ベクターウィルス
人魚娘は特殊な生活空間を必要とするため、施術希望者はおらず、架空空間モデルのまま、キャンペーンに使うこととなった。
それでも人魚娘はＴＶ映像の中に、まるで本当に生きているかのように微笑み、泳ぎ、跳ねるのだから、実在を信じた人もいたかもしれない。
今の映像技術では、リアルタイムに実写と合成画面を組み合わせられるのは当然として、人魚姫（名前はマリンだ）ときたら仮想人格まで与えられているので、実在を信じる人もいるそうだ。
こんな仮想モデルを眺めていると、生きている人間とどこが違うだろう、と疑問すらわく。
元は同じＤＮＡのＡＴＵＣの四種類の塩基の組み合わせ。
片方はＲＮＡによって蛋白合成されたもの。
もう片方は電子記号とプログラムによってモデリングされたもの。
それだけの違いだ。
だが決定的に違うこともある。
生殖だ。生物として自分と同じ個体をつくること。
本能に従いながら、生物は繁殖し、進化と淘汰を繰り返して形を変貌させていく。
だが……。
いくら栄えても、種という単位では限界があり、いつか滅びる。
原始の海から生まれた、単細胞生物。
それが今は多様に分化し、地に満ちている。
生めよ、増えよ、地に満ちよ。
海から陸へ。川へ、丘へ、山へ、森へ、草原へ。そして空へ。
三葉虫も、恐竜も、その繁栄の時のいかに長かったことか。
しかし、今はもういない。
確実に残っていくのは、結局ＤＮＡという４種類の塩基なのだ。
それに一体何の意味があるのだろう。
僕たちに、それがわかろうはずもない。
生命は、ＤＮＡに支配されている。
すくなくとも僕達の意識が支配しているのではない。
喜色満面のボスが、野島ハルオミとともにインフェクション・デザイン（I.D.）の制作室を訪れたのは、彼のプロデュース映画第２作目が封切られたころだった。
野島は若い女の子を一人連れていた。
少女の名は鈴野ラサ。
くっきりと印象的な瞳と肉感的な唇、健康的でのびやかな肢体。
こんな娘は、その魅力を武器にしてどの世界でも生き残っていくだろう。
かつてのリリカとはまるで正反対の娘だった。
野島はこのラサにI.D.を施し、次の映画のヒロインにしたいと言った。
「ハーピィタイプがいい。リリカのように清楚な感じではなく、豪華にするんだ。
耳の下あたりにふさふさの飾り羽をいれて……。
そうだな、孔雀のような尾羽も欲しいな」
「それでは飛べないし、日常生活に支障をきたしますよ」
「きれいでありさえすればいいんだ。スターとはそういうものだろう」
緑の鱗で飾られた額の下で、眉をついとあげて野島は僕に同意を求めた。
しかし、ラサはリリカのように小柄でも痩せてもいない、ごく普通の少女だった。
無理にハーピィタイプにすれば、太った雌鳥になってしまう。
そう主張する僕に、最終的にボスは業務命令という伝家の宝刀を抜いた。
ラサをパーピィタイプに。
命令ならばやりましょう。
けれど、リリカの美しさは越えられない。
作業に入ってから、野島はI.D.室を頻繁に訪れるようになった。
デザインの細かい指示を出すためだ。
かなりうるさがったのだが、彼の方が一枚上手らしく頓着せずに部屋に通い、僕のチームのデザイナー達にすっかりなじんでしまった。
見た目を裏切らず、如才ない男だ。
「黒に青か。もう少し色が派手な方がいい。これじゃあカラスだ」
彼は僕の描いた翼の基本グラフィックを、毎回こんな風に覗き込んでは文句を言う。
「金属光沢の黒を基本にして、根元からターコイスグリーン、コバルトブルー、ロイヤルブルーとグラデーションになっているんですよ。リリカの羽と違って、厚みもあるし、太いから、これで十分に派手に見えるはずです。この上、尾に飾り羽が入ることも考えてください」
僕はモニター内のグラフィックに移動光を当てて、その変化を見せる。
色の当たり具合で、その羽は虹色の光沢を放つ。
メタリックでクール、そして派手に。
そう要望を出したのは野島だ。
野島はしばらくモニター内の翼表示を、動かして、色々な角度から眺め、色分布について細かい改定を要求してきた。
翼の形までやり直しでなくて幸いだ。
急がせる割に、３度も翼の形を変更させられたのだから。
ようやくＯＫが出た時には、10時を回っていた。
残っているのは僕たちだけ。
だいたい野島がくるのが午後遅くだから、なんやかんやと言っているうちにいつもこの時間だ。
壁の時計を見上げる僕に。
「今日はこれでよしとしよう。すっかり遅くなった」
とやっと開放の言葉が出る。
誰のせいで遅くなったんだ、と胸の内でつぶやいて、僕はさっさと帰り支度を始めた。
このところ、野島のせいで残業続きだ。
リリカともここ一月ばかり連絡をとっていない。
白い翼の僕の天使。
今夜あたり電話でもしてみようか。
「かなり長いこと、リリカと会ってないだろう？」
そのタイミングの良さに、見透かされたようでぎょっとなる。
振り返ると、僕の椅子にふんぞりかえった野島が僕を見上げていた。
流行のスーツの袖からみえる時計ベルトは、その額を飾るI.D.に意図して合わせているのだ。
トカゲ男。
ふと、そんな単語が頭に浮かんだ。
たぶん、額の鱗はグリーンイグアナからサンプリングしたＤＮＡ、Ｌ分類のGG−E28−556あたりを元にしているだろう。
「今あいつは3日と空けず、俺の家に通ってきている」
野島は細身のシガーに金縁のライターで火をつけ、ほうっと薄絹の煙を空に放った。
「それで？」
嫉妬に狂って見せろとでもいうのか。それとも悔し涙を見せれば満足するのだろうか。
リリカが誰と寝ようが、僕は拘束するつもりはないし、拘束したつもりもない。
「リリカに見限られたな」
世馴れたような口許が、歪んで笑いの形になる。
「そうでもない。すぐに戻ってくる」
「確信しているんだな」
「リリカを理解しているだけだ」
僕は言って踵をかえす。
どうもこの男とは相性が合わない。
「理解？ 何を理解しているんだ？ あいつは俺に惚れている。
お前は近いうち、別れ話を持ちかけられる」
絶対優位を疑いもしない口調。
理解してないのは、野島、お前のほうだ。
リリカは僕を愛している。
白い翼のリリカをつくりあげた僕を。
「あなたはどうなんです？ ラサとリリカ、両天秤では忙しいでしょう」
一拍、間があいた。
ラサの、野島へ向けられた眼差しを、僕が気づかないとでも思っているのだろうか。
とりあえず、ワンポイント先取。
口の中で何かをつぶやく野島を残して、僕はゆっくりとドアを閉めた。
暑い日々が続きます。今回はちらっとインフェクションデザインされた人魚娘が出てきたので、少しでも涼しさを…って無理ですね。みなさんどうか熱中症にお気をつけください。次回はライバルのラサ登場！
