第四章
桜が散り始めたというのに、この日に限って寒い一日だった。
花びらが舞い散る木枯らしまがいの風に身をすくめ、男が一人、歩いていた。
日も暮れ、辺りはもう真っ暗だ。
目の前には、行きつけの赤提灯。
男はくたびれたスーツと共に、その縄のれんをくぐった。
あれは間違いなく、殺しだった。
捜査に当たった人間の一致した、これは認識だった。
が、ある日突然"鶴の一声"で打ち切られたのだ。
あの捜査の当時トップだった、警視が署長に詰め寄ったと聞いている。
あの人は真っ直ぐな人だ。皆に慕われる上長だった。
自分も尊敬していた…が、当然…、何も変わらなかった。
いや、変わった。
その警視は左遷された。
我々は駒に過ぎない。押し黙る他無かったのである。
男はテレビに背を向け、白鳥(徳利)を同じ色の猪口に傾け、ぐいと飲んだ。
しかし、その眼には何も映していなかった。
映るのは、自分の襟首を掴む菅原隆正の顔。あの事件の唯一の生存者、菅原玲奈の嗚咽。その彼女を抱きしめ、何も言わず非難の目を向ける菅原由紀子。そして…。
ここで男はポケットから何か取り出した。
それは、名刺くらいの大きさの紙片だった。
そこには一言だけ、こう書かれていた。
"良心はとがめないのか?"
この紙がいつ、入ったのか。
男は皆目、見当がつかなかった。
この事実を、男はまるで冷水を浴びせられたような心で、見つめていた。
一般に警察署に勤める者…特にこの男のような刑事事件にあたる人間…は、特殊な訓練を日々、受けている。目の前の視野だけではなく、背後にも目を持っていなければならない。少なくともこの男にはその自負があったし、それは若干25歳にしてこの地位、そして今回の捜査の一員に抜擢された、という結果にも繋がっていた。
しかし、この紙はそれらを全てすり抜け、今日一日中着ていたこのスーツのポケットに入っていた。本人の全く気が付かぬ内に。
そして、この一枚の紙を境に、徐々に男の周辺がおかしくなりはじめた。
ある時は、たまたま入ったカフェで頼んだ、カフェラテのトールサイズの紙コップの底。
"あの事件、ホントは殺人ですよね?"
ある時はこことは別の居酒屋の、ビールと一緒に店員が持ってきたコースターの裏。
"菅原玲奈さんを極秘裏に転院させたのは、貴方ですね?"
その通りだった。
捜査が打ち切られ、あの警視の左遷が決まったあの日。
男はその警視にこっそり呼び出された。
「こうなったら俺も意地や…あの病院は危ない」
「同感です。自分も何度か行きましたが…」
菅原玲奈があの病院に入院してすでに三回。夜勤見回りに出ている看護師、警備員から110番通報がされている。しかも、彼女が入っている病棟内で。内容はいずれも、不審な侵入者有り、との旨だった。
いずれも、こちらが到着する直前に逃げられている。
彼女が何者かに狙われているのは、火を見るよりも明らかだった。たまりかねて、ここ数日は私服の女性警察官を玲奈の居る病室に常駐させているくらいだったのである。
「高田。」
「はい」
男が返事した。
「若松。」
「はい」
返事したのはその女性警察官だった。
「丹波警察署には俺が連絡を付けておく。高田は丹波市内の転院先の確保。終わり次第、移動手段の確保に当たれ。若松は菅原さんご家族へ連絡。その後高田と合流して二人でかかれ。時間をかけるなよ…これは極秘裏…俺の一存や…頼む」
そう言って、警視はかつての部下に頭を下げたのである。
信じられない一幕だった。
とある昼下がり。
男はその日、非番だった。
のそのそと起き出し、顔を洗い歯を磨いて、トーストしたパンをもそもそと食べる。
殺風景なワンルームの一室だった。
男はその後階段を降り、何とはなしに郵便受けを覗き…再び、戦慄した。
"高田恭輔様"
何の変哲もない角2の茶封筒。
しかし、住所が書かれていない。消印も押されていない。当然ながら、差出人の情報は何も書かれていなかった。
何か、刃物が入っているかもしれない。
男は慎重にはさみでそれを切り、中身を取り出した。
予想に反して、出てきたのは数枚の文書だけだった。
" 突然の私信をお許しください。
本日、誠に勝手ながら前金を貴方様の口座に入金いたしました。
額面は50万円です。ご確認ください。
こちらが欲しい情報は、以下の通りです。
・菅原隆義、清子ご夫妻の司法解剖データ(全て)
・今回打ち切られた垂水区多聞台放火殺人事件についての、これまでの捜査情報(高田様のお分かりの範囲で結構です)
大変失礼かと存じましたが、貴方様の身辺を調べさせていただきました。
歳の離れた妹さんがいらっしゃるのですね。
親御さんを亡くされていて、貴方が父親代わりにお育てになっていると聞きました。そして重篤な心臓の疾患をお持ちだった、とも。
幸い、一時は不可能ともいわれた手術が成功したものの、投薬による治療はまだ必要で、その薬が認可外か何かで保険が効かず、貴方がそれと、入院費用も全て負担なさっていて、借金もなさっていると伺いました。
このままでは、利息で借金は膨らんでしまいます。
宜しければ、是非ご助力をさせていただけないでしょうか。
上記の情報をお渡しいただければ、その場で上記の前金と同じ額か、ご相談いただければもう少し上乗せで、お支払いが可能です。
なお、お渡しいただけない場合でも、前金の50万円はそのままお使いいただいて結構です。
何卒、お考えいただけますと幸甚です。
最後に、私共のお話をさせて下さい。
訳あって、現在私共は今回の放火殺人事件の犯人(おそらく組織と思われる)に付け狙われております。
一時は貴方がたの捜査の行方に光明を見出していましたが、その希望は閉ざされました。
おそらく、いつか、この犯人と対峙せねばならない時が来るものと思います。たとえ、私共全員が死ぬ、と分かっていてもです。
貴方のもたらす情報は、溺れ行く私共のいかだとなりえます。
私共を見殺す、というのも一つの選択と思います。
何故なら貴方は旭日章にその心身を誓っている方だからです。
私共のこれまでの行為はどう見ても脅迫まがいでした。申し訳なく思っております。
しかし。
私共は出来ることならまだ"生きたい"のです。大変お恥ずかしい限りですが、切羽詰まっております。
この情報をお渡しいただければ、これよりまだ続くであろう命の犠牲は、食い止められるやもしれません。
再度、お願い申し上げます。
何卒、お聞き届けを。"
そして、その後ろには情報の受け渡しをしてもらえる場合の、男への行動の具体的内容が詳細に書かれていた。
期限は書かれていなかった。
待つ、と言っているのだろう。
男は読み返した。
そして頭を抱え、うなだれた。
まるで、心の中がぐちゃぐちゃにかき混ぜられているようだった。
あれから、一週間が経った。
男は変わらず、県警の中で、駒のように働いていた。
あれから考えた。考えて…
何もしないことに決めた。
そんなある日のことだった。
「…いい気味やわ」
ご満悦、というような感情が乗ったような声がして、高田は振り向いた。
「署長も人の悪いことをなされます。」
応じたのは、その配下に居た男のうちの一人だった。まるで恵比寿様みたいな顔で、にこにことしていつも腰ぎんちゃくのように、署長に取り入っている。
「えー?そう???俺、これでも優しいで通ってるで?」
「えぇ、えぇ。全くです。」
にこにことしながら、二人は歩き去る。
高田はその後、見た。
二人に出していたらしきお茶を頭からぶっかけられ、死んだような目をして署長室の床で正座させられる元警視の姿を。
すると、みるみるその元警視の顔が歪み、背中を丸め、えずき…嘔吐した。
署長か、あの腰ぎんちゃくが、正座する元警視の腹を蹴り上げたのだ。
この時だった。
高田の心中に在った最後の糸が、ぷつんと音を立てて切れたのは。
4月末。
こうして、まどかは学校の校庭からそれを見た。
ぼろぼろになった、分厚い角2の茶封筒をかかげ、こちらに向かって、にこりと笑う入谷将史の姿を。
高田が、兵庫県警がその手で、その足で拾い集めた捜査資料。
それらを一気に手に入れた、その瞬間だった。