進まず大変申し訳ございませんが、長い目でお読み頂けるなら幸いです。
今後ともよろしくお願い致します。
次は灰色の水についてです。




