第一章(下)
ガラッ。
そこへ扉が開き、病室に現れたのは一人の女性だった。白髪交じりの髪。小さな薄い唇には上品そうな皺が添えられている。そしてその上に乗った茶色い瞳が驚きに見開かれ、まどかを見ていた。
「…まぁ!まぁ!!」
女性はみるみるうちに感極まった声を上げ、突然まどかの肩をガッシと掴んだ。
「…?!」
誰やねんこの人。
「あ、」
と玲奈が声を上げ、「紹介するわ。叔母の、由紀子さん」
「…!!」
これはこれは。
「まどかちゃん…玲奈ちゃんのこと…ほんまありがとうね。夫も、よう御礼言うて、て申してました。ほんま…!」
その上品な可愛らしい年かさのある女性…菅原由紀子は涙をぼろぼろとこぼしながら、まどかの手を握ったのだった。
この出会いにより、入谷も調査が及んでいなかった事柄がいくつか判明した。
玲奈は今後、父方の叔父である菅原隆正の元に引き取られることが決まったらしい。
養子縁組も組み、戸籍上も隆正、由紀子夫妻の子となるのだそうだ。
「それでな」
玲奈はかすれた声で、「もう垂水には戻らんとこ思うんよ」
「うん、それがええと思う。つらいやんな」
まどかは頷いた。
「隆義さんからは、前まえから『何かあったらこの子を』って、よう言われとったんよ。…まさかこんなことになるなんて…」
由紀子は言葉が見つからないようだった。
(隆義、とは玲奈の父親の名である。)
「でな、」
玲奈はまどかを見、「あんなことがあったし、アレかもしらんのやけど」
「…?」
「引っ越し落ち着いたら、新しい家に遊びに来てくれへんかな」
「…!」
それは願ってもないことだ。「勿論。ボクで良かったら全然行くよ。てか、ここもちょくちょく来るし。」
「ありがとう。」
玲奈はほっとした顔になった。
その他にも、もたらされた情報がいくつかあった。
玲奈が引き取られることになった叔父夫婦の家は、丹波にあるそうだ。
兵庫の山合いの地である。
玲奈の回復は思ったより順調のようだった。火事の時挟まれた両足共、骨に異常が無かった(全くもって運がよかったとしか言いようがない)ことも大きかった。むしろ懸念されたのは頭を強打したことによる脳への影響(頭蓋骨に少しヒビが入ったようだ)と、煙を吸い込んだことによる肺と喉のダメージとのことで、精密検査を繰り返し、経過を見ながら治療にあたるとのことだったが、そこで異常が見つからなければ退院となるそうだ。
「早ければ数週間やて。」
玲奈は言った。
あと当然ではあるが、菅原隆正ご夫妻、そして玲奈本人共、『玲奈の父母の死に不審な点があり、現在司法解剖に回されている』という事実を知っていた。
「さっき警察の人から説明があったんよ」
やはり、ニアミスしたあの二人はその説明に来ていたらしい。
「あの日、帰ったら台所のテーブルにおやつがお皿に盛られててな。それつまんだんやけど、あの中に薬が入っていたんやと思う」
それはドーナツだったという。リビングと続きになっているダイニングテーブルに数個盛られていたそうで、その前日も同じものを両親と一緒に食べていたものだから不審に思わなかったのだと言う。
まどかはあの日のことを必死で思い出していた。
玲奈が倒れていたのはリビング。いわゆるダイニングリビングで、かけつけた所の左側にそういえば、それらしきテーブルがあったような気がする。
(犯人が持ってった…)
そう。
テーブルには、何も載っていなかった。
「一体、なんでこんな…」
「あとは警察に任すしかないよ玲奈ちゃん」
由紀子はそっと玲奈の肩に大きなショールをかけてやっていた。
「うん…」
玲奈は力なく頷く。
「大丈夫やって。」
由紀子は力強く言った。「これだけ証拠が揃ってるんやから。犯人すぐ捕まるよ。近所の人から、不審者の目撃情報もあった言うてはったやん」
そうなのか。これも初耳だ。
思えばあの辺りは住宅街ではあるが、町内会の結束もかなり固い。夜は二、三度ボランティアによる車と、徒歩によるパトロールがあったはずだ。それだと確かに、見かけない人が通れば目立つだろう。
「玲奈。いつでも連絡ちょうだい。電話、出られるようにしとく。」
まどかは言って、「また来るわ。宿題も終わってないし…」
「うん、ありがとう」
まどかは手を振り、由紀子に一礼をしてから病室をおいとました。
証拠は揃っている。近隣による目撃情報もある。
(これは捕まるのも時間の問題かもしらんわ…)
まどかはいくぶん軽い足取りで、帰路についた。
しかし、この時のまどかの考えは見事に裏切られることとなる。
一週間後。
菅原隆義、清子ご夫妻の遺体は警察から返されてきた。
警察による捜査も、突如打ち切られた。
問い詰める隆正と玲奈の前にそっけなく返ってきた回答は、以下の二文のみだった。
”事件性無し”
”本件は、菅原隆義氏による無理心中とみられる”