塩とお梶の方
第百十節
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お梶の方。徳川家康の寵愛を受けた女性。あの江戸城を築いた太田道灌や、日本初の軍用犬を考案した犬の三楽斎こと、太田資正などの名将を生み出した太田一門の血を引く女性。
彼女はとても聡明さに溢れた女性であったという。その事を裏付ける有名な塩にまつわるエピソードがある。
ある日、家康は家臣達に“古今東西、この世で一番美味しいものは何だ?“と聞き、美食談義を楽しんでいた。やれ鯛の膾が美味い、やれ鶴の吸い物が至上だ、やれ雉の焼き鳥に限るなどなど、会話は弾みに弾んでいた。
そんな時、家臣の一人がこう話しを切り出した。”女子の意見もお聞きしたいですな。お梶の方様はどうお思いでしょうか?“
この後、彼女の答えは全ての者を驚愕させた。それはその場にいた全員の、家康の考えにも上らなかった答えだったから。
”この世で一番美味しいものは、塩にございます“
「「「「「はぁ!?」」」」」
恐らく、その場にいた全員は何を言っているんだと、素っ頓狂な声を上げたに違いない。それ程に彼女の答えは意表を突いた。
そして、全ての者は大声を上げて笑い始める。“やはり女子の方は物を知らぬようだな。大したものを食しておらぬようだ”、と。嘲りの言葉は鳴り止まない。
彼女は謙遜にも“私は物知らずにございますゆえ”と、笑ってその場は引き去った。
そう、その場は……。
後日。彼女は家康と美食談義を交えた家臣達を食事に招待した。そこには家臣達が以前に述べていた天下山海の珍味がずらりと並んでいた。
“おぉ、これは素晴らしいっ! こんなに贅沢な馳走は滅多にお目にかかれませんなっ!!”
皆が心躍り胸躍り、その贅沢三昧な馳走を目にしただけで、涎が口の中で溢れていたことだろう。
家康が箸をつける。だが、その顔はどうにも浮かない表情をしていた。家臣達は不思議に思いながらも、次々に箸をつけてパクリと豪華な食材を口に運ぶ。
“……………え?…”
誰の呟きだったかはわからない。だけど、その呟きはその場にいた全員が思った感情を吐露していた。全員がピタリと箸の手を止める。
“どうされました? 今宵の馳走は皆々様の好物ばかり揃えに揃え、沢山の者達が走り回って手にしたものばかりです。どうぞご遠慮なくお召し上がり下さいませ”
うっすらとした微笑を湛えながら、せっかくの御馳走を楽しんで欲しいと言う。だが、皆の箸の手は止まったまま。
誰も箸をすすめて食べようとは一切しない。そんな素振りを取り繕うことすら出来ずに呆然と。
なぜならその食事は、今まで食べてきたはずの食材の味と異なり、酷く不味いものに思えた。ある家臣は恐れながらも、彼女にこう尋ねた。
“お、お梶の方様。なぜこの食事はこうも美味しくないのでしょうか? 私が以前に食べたことのあるこの食材は、こうも味気ないものではなかったのですが……”
彼女は微笑を崩すことなく、淡々とした様子でこう答えた。
”それはそうでございましょう。なぜならその馳走には、皆様が普段から楽しんでおられるものがありませんから“
その答えでわかってしまった。普段、全ての者が食べ慣れており、そのありがたみを忘れてしまいそうになる食材。
そう、全ての料理には塩で味付けがされていなかった。
彼女はその場にいた者達に、彼女の聡明さを家臣達の身に、いや、その舌に辛酸を舐めさせるような形で知らしめた。最も、家臣達の舌に塩味を感じさせる事はなかったんだけど……。
塩に関するエピソードが沢山思い浮かぶ中で、真っ先にいつも思い出してしまうこの話し。意識をしていないと忘れそうになる、普段あるものへのありがたみを教えてくれる大切な教訓を秘めたお話し。
だけど、この話しには続きがある。後日談のさらなる後日談。これがこの話しの本当の教訓かもしれない。家康はお梶の方にある事を尋ねた。
“時に、お梶よ。この世で最も美味いものが塩と知れたが、逆に最も不味いものは何だと考える?”
家康は自分を含め家臣達も圧倒させた、お梶の方の聡明な意見を大層聞きたかった事だろう。そして、その答えは家康にとって衝撃的だった。
彼女は、さも当然のようにこう言った。
”塩にございます“
きっと、その答えを家康は聞いた時、とても不思議な気持ちになったと思う。一番美味いのが塩だと言ったお梶の方が、一番不味いものも塩だと言うことが奇妙な答えだと感じただろう。
だから、こう聞いたんだと思う。
”ほう……その意は?“
彼女は答える。
”塩も過ぎれば、食えたものではございませぬゆえ“
料理を活かすも殺すも塩加減一つ。物事への道理をわきまえ、その本質を見抜く彼女の聡明さに、家康は納得し、満足し、感嘆しつつも、こう嘆いた。
“あぁ……其方がもし、もし男に生まれていれば、ひとかどの武将として大軍を率いて活躍したろうに。実に惜しいことだ……”
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とても面白くて惹きつけられるお話し。普段ある当たり前へのありがたさ、塩のおかげで料理はより美味しくなる事実。そして、塩加減一つで料理は飛躍的に美味しくもなり不味くもなる。
でも、この事は料理に対してだけ適用される教訓ではない。キャロウェイお爺さんのように適度に塩加減をする事は、物事をバランス良く行う事にも通ずるし、ハイクが実際にやっていたように色々な角度から沢山の視野で事物を視ることなどなど。
なんとも大切な事を教えてくれる貴重な逸話。こういう教訓めいた過去の偉人達が教えてくれている事は、しっかりと受け継いでいきたいなってこの世界に来ても想う。
「お爺ちゃん、凄いわっ!! この塩っていうの掛けるだけで、こんなに美味しくなるなんてっ!!」
「そうじゃろうて。くわっはっはっはっは! 人の子がここまで喜んでくれると、儂も嬉しくなるわいっ!!」
先に塩を掛けて食事に夢中になってバクバクと食べているハイク、初めて塩を掛けて食べてとても感動しているイレーネ、塩で食べるように勧めてみたキャロウェイお爺さんも、僕達の様子を観ながら深く満足そうに眺めながら食べているヨゼフ。
優しさが詰まった食事に、みんなとても満足していた。
ただ、一人を除いて。
ドーファンは少し浮かない表情をしていた。それはキャロウェイお爺さんが、僕に“あの御方”の話しを始めた時から、徐々にその表情を曇らせていった。
「あ、あのっ!!」
ドーファンは質問をする。何やら思い詰めた様子で、ずっと聞きたかったことを聞き出した。
「キャロウェイさんは、この周辺におられるという小国の伝説の将軍をご存じありませんかっ!? ボク、その人を探して王都から旅に出たんですっ!! その人に逢って、どうしてもお願いしたい事があって……」
真剣な眼だ。その答えをずっと探し求めていたことが窺える。恐らく初めて逢ったキャロウェイお爺さんにも、ドーファンの想いは伝わった筈だ。
「ご、ごめんなさいっ! 楽しいひと時を遮ってしまって……。ボ、ボク、ずっと友達に謝りたくて、その友達のいるところにとんでもない化け物がいるらしくて、特別に強い人が一緒じゃないと、その地には足を踏み入れることも出来なくて………」
ドーファンは少しずつ視線を下に落とし、その言葉尻も萎んで話していった。本心を打ち明けながらも、どこか諦めの感情が入り混じっていることが、その顔と言葉からわかってしまう。
「…………知っておる」
「「「「「えっ!?」」」」」
みんな一斉に声を上げて驚く。って何でヨゼフも驚いているの。
「おい、爺さんっ! 何で俺に教えてくれなかったんだ、そんな重要な話しっ!?」
「……聞かれていなかったからのう」
「言えよっ!! どこにいるんだそいつはっ!? 俺もそいつに用があるんだっ!!」
「へ? ヨゼフさんも伝説の将軍に用があったんですか?」
「っっ!! ……あぁ。俺も会って言いたい事がある」
ヨゼフもどうやらその将軍に用があるようだった。言いたい事って何だろう?
もしかして、瘴気を抜けてワイルド・ドッグを全て倒した後、“それに……まだ諦めてはいけないと俺は思う。だから、この道を行くべきだ”って唐突に呟いたあの言葉。
あの意味って、この道を進めばその人に逢える可能性がある。ドーファンの聞いていた噂をヨゼフも信じてみたくて、この道を行くべきだって想いが込められていたんじゃないだろうか。
淡い期待を胸にこの道を選んだ事は間違っていなかった。このキャロウェイお爺さんという人物は、一体何者なのだろうか……。
「まぁ、食事をしながら話そう。そうじゃろ、ヨゼフ?」
「……あぁ、そうだな。せっかくの食事に興味深い話しだ。これに酒でもありゃ最高なんだがな」
「夜の楽しみに取っておけ。美酒佳肴は月の光と共にってもんじゃろ?」
「それもそうか。こいつらが寝た後、少しは呑ませてくれよな」
「もちろんじゃ」
ヨゼフとキャロウェイお爺さんはニッと笑い合った。お爺さんは一度目を閉じて、鼻で大きく空気を深くゆっくり吸い、その空気を身体に取り入れお腹が少し膨れた後、鼻から息を吐き出した。
「さて、何から話したもんかのぅ……。お前さん達はどこからどこまで話しを知っている?」
「はいっ! 何にも知らないので一から教えて下さいっ!!」
「お、おぉぅ。そうか、では一から話しをするのか……。よし、ヨゼフ。お前さんが話してやれ」
「……話しの流れ的には爺さんが話すんじゃないのか?」
「ヨゼフがどこまで知っているかを儂も知りたい。効率良く知るにはお前さんから話してくれた方がいいじゃろ?」
「そりゃそうだが。………はぁ〜、なんだか最近は説明ばっかしてるぜ。こういうのはもっと別の奴が適任なのにな……」
今度はヨゼフが大きなため息を口から吐いて、少し間を置いて思い直してから語り出した。
「んじゃ、俺の知っている事を話すか。と言っても、この間お前らに軽く説明した事にほんのちょびっと上乗せした話しをするだけだ。事は三年前、帝国が小国を攻め入ったのが事の始まりだ。これは前にも話したけど、攻められた小国は隣国やギルドに助けを求めたが、全て断られた」
「小国は自分の国の力だけで、帝国と相対するしかなくなった。小国の規模はこの王国と比べてもとんでもなく小さく、その国力は微々たるもの。負ける事は必然だし、周辺諸国は期待もする事もなく、腹立たしくも戦況を傍観していた」
「小国は負け続けた。何度も何度も戦を仕掛けてはその度に敗れ負け続けていた。城に引き篭もっては城を落とされ、徐々にその戦線を後退させるしかなく、狭い領土は次第に国とは言えない程にさらに小さくなっていった」
「ある時。その伝説として語り継がれる将軍は、たった一度だが帝国に勝利を納めた。野戦に打って出てどうやって勝利したかは伝わっていないが、間違いなくていこくの大軍を一度は打ち破って、その戦線を一時的に押し返した」
「だが、そこまでだった。さらなる後詰めの大軍を帝国は派兵し、小国は戦いを仕掛けては負け続け、遂に最後の城まで帝国に奪われ国そのものが滅んでしまった。これが一般的に知られている話しだな」
「さて、ここまでザッと話してみたがお前らに聞きたい。この話しを聞いて、お前らはどう感じた?」
ヨゼフは聞く。だけど、僕には咄嗟に答えることが出来なかった。……その話しを信じる事が出来なかったから。
そんな事が可能なのか? この話しが本当なら、それはとんでもない事を意味している。
「おぉ、やっぱり伝説の将軍って人はすげーなっ! 一度でも小さな国が帝国に勝つ事が出来たってのは凄い事です、ヨゼフ師匠っ!!」
「そうねっ! その人は帝国の軍に勝てる程の凄い人物ってことね!!」
「えぇ、ボクもその話しは知っています。勝利した戦いの経緯は知りませんが、その将軍はとても武勇の立つ人物だと伺っています!」
僕以外のハイク、イレーネ、ドーファンはとても心が奮い立っているようで、拳を握り締めながら話しを聞いていた。
僕は真逆の現象に陥っていた。心が震えた。寒気が背中を伝いぶるぶると身体が竦み上がる。
「カイ、お前はどうだ? 何を考えた?」
「……僕は、その話しを俄かには信じられない。だって、そんな事が可能なのかなって……」
「そんなに変な話しか? その将軍が凄く戦いが上手な人って話しだろ?」
「私も帝国に一度は勝った小国の事を讃える話しだと思ったけど……」
…………違う、そうじゃない。
「違うよ。この話しの意味する事は、そういう表面上の事じゃない」
「どういう事ですか? カイ? その将軍の武勲が象徴された話しでは……」
「違うっ! あたかもその将軍が凄いと捉えるように話しが仕向けられているけど、本当に重要な事はそこじゃないっ!!」
僕はみんなの勘違いが我慢出来ずに、つい声を荒げてしまう。
「この話しで重要なのは、小国が負け続けられたって事だ……」
太田家の再興を成し遂げたお梶の方の逸話です。かなり面白いお話しです。太田資正と犬のお話しも面白いので、どこか物語上でタイミングが合えば書きたいです。
カイの言葉の意味は次で明らかになります。




