森の秘薬の不足、市民の混乱
深夜、バードは自宅で焦りのあまり眠れなかった。
「いくら何でも人気過ぎるだろ」
森の秘薬はバードの狙い通り町で人気となった。その結果手に入らないと文句が出るほどであった。
「文句が出るのは嬉しい。だけど……事業?」
バードの焦りは文句ではない。それは商人になって何度も言われた。
焦りの原因は人々の溢れるばかりの期待であった。
数日前の話である。バードは約束通り、森の秘薬を顧客に売った。
「ちょっと話がある」
ありがとう、それで話が終わると思ったら、突然付いてくるように言われる。
何だろう? そうやって暢気に考えていると、森の秘薬を購入した顧客が教会にみっしりと集まっていた。
「バード。久しぶりだな」
「旦那!」
代表として現れたのはイースト領でも有数の貴族であり、バードが香辛料の大取引をしたザックであった。
「森の秘薬。噂を聞き、実際に使ってみた。素晴らしい効果だ!」
ザックは黒髪と張りのある肌で満面の笑みを浮かべる。
「アマンダとシスターにも話を聞いた。もはや神の奇跡と評するしかない。おまけに美味い! 神が我々に慈悲を授けたと思っている」
「それはどうも」
「そして私たちは思い立った。神の奇跡は皆で共有すべきだと」
「共有ですか?」
「私から話するね」
娼婦のアマンダが妖艶な体でバードの体に覆いかぶさる。
それから耳元で天使のように囁く。
「これって食べ物にも薬にも使えるけど、もっと凄いのは若返り! 肌に塗れば立ちどころに綺麗になること! そこで、娼館は閉じてお風呂屋を経営して見ようかなって思ったの」
「な、なるほど」
「でもお風呂屋ってお金がかかるでしょ? それに森の秘薬も沢山必要。だからザックさんに相談したの」
「そ、相談?」
「ザックさんが俺たちに金を出してくれるのさ」
町一番の料理人カロックが笑う。
「金を出す? でもザックさんは貴族だ。貴族が金の貸し借りをするなんて聞いたこともありませんよ?」
「時代の流れだ」
ザックは感動したように涙を目に蓄える。
「彼らに金を貸すことで、森の秘薬は人々にいきわたる。まるで空気のように。それから想像できる世界は? 病気が無く、飢えもない、皆の笑顔が蔓延る世界だ! 森の秘薬なら必ずできる!」
「そ、そうですか」
「信じられないか? 意外だな。君ほどの人物なら想像できると思っていたが?」
ザックは残念そうに眉を寄せる。バードはザックが以前と違い、重々しく語り掛けていることに震えた。
「人間が食べても大丈夫なら、牛や馬、豚も大丈夫! 畑の肥料にすれば豊作間違いなし!」
アマンダは夢見る乙女のように若々しい笑顔を浮かべる。
「バード! 子供たちにも病人にも森の秘薬が必要なんだ! 頼むよ!」
シスターは神に祈るように悲願する。
「もちろん、報酬は払う。神の奇跡には不足かもしれないが、これが私たちに用意できる精いっぱいの金だ」
ドサリの樽二つ分の金貨が並ぶ!
「ちょ、ちょっと待ってくれ!」
あまりの大金に恐怖を覚えて飛び上がる。
この金は、ザックはもちろん、教会に居る人々の全財産じゃないか?
命じゃないか?
それを感じ取った瞬間、頭が真っ白になった。
「頼む! 足りないかもしれないが、私たちに売って欲しい! 私たちの目標のために!」
教会に立つ全員のお辞儀を受けて、バードの混乱は頂点に達した。
「わ、わかりました。そ、それで、どれくらい欲しいんですか」
絞り出した声は神に対面したかのように震えている。
「樽で四十ほど欲しい」
「四十ですか!」
「料理、お風呂、薬、肥料、今必要な分はもちろん、試したいことも山ほどある。だからそれだけ欲しい」
皆の目は獲物を狙うハンターのようにぎらついていた。
殺気立っていたと言っていい。
「わ、わかりました。でも時間がかかります」
「どれくらい?」
声は先ほどと違い、冷たい。苛立っていることは明白だ!
「その、材料が足らないんで。でも数日くらいには何とか」
「そうか。数日なら我慢しよう」
教会をため息が包む。
「さあ! 今日は記念すべき日だ! 飲もう!」
そして一気に場が沸き立つ。
「お、俺はちょっと忙しいんで! すぐに帰ります! また数日後!」
その日、バードは逃げ帰った。
震えるバードだったが、酒を飲んで気を落ち着かせると暢気になる。
「いやいや! 欲しい物を届けるのは商人の悲願だ! 俺を頼りにしてくれる人が居るってことだ! ここは喜ぶべきだ!」
持ち前の明るさと楽天的な考えでその日は眠った。
しかし騒ぎは次の日になっても収まらない。
「売ってくれないの! 私の傷を見てよ! ここ! この切り傷!」
「私は病気よ!」
始めに訪れたのは娼婦であった。
「もう在庫がねえんだ! 分かってくれ!」
「うう! また来るからね!」
娼婦は美しさが武器だ。美しさのためなら体はもちろん金貨など安いものである。おまけに病気や怪我も治るのならば諦めるなど無理な話だ。
「在庫が無い? 私に売れないと言うのか?」
次に訪れたのは貴族や金持ちの有力者だ。健康、若さを金で買えるのならば地位すらも安い。
「私に売ってくれれば、君を貴族として推薦してもいい」
「ありがたい話ですが」
そこから何時間も話し合う。
「私は諦めない! また来る!」
帰ってもらうと汗だくの体を酒で潤す。
「いや! 次に買ってもらえばいい! 今はないけど次はある!」
バードは楽天的に物事を考える。
そうしないと押しつぶされそうだった。
そんな日々を過ぎてようやくゼロと出会う。
「やっと会えた!」
バードは心底安堵した。そして戦慄した。
「もしも断られたらどうしよう?」
輝かしき人々の期待を裏切る。それはバードにとって最大の恐怖であった。
幸い、ゼロは快く余分含めて五十の樽を用意してくれた。
しかし受け取った時のゼロの言葉にバードは肝を冷やした。
「次は四日後です」
「四日後! 余分な材料は十樽もあるから大丈夫か……」
バードはポーカーフェイスで不安を隠した。
それが昨日であった。
そして今日! バードの胃がひっくり返りそうな事態となる!
「次は二百樽用意してくれ」
「二百!」
倉庫を構えるザックの屋敷に行った時、バードは悲鳴を上げた。
「用意できないのか?」
「が、がんばります!」
「そうか! 前金だ! 家財道具を売り払うことになったが、安いものだ!」
「う、売っちまったんですか?」
「他の者も売っている。皆、森の秘薬にかけている!」
それを聞き、バードは笑いながら、泣きそうであった。
「だ、大丈夫だ! ゼロなら何とかしてくれる! き、金貨もあるし! そ、それにもしかすると事業が失敗するかもしれない! そうなったら二百樽も必要ない!」
バードは震える手で酒を飲む。唇が震えて酒が零れる。
バードは、趣味で商人になった男だった。小さい取引を重ねて日々を暮らす。損をしたら悔しいし、得をしたら喜ぶ。その過程で人々の笑顔を見る。それが人生の幸せであった。
そんな男のため、大きい取引をしたことは無い。精々、高級品の香辛料を取引したくらいで、しかも失敗したら仕方ないと気楽な考えでやった。
それが今、数千人の期待を乗せた取引をしている! 数十、数百人の人生をかけた取引をしている!
緊張で押しつぶされないほうがおかしい状況だった。
「だ、大丈夫だ! 絶対に大丈夫だ!」
もはやバードの脳はショートしていた。計画も立てられないほど圧倒されていた。
頼みの綱はゼロであった。
「もしもあいつが断ったらどうなる! 俺の人生は! ザックさんやアマンダ! カロック、シスター! 町の人々はどうなっちまう!」
いつの間にかゼロは、町の命運を握っていた。




