夢想探検記
私の世界は代わり映えしない。この閉じられた場所だけが、現実の私の全てであった。
また一人ここからいなくなった。その席を埋めるように新しい住人が招かれた。定員が決まっていて予定調和の世界。そんな世界を私は生きている。
今日もまた、母が外の世界から私を訪ねてくる。いつも明るく振舞う母。その笑顔が心からのそれでないことを、私は知っている。いつ気付いたかは定かではない。不思議な話である。私と母の接する場所なんて、ここ以外にないのだから。私はこの場所以外の母を知らない。母は私とは違う。毎日足しげくこの場所に通おうが、母はこの場所の住人ではない。それでいいのだ。それがいいのだ。
私は母がこの場所から解放されることを望む。今でもそうだ。かつて一度だけ、私の本心を母に直接伝えた。その時初めて母の涙を見た。その後は、私は本心を口に出さなくなった。あの日以来、私と母の関係性は変わった。だが表面上は何も変わっていない。泣かせてしまった翌日、母は不気味なほどいつも通りだった。それが母の強さだと思う。だが私は弱くいてほしかった。その私の気持ちも、やはり母には伝えていない。もう泣かせてしまうのはこりごりだ。
ガラクタの私は、時間を浪費してしまうときが多い。それが自然なくらいだ。私の景色は一日中変わらない。だがこんな私にも楽しみがある。本。それは私がこの場所から離れられる唯一の手段だった。私に残された最後の手段だった。たくさんの本が読みたい。私から母に伝えるたった一つのわがままだった。
それは突然起きた。私の世界を鮮やかに変えた。何も起きるはずのない私の世界を。本以外に何も持たないはずの私の世界を。一人の少女が確かに変えた。
少女の名前は本田楓。中学二年生。私と同い年。私にできた最初で最後の友達。
友達。思えばそう呼べる存在が私にはいなかった。
それまでにだって、私の話し相手は何人かいた。薄く区切られただけの世界は簡単に行き来出来る。敷地内であれば、自由に移動できる時もある。この世界でも落ちこぼれの私には、それすらも満足にはできないのだが。それでもその時だけは、私の現実世界がほんの少しだけ拡大した。どうやら人見知りしないらしい私は、その時がチャンスとばかりにこの場所の住人たちに話しかけた。だがそれだけだ。私とその人たちは同じ場所で生きている。私とて境遇が同じ人々に特別な感情は感じる。だがそこまでである。
友達。それは私の人生において交わらないはずだったもの。
楓と友達になれたのは奇跡だ。常に絶望と添い寝している場所に現れた一筋の光だ。私がそんなポエムを口ずさむ程度に、楓との出会いは喜びで満ちていた。同い年の同性というだけで、運命を感じられた。希望なんて持つ権利がないはずの私でも、この時だけは素直に希望を信じられた。
楓は私と違って、元々は外の世界の住人だった。私の隣に越してきた楓は、明日いなくなるような酷い顔をしていた。私の知らないタイプの絶望がそこにあった。その時の楓は絶望に染まりきっていた。この場所の住人の先輩として、私は楓に様々なアドバイスをした。その成果で、あれだけ暗闇の中にいた楓もだんだんと生気を取り戻した。私の人生が誰かの役に立った初めての出来事だった。私まで救われた気がした。
この頃、私は楓を友達と自覚した。楓が「呼び捨てでいいよ。友達でしょ」と私に言ったのだ。私がその単語を聞いた初めての瞬間だった。楓の話の中には、本の中にしか存在しないはずの世界が広がっていた。友達、学校、授業、放課後、その全てが煌いていた。
私にとっての救いは、楓のおかげで友達を体験できたことだった。
私が楓と一緒に過ごせたのは3か月。結局、この場所に希望なんてものは存在しなかった。あれほど特別だった楓も、これまでの人々と同じ結末をたどった。また私だけが残された。私の場所からいなくなって、戻って来た人は誰一人としていない。ここはそういう場所なのだ。絶望に染まらないはずの私に、突如絶望が襲い始めた。
楓との別れの後、私は楓との全てを一冊の本にしようと決めた。それまでの私は本を読む専門で、書いたことは一度だってなかった。だが私は楓との思い出を本の中で再現できた。本は私を裏切らなかった。本からの贈り物だった。驚くほどすんなりとその本は完成した。私が描く私だけの世界がそこにはあった。
登場人物は私と楓だけ。舞台は楓が話した外の世界と本の中の世界を融合させた。今度は私が楓を招待する番。どんな時代、どんな場所だって自由自在。私と楓を遮るものは何もない。現実の重荷を外し、創造力の限界の向こう側を目指した。楓と一緒ならどこまでだって行けた。
もうすぐ私もこの場所からいなくなる。楓のもとに行ける。母もやっと解放される。私はまだ誰にも読ませていないこの本を母に託した。
私と楓がいた証、『夢想探検記』。