第五章
この捜査資料は案の定、荒松達第四班に、かなりの有益な情報をもたらした。
まず判明したのは、今回の火災で亡くなった二人の死因である。
司法解剖の結果、菅原隆義、清子夫妻共に、死因は首を圧迫されたことによる窒息死と判明した。
まず捜査本部が着目したのは、"二人共、二階の寝室で、ベッドに横たわった状態で発見された"という点であった。
心中であれば、いずれかが自らが首を吊った状態で発見されねば不自然である。それが二人共ベッドで…となると、何者かが首を閉めた上にベッドに転がし、火を点けたと考えるのが自然だ。
調べを進めるうちに、不自然な点はまだ出てきた。
まず、菅原清子の首に残されていたうっ血痕。ここに残されていた手の大きさが明らかに隆義氏のものより小さかったのである。さらに聞き手が違う―犯人は、左利きだったのである。
ここまで詳細に二人の遺体から情報が得られた、というのは正直幸運だったとしか言いようがない。本来ならば、焼けたことによる遺体の損傷でここまでは出てこないはずである。
これには、理由があった。
二人のベッドの足元にあったストーブが火元であったにもかかわらず、二人の遺体は奇跡的に、上半身が無事だったのである。
そして上半身が無事だったその理由は、周辺が住宅街で住民同士の結束が固く、119番通報が速かったこと。たまたま消防士が真っ先にホースでかけた水の先が、寝室だったこと。これらに起因する。
次に捜査本部が考えたのは、この一家を殺害しようとした動機、そして犯人像だった。
屋内に荒らされた形跡は無かった。ということは、物盗りの犯行ではない。
となると残りは怨恨、となるが、それにしては遺体の具合を見ても"強い殺意"というものが感じられない。一般に強い殺意を持った犯人というのはカッとなって刺しに行く(それも、何度も)というのが―例外はあるが―通説である。しかしこの二人の遺体から読み取れるのはそのシンプルさ―…一切の無駄が感じられないのである。抵抗した形跡すら無い。大変失礼な言い方だが、"ただ殺した""始末した""見事なお手際"…こういった表現がしっくり来る。
ここまで思考した捜査本部が出した結論は、こうだった。
"菅原一家を殺害したのはプロで、その裏で、それを依頼した別の人間が居る"―。
ここまで思考した彼らは一先ず、菅原一家の周辺の人間に、一斉に聞き込みをかけた。
これにはまどかにも覚えがあった。
事件の数日後、自宅に刑事がやってきて、事件前や当日の菅原玲奈の様子について聞かれたのである。
まどかは正直に答えた。
「前日も当日も、彼女に変わった様子はありませんでした。
あの日はいつものように帰りにカフェに寄って、少しおしゃべりしてから帰る予定やったんですが、直前になって彼女が、『あ、今日はまっすぐ帰らなあかんのやったわ。親が、なんか話あるとか言うてて。』って言われて、それで別れたんです。夕方5時半くらいやったかな。で、家帰って、カバン漁ってたら、そういや先生から、玲奈い渡しといてって預かってたプリントがあったの思い出して、それで、ちょっとゆっくりしてから玲奈ん家向かうことにしたんです。出る前、何回か電話したんですけど、誰も出んくて、おかしいなとは思ったんですけど、うちからは歩いて10分ほどやし、次の日土曜日でこっちも用事で会えへんし、今日の内に渡しといた方がええな、って思って、で向かったら…。」
「その話、というのはどんな物だったか、分かりますか?」
刑事の質問に、まどかは首を横に振った。
続けて彼らが聞き込んだのは、菅原隆義氏が勤務していた京都府内の大学だった。
彼らは正式に捜査令状を取り、隆義氏の研究室にあった物品を全て、証拠として押収した。
菅原隆義氏はその大学の教授職だった。学部は農学部。植物学の専攻で、研究室も一室、与えられていた。
ここで驚きの事実が判明する。
菅原研究室に所属していたはずの当時の研究員、助手、および学生全員が中退、または転校していて、この大学から姿を消していたのである。研究室に私物を全て残したまま。中には行方が分からなくなっていて、家族から捜索願が出されている者まで居た。
この時、火災発生日からわづか3日のことである。
いくらなんでも、これはおかしい。
(菅原氏は、ここの研究で何かトラブルに巻き込まれて、殺されたんやないか…)
研究と殺人。全くもって相容れないように思われるが、この示し合わせたような研究員達の失踪に、捜査員たちがそう考えるようになったのも自明の理と言えた。
さらに、不審な点はまだ見つかった。
菅原研究室が管理していた温室の中。その一角に、明らかに人の手で何かを掘り返したような跡が見つかったのである。
どうやら、元々何か植えられていた物を、根こそぎ引き抜いて持ち去ったようだった。土の跡も新しい。
鑑識に調べさせたところ、掘り返されたのは今から一週間以内ではないか、との回答だった。
仮に一週間前、となると事件の3~4日前ということになる。
どれもこれも、タイミングが合い過ぎている。まるで示し合わせたようだった。
彼らはさらに捜査員を投入して、事件前の隆義氏の様子と、それに並行して行方不明になった学生の捜索を始めた。そして、その一環でこの大学の農学部の学長、さらに農学部植物学専攻の全ての研究室の人間一人一人を回って、聞き込みを開始したのである。
この間、事件から10日あまり。
恐るべき執念だった。
捜査打ち切りが言い渡されたのは、この矢先の出来事だった。