第三章
4月に入った。
まどかは高校二年生になった。
菅原玲奈は結局あのまま転校となった。
しばらくの間、クラス内は彼女の話や噂でもちきりになった。しかしそれも本当に、"しばらくの間"だった。
クラス替えも行われ、新学期が始まると、移り気な高校生たちの話題はあっという間に別の物へとすり替わっていった。
あれから一か月半。
まどかは本当に、大人しくしていた。
正確には、"動けなかった"と言って良い。
(…また、おるわ…)
まどかはこの時、垂水区内になるとある商店街の中を歩いていた。
その数10m後。白いニットにベージュのコート、黒のスラックスの女性。
(ご苦労なことで…)
今日もまどかにはぴったりと尾行が付いていた。
まどかは黒ウサギとしての活動が一切、出来なくなっていたのである。
これに対する荒松と入谷の行動は、迅速なものだった。
とりあえず、まどかとの連絡や、会うための手段が著しく限られてしまっているのである。このままでは実行犯としての活動にも支障が出る。
そこでひとまず、尾行している人間から調べることにした。
ほどなくして判明したのは、以下である。
・まどかの周辺を嗅ぎまわっているのは、民間の調査会社だった。つまり、探偵である。
・尾行に割かれている人員は全部で5~6人。
依頼している人間は、相当の金を調査会社に渡していると見て良い。
荒松は思案した。
(目的は何や…?)
彼らの動きを見ていると、何かを"待って"いるように見えるのだ。
「…ちと、揺さぶってみるか…」
と言って、大したことは出来やしないのだが。
荒松は、吸っていた煙草をぎゅっと灰皿に潰すと、携帯のボタンを操作し始めた。
数日後。
まどかの姿は、菅原玲奈の旧宅…例の火災現場にあった。
とうに警察が手を引いていることもあり、規制線は無い。がれきなども取り除いたらしく、綺麗な更地になっていた。かろうじて、以前玄関へとつながっていたレンガを敷き詰めた通路が名残として残っている。
まどかはその通路部分…すでに手向けられていた沢山の花束の隣に、自らも持参した花をたむけ、そっと手を合わせた。
と、その時だった。
ひゅっ、と息を飲むような声が背後で聞こえ(先ほどから犬を連れた女性が歩いてきているのは分かっていたのだが、今気が付いた風を装って)、まどかは振り返った。
「…あんた、あの時の…」
見ると、あの火災の時隣にいた、おばさんだった。あの時まどかは、彼女が持っていたバケツの水をひっかぶり、燃え盛る火の手の中に飛び込んでいったのである。
そのおばさんの顔がみるみる引きつり、青ざめた。
「…こんにちは。」
まどかはあえて、にこりと笑った。その時ちらりと、真向かいにあった一軒家の窓を見た。
カーテンが慌てて閉まる。やはり、誰かが見ていたのだ。
(例の探偵もおるし、ほんま視線だらけやわ…)
居心地は正直最悪である。なんてのんきに思っていると、
「…あんた。ちょっとここはアレや。危ないことはせえへんから、ちょっと家来よ。ついといで」
その中年の女性はこそこそと早口で言うと、まどかの手をぐいと引いた。
「…え、ちょ、」
まどかの心臓がひゅっと冷たくなった。
(まさかこの女、相手さんとグルでうちを連れ去ろうとしてるんやないか…?)
これである。
まどかはその手を器用にひねり、女の手をするりと外すと、
「わ、分かりました。行くんで、家族に電話させてもろていいですか。あと、こっちの手はやめてください。あの時の怪我がまだ治ってなくて、痛いんです」
怪我は8割がたウソだが、まどかはしゃあしゃあと言ってのけた。
「ああそうなんや、ごめんねえ。うちはそこや、家の人もおるし、心配いらへんよ。」
女性はようやく笑った。
その女性の家は本当に、あの現場の目と鼻の先にあった。
しかも、その家のリビングからひょいと出てきた顔にまどかは思わず声を上げた。
「あっ…吉田君」
「お、北島さんや。いらっしゃい。おかん、一緒でどないしたん?」
吉田誠君。今年から同じクラスになったクラスメイトだった。
「そこの玲奈ちゃん家でお花持ってはったから。連れてきたんよ。」
「あぁなるほど」
誠は暗い顔で窓の外を見やった。そしてまだ明るいというのにもう、カーテンと、雨戸までぴしゃりと閉め始めた。
「…?」
少し、用心深過ぎやしないだろうか。
「今日はどないしたん?」
聞いてきたのは誠だった。
「やっと来る暇が出来たから…。玲奈のご両親にお花あげにきた。それだけ。」
まどかは正直に答えた。
誠は頷きつつ、「…北島さん、あのな?実はあれからちょっと色々あって…、今、この辺りは色々、危ないんよ。正直、家もピリピリしてる。あんまりここは、来ん方がええよ」
と言った。
「…それ、どういうこと?」
まどかは緊張に顔を引きつらせる誠の顔を見た。
「…実はね…、」
お茶を出してくれながら、先ほどの女性…誠の母親が口を開いた。
「家の真向かいに近藤さん、て方が、おじいちゃんで一人暮らしされてるんやけど」
母親は誠の隣に座って、「…二週間くらい前から、行方不明なんよ」
「…!!」
まどかの背すじが、さあっと凍えた。そして、思い出していた。
『近所の人から、不審者の目撃情報もあるって…』
その目撃証言をした人の名前。確か近藤 勲と言わなかったか。
「パート先から無断欠勤の連絡がご家族にあったらしくて、それで発覚してね。ご家族はすぐ、警察に届け出したらしいんやけど、見つかってないって…。だから、ここは危ないかも分からんから、あまり来ん方が…。」
「そうやったんですか…。全然知らんかった」
まどかはショックが隠し切れない様子でうつむいた。
「北島さん、もう暗いし、帰り送ったるよ。」
誠はそう言ってくれた。
「うん。ありがと。」
多分、彼は大丈夫だろう。まどかはお言葉に甘えることにした。そしてまた、身体がうすら寒くなるのを感じた。
(…近藤さんは、もう、あかんのと違うやろか…)
まどかの勘は、正しかった。
この数日後、近藤勲(64)の遺体が発見された。
場所は神戸市兵庫区、和田岬にある某造船所敷地内。
遺体は敷地にある消波ブロックに引っかかっていたそうだ。
死因は、溺死だった。