前編: アカネの狩り
夜明けのはじまりを告げるように、木の葉の間から見える空が、わずかに白んだ。
茂る葉の中、赤い頭が揺れる。爽やかに香る樹の上、枝をしならせ何か作る者がいる。
暗がりに浮かぶ深紅の髪。長い手足を器用に動かし、樹上で身を翻す。
尖った耳の横、生気みなぎる瞳が輝く。
彼の名はアカネ。森に住まう古代エルフと古代の人間の王との間に生まれた、半エルフ。
「狙いを調整、と……戻すからゴメンな」
いじるのは幹から伸びる枝と紐でできた、大弓だった。
アカネは、アズサの木に謝りつつ、その生きた枝でできた飛び道具の出来に満足した。
それから、巨大な矢が指す方へ、鋭い視線を向ける。
木々の隙間から、野外に面した館の露台、開け放たれた窓の奥に灯りと人影が見える。
立ちのぼる草いきれの匂いが、暑い夏日を予感させる。
朝日が昇る前、アカネの狩りが、今はじまる。
◇
黒いドレスに身を包む、褐色肌の腕がテーブルにグラスを置いた。
その女、ノーラは夏の夜が終わるのが名残り惜しかった。今年も、館からながめる夜の森は素晴らしい。加えて、昨日の実験がうまくいって、彼女は上機嫌だった。
「閉めてちょうだい」
彼女が顎をしゃくると、尖った黒い耳が見えた。
居間の隅から人影があらわれ、崩れた死者の顔が灯りに浮かぶ。それは、低いうめき声をあげて足を引きずり、大きな窓に近づく。
ブンンッ! と風をうならす音が響く。
瞬く間に死者は壁に打ちつけられ、その胸から巨大な矢が生える。
目を開くノーラの前で、矢から炎が舞い上がり、火の山椒魚がわらわらと這い出た。
壁に、床に、飛び火し、壁に並んだ死者をてらした。
「何事? 外を見て!」
叫ぶノーラは、呪文を唱え、火の山椒魚に一匹ずつ帰還の術を施す。
死者たちは駆けて露台に出た。
一人が手すりから身を乗り出すと、下から紐が伸びて引きずられ、低い悲鳴も遠くへ落ちた。
ノーラは唇を噛んで、窓の外を向く。
朝日が昇りはじめていた。
「早過ぎる」と思う。見ると朝日は、翼を広げ近づいてくる。
「そんな……高位の精霊まで?」
金と赤に光り輝く火の鳳凰が、窓から舞い込み飛び回る。
燭台に留まり、羽を広げて一声鳴くと、部屋中を炎が踊った。
熱風を防ぎ、顔に腕をかざすノーラは、奥の扉へと消えた。
いつの間にか、窓際にアカネがたたずんでいた。
「少女はいたか?」
火の鳳凰が、金色に光る目を彼に向ける。
「私に人探しさせるなんて、どうかしてる。助ける前に燃やしてしまう」
輝く鳥は答えたが、炎の中、アカネは首を傾げるだけだ。
鳥は諦めたようにうなだれたあと、口ばしを上げた。
「生きてるものはここにはいない。熱い生き物は、奥の岩屋に。
次の使役は?」
「ここを焼きつくせ」
白む空から見下ろすと、崖になった山肌と森の間に、その館はあった。
ふいに爆発音が轟く。
館全体を炎が包み、朝日が差す中、崩れ落ちた。
◇
数日前。
酒場にアカネはいた。
昔、仲間と立ち寄った鄙びた山村。
人恋しくなり、思い出にも浸りたくて、数年ぶりに人里で過ごしていた。
「ほかにご注文は?」
声がかかり、顔を上げる。
明るい緑の髪をうしろで束ね、前かけ姿で白い腕を腰にあてる。女給は微笑んでいた。
「あ。とても満足。玉ねぎスープは滋味だし柔らかいパンも美味い。
ずっと木の実の焼き菓子だったから」
あわててアカネが応じると、娘は片眉を上げて顔を寄せる。
「変な人ね。飲み物を聞いてるの」
「では一番強い水がほしい。勇気を飲んで、君を笑わせるよ」
娘は呆れ、「じゃあ蒸留酒ね」と手をふり背中を向けた。
その晩、娘が酒場から外に出ると、口笛が聞こえた。
見上げると、何度も話した赤髪の客だ。屋根の上から笑顔で手をふっている。
娘は驚いた顔を、ほころばせた。
するとアカネは、音もなく飛び降り、また娘を驚かせた。
「送ろう。半月が美しいから」
娘は下をむいて「下手なナンパ」とつぶやく。だが顔をあげると、その頬を赤く染めて言った。
「私は、カタリナ」
◇
狩りの前日。
ウサギを仕留めたアカネは、森を出て草原を歩いていた。
ここ数日、カタリナへの贈り物を考えている。
昨日は木彫りのペンダントをあげた。技には驚いたが、反応はいまいちだ。
今日はウサギ肉のシチューにしよう。
こんな風に、他人のために心を尽くし、胸を弾ませるのはいつ以来だろう。彼は自分に驚いた。
ふと顔をあげて、笑みが浮かぶ。
「カタリナ! ……?」
草原のかなた、赤いドレスのカタリナが歩く。呆けたようにゆらゆらと、両腕を前にかかげた。
◇
立ち尽くすアカネの前で、血だらけの服に白濁した目のカタリナが牙を剥く。
死者に変わり果て、男の声で吠えた。
「どけ! 若造!」
『死体降霊術』だ。
アカネは途方にくれた。これを目にするのも何世紀ぶりだろう。目を離せないまま、「もう、救えない」と思い彼は目眩がした。
ふいに、死者が腕を伸ばす。
音もさせず、アカネは跳ねた。
彼女の指の上でさらに翔び、一瞬で背後に宙返りした。
ふり返ろうとする死者の胸から、剣先が飛び出る。口から赤い血を吹き出した。
「安らかに」
背中から彼女を抱え、アカネがつぶやく。
するとカタリナは首を回し、瞳に最後の光が戻った。
「妹が、連れて……れて」
「……! エッラだな? 任せろ」
彼はカタリナを、そっと地面に横たえた。
アカネはふり返る。
草原には、百もの死者が蠢き、森に向かって足を引きずっていた。