(1)
水蒸気の冷たい塊が、空から落ちてくる。丸、丸、丸で描かれるだろう、それらは、一人の少女にとっては、槍かもしれず剣かもしれない。
少女は、頭に何も被らず、裸足で冷たい道を歩いていた。家を出る時に履いていた母親の靴は、道を渡る時に転んで、失くしてしまったのである。いきなり走って来た馬車を避けるのに、少女のブカブカな靴は、役には立たなかったのだ。何処かへ消えた母親の靴は、今頃、浮浪児達が拾っているだろう。
街頭沿い、シャリシャリシャリ。
右に左に、シャリシャリシャリ。
少女は、人通りの多い道を、今度は歩き回る。
足先は、痛みから段々と感覚が無くなり、もう一度痛みが襲って来た後、足があるのか分からなくなっていた。冷たさは、温かさよりも速いのだ。
そうなっても、少女は、家に帰る事はしない。父親に叱られて、叩かれる事がわかっていたからだった。
「マッチは、要りませんか?マッチは、要りませんか?」
少女は、人の群れに声を打つける。か細いが、確かな声だ。運命では無く、何者かに、背中を縛られている者の声だ。
少女は声を出しながら、寒さで奥歯がカタカタなるのを感じた。それでも、やらなければならない。全て、売らなければならない。少女の背中には、誰も居ないのだ。
「マッチは要りませんか?マッチは要りませんか?」
少女は、また声を出す。人通りの多い道は、その声を吸い込んで、吐き出す事はしない。今日は、皆、空に浮かんでいる気持ちになっているからだった。
そんな中で歩き廻る少女は、透明人間のような物かもしれない。年の初まりを待つ街の雰囲気は、人を笑顔にしながら足早にさせる。幸福な人の為にある、素直なリズムなのだろう。だから、一番外側の少女には無関係であり、誰も足を止めないのだった。
少女は、道端で話している人にも、一生懸命に声を掛けた。止まっている人ならと、少女は考えたからだった。
「あの、マッチは要りませんか?」
五回目の二人組へ、少女は言った。
それに気づいた無精髭の生えた男が、少女の方を向いた。荒々しい顔をしている。
「俺は、要らないけどな。もう、年越しの準備は済ませちまった。お前、要るか?」
無精髭の男が、隣の男へ話を振る。無精髭の男と話していた、優しそうな男が少女の方を向いて聞いた。
「何処のマッチなんだい?」
本当に、優しそうな顔だった。少女は、買って貰えるかもしれないと、笑顔で愛想良く答える。
「スウェーデンマッチです。20本入りで4スキリングです」
「そっか、ドイツ製よりは良いな。どうしようかな」
気の良さそうな男が、顎に手をやりながら悩んでいる。少女は、二人をジッと見ていた。
「良いじゃねぇか。お前は、独り身なんだからさ。俺なんて、上さんから今日の飲み代くらいしか、小遣い貰ってねぇんだからよ」
無精髭の男が言った。気の良さそうな男は、「まぁ、そうだな」と何処かへ呟いて、少女の方へ屈む。
「それじゃあ、一つくれるかい?」
気の良さそうな男が、丁度の硬貨を少女へ手渡しながら言う。少女は、それが嬉しくて嬉しくて、なるべく湿気っていないだろう、籠の真ん中下辺りからマッチ箱を取り出すと、気の良さそうな男へ渡した。船の絵が、箱の真ん中に描いてあるマッチ箱だった。
「ありがとうございます」
少女が言うと、気の良さそうな男は、既に少女を気にしてはいないようだった。周りを見ながら、今から飲みに行く店を探している。無精髭のある男が、「嬢ちゃん、なるべく早く家に帰りなよ」と少女へ声を掛ける。少女は、軽く頷いたが、もう誰も見ていなかった。
二人は、一言二言喋った後、酒場へと向かって歩いて行く。少女は、その二人の背中を見送った。見えなくなると、また、声を掛けながら歩き始める。
「マッチは、要りませんか?マッチは、要りませんか?」
さっき買って貰ったからか、少女は、歩いている人よりも、喋っている人に声を掛けながら進む。
一組、二組、三組。
なかなか、買ってもらえない。
四組、五組、六組。
話すら、聞いてもらえない。
七組、八組、九組。
存在すら、感じてもらえない。
「マッチは要りませんか?マッチは要りませんか?スウェーデンマッチです」
少しずつ、話す内容を変化させながら、街の人に声を打つける。誰も、聞いてくれない。誰も、聞いてくれない。少女は、途方に暮れながら歩いていた。
不意に、ふわりと聞こえた街角の笑い声で、少女は足を止める。明々とした家から漏れた、太陽みたいな笑い声だった。
小綺麗な家の中で、何があるのかと、少女は気になった。窓の下に、中を覗くには丁度良い台が置いてある。春になれば、そこへ、鉢植えでも置いているのだろう。
少女はそれに乗ると、窓の外側の縁に捉まって、中を覗こうとする。台の上で、少し爪先立ちになっているが、今は、そんな痛みなどわからない。
少女が覗いた窓枠の中では、全く別の物語が流れていた。テーブルの上には、湯気の出ているミルク粥、塩漬けした豚のロースト、赤キャベツのサラダ、蒸したじゃがいもがある。きっと、シナモンの香りが、楽しげな家族を包んでいるだろう。
同い年くらいの少女が、父親と母親、お祖母さんと話しながら、ホットミルクを飲んでいた。
少女は、もう見ていられなかった。何が違うのだろう。私と何が違うのだろう。別の痛みが、少女を内側から突き刺している。血の流れない痛みの方が、血の流れる痛みより痛い。それでいて、薬は、この世に無いのだ。
落下する心情のまま、星空を見上げていた少女は、マッチを一箱、籠から取り出す。まるで、「私にはこれがある」と言わんばかりである。
シュッと一本、少女はマッチを擦った。窓枠の中、楽しそうに話していた少女へ向かう、少女の対抗だった。思想も、主張も無い、生きている人としての純粋な抵抗だ。誰しもが持っている、生きているというプライドである。
だが、その火の付いたマッチも、少女の目の前で、直ぐに消えた。風に吹かれて、直ぐに消えてしまったのだ。今は、糸状の煙が出ているだけである。
「お祖母ちゃん・・・」
少女は、優しかったお祖母さんを思い出した。寂しくなった時に、隣に居てくれる温かい人だった。でも、そんな温かい人であっても、いつかは冷たくなってしまう。動かなくなってしまう。
幸せの家の側、少女はマッチを売りに出て、初めて泣きそうになった。お祖母さんの「頑張るんだよ」という最後の言葉が、心の中で剥がれそうだった。全て剥がれてしまえば、お祖母さんに会えるかもしれないと、少女は思った。今ある状況から、存在を消してしまえば、何かを感じる事は無くなるのだから。
寒空の中で、壊れそうな少女が、小さな一人として立っている。マッチの先は黒くなり、煙すら出なくなっていた。
ザッザッザッと足音がする。少女の近くに、立派な服装の男性が立っていた。
ハッとなり、少女は少しだけ身を縮めたが、一目で普通の大人では無いと感じた。身分の高い人かもしれない。
右手と左手で目を擦って、何かを消した後に、少女は、その立派な男性の所まで歩いて行く。もしかしたら、マッチを買って貰えるかもしれないからだ。
「あの、マッチは、要りませんか?」
少女は、失礼の無い声色で尋ねた。立派な男性は、聞こえてはいるが何も答えない。少女を無視している。
丁度そこへ、馬車がやって来た。どうやら、立派な男性を迎えに来たようだった。
馬車が、立派な男性の前で止まる。従者か、執事かが降りて来て、ドアを開けると、立派な男性は乗り込もうとした。
少女は、最後に力一杯声を出す。
「マッチは要りませんか?」
立派な男性は、少しだけ乗るのが止まり、路上へと足が降りたが、また乗り込もうとステップへ足を置いた。
「買ってあげなよ。父さん」
中から声がすると、少年が顔を出す。少女と同い歳か、少し歳上かもしれない少年だった。
少女は、少年と目が合う。この人も、窓枠の中の人だと、少女は思った。
だが、少年は「あっ」という声と共に、馬車から軽く飛んで降りた。観音開きのドアが両方開いた為、中に乗っていた少年の母親らしき人の顔が、少女にも見えた。優しそうな女性だった。
少年は、少女の前まで来ると、靴を揃えて脱いだ。少年が履いている靴下には、冷たい水が染み込んでいく。
少女は、少年が何を始めたのか、わからなかった。不思議な事を始めた少年を、怖いとさえ思った。
そう思われているとは知らず、少年は、少女の目の前で片膝をつくと、立てている片膝の上に、大き目のハンカチーフを広げている。そうした後、少女を見て、少年は笑顔になった。
「このハンカチーフの上に、足を乗せてくれるかい?バランスが悪くなるから、僕の頭か、肩に手を置いて良いから」
少年の顔と一緒に発せられる言葉に、少女は、何方の返事も出来ずに従った。
少年は、少女の踵側のハンカチーフを、冷たい足首に優しく巻いて、軽く結ぶ。爪先側も、小さな結び目になるように巻くと、少女の足の甲で軽く結んだ。そして、自分の靴を手に取ると、少女へ履かせた。
「良かった。丁度良い」
少年は、少女にそう言って笑うと、自分の父親へ、ハンカチーフを催促した。少年の父親であろう、立派な男性は少し溜息をついたが、少年の言う通りにハンカチーフを手渡す。それに満足した顔の少年は、また、膝の上へハンカチーフを広げた。
「次は、逆の足ね」
少年は、優しく言う。
少女は頷いた後、肩幅の半分だけ左にズレると、少年の膝へ足を置いた。今度は、肩へと手を置く。
少年は、さっきと同じように、少女の足先へハンカチーフを巻くと、優しく靴を履かせる。
「これで良し。あっ、ちょっと待ってて」
立ち上がると、少年は、そう言って馬車へ急いで戻った。左の膝は、真っ赤になっている。
それを見ながら、少年の父親である立派な男性が、少女へ近づいてきた。財布から紙幣を、数枚取り出すと少女へと渡す。
「さっきは、すまなかった。これで、マッチを一つ売ってくれないか」
少年の父親が言う。少女に、断る理由は無かった。「はい」と返事をすると、手に持った紙幣を袋へ入れて、籠の真ん中辺りからマッチを取り出す。それを、少年の父親へ渡した。
「ありがとう」
少年の父親は、今までの顔とは違う顔をして言った。
少女は、大人の男性がこんな顔をするのだと内心驚いたが、それと合わせて、それを知れた事を嬉しく思った。「頑張るんだよ」の先に、綺麗な形がある事は有益な時間になる。
そんなやり取りをしている所へ、少年が戻って来た。手には、袖の無いロングフードを持っている。それを少女へ被せると、胸の辺りでボタンを留めた。ボタンには、紋章が刻まれている。
「頑張るんだよ」
少年は、そう言いながら、フード越しに少女の頭を二回撫でた。
「はい」
少女は、そう答えるのが精一杯で、初めての恥ずかしさを隠すのに一生懸命だった。
少年は、最後に「じゃあね」と少女に言う。最後まで、「はい」としか、少女には言えなかった。
少年が馬車に乗る。既に乗り込んでいた少年の父親と、ずっと微笑んでいた少年の母親の姿が、少女には見えた。その二人へ、少女が頭を下げると、少年の母親はもっと優しい顔になった。
そのタイミングを知ってか知らずか、従者か、執事かが、馬車の扉を閉める。窓越しに、少年の顔が少女には見えた。
ピシッと鞭の音が鳴ると、馬車が道に擦れるタイヤ音と共に、発車し進んで行く。少女は、それを見送る。よくわからない感情と一緒に。
馬車の中では、少年が満足な顔をして座っている。父親と母親は、顔を見合わせながら、少年の行動を納得していっていた。
「良かったの?お気に入りの靴だったのでしょう」
母親が、少年に聞く。
「良いんだ。彼女は、すぐに家に帰れそうじゃ無かったから」
冷たい靴下を脱ぎながら、少年は答えた。父親は、腕組みをしながら、窓の外を見ている。だが、何かを言おうと口を開いた。
「今回は、父さんの負けだが、いつでも出来ることでは無いという事は、覚えておきなさい」
「それは、わかっているよ。人に優しくするって難しいね。でも、出会った人くらいは大切にしたい。よく知らない人だとしてもね」
少年は、座り直すと、父親の方を向いて答える。
「いや、今は、それで良い。いずれ、わかる時が来る。わかった上で、何が出来るのかを悩めるようになりなさい」
父親は、少年の頭を撫でながら、笑顔で言った。母親も、優しい顔で少年の頭を撫でる。少年は、満面の笑みだった。
「母さんは、その悩みの先に、道がある事を願っていますよ。それにしても、今日は良い日になりました」
母親が言うと、父親は「そうだな、しっかりと育っている」と言いながら満足気だった。
少年は、両親の様子を見ながら、父親の頭の上にある小窓を見た。従者か、執事かが中を横目に見ながら、うんうんと頷いているのが見えた。少年は、彼とも仲が良い。
従者か、執事かは、少年と目が合うと、改めて頷いて見せる。少年は、それも嬉しかった。他人からの称賛ほど、納得できる物は無い。
一つの家庭の幸せが、馬車の中に濃縮されていた。そのまま、家の中にも灯る事は、誰にでも、容易に想像出来るだろう。
馬車の音を背にして、少女は歩き出した。温かい、温かい、温かい。ギュッとフードを握る。その温かさは、人の頭を働かせるには充分だった。
だが、良い余裕を与えれば良い方へ転ぶとは、綺麗な事だけを見てきた人の詭弁かもしれなかった。
少女は頭の中で、敵を探し始めている。マッチを買ってくれない人は敵では無い。一番の根源。一番最初。一番身近な敵。少女にとっては父親だった。あの声の主である。
歩きながら、少女は父親の変化を考えた。
お母さんが、私を産んで直ぐに死んだ後、お父さんは毎日泣きながら、お母さんの墓へ花を供えに行っていたらしい。だから、お父さんは優しかった。それにお祖母ちゃんもいた。私は、お母さんが居なくて悲しかったけど、それでも辛くはなかった。
大きくなって少し経つと、お祖母ちゃんとお父さんが、言い合いになるのが増えた。きっと、私の事でだったんだ。私には、悟られないようにしていたけれど。
そんな中、お祖母ちゃんがベットから起き上がれなくなった。私が、お世話したけれど、良くはならなかった。お父さんは、沢山お仕事をして、お金を持ってきたけれど、お祖母ちゃんはそのまま亡くなってしまった。
それからだった。お父さんが変わったのは。お酒と知らない女の人に、お金を掛けるようになった。私にも働けって言って、外に出されるようになった。学校に行かなきゃいけない歳になっても、学校に行けなかった。行かせて貰えたなかった。
お父さんは、悲しくて寂しかったのかな。
だから、一番近くに居てくれる人を探してたのかな。私が、離れていかないように、縛り付けていたのかな。
だけど、私の今と、それは全く関係無い。
少女は、そこまで考えると、教会の前を通り過ぎて、酒場が多い所までやって来た。朝方まで、明々としているのは、この通りくらいしかない。経験から来る事柄として、少女は、それを知っていた。そして、ここで一夜を明かすつもりだった。場合によっては、閉店後の酒場の中で眠れるかもしれない。家に帰れば、繰り返しになるだけだと結論付けていた少女は、酒場の軒先きに座って休んだ。
足先を見ると、先程の少年の顔を思い出す。絵本の中のお姫様のように、自分を扱ってくれた人だからか、少女は思い出すだけで顔が少しふやけた。どんな食べ物が好きなのか、どんな色が好きなのか、どんな事をしたら嬉しく感じるのかを想像しながら、少女は頭の中で、二人で一緒に遊んだ。
そんな事をして遊んでいる少女に、カタカタと酒場の裏口から音が届いた。なんだろうと少女は思った。少女にとっては、少し邪魔だったのである。
少女が裏口へ行くと、そこには見たことがある酒場の店主が、ボロボロになった台車へ、廃油の入った樽を置いている所だった。
「何しているの?」
少女は、店主へと尋ねた。
店主は、時間帯と少女の幼さに少し驚いていたが、一通りの作業を終わらせると、少女の方を向いて答えた。
「料理に使った廃油を捨てるのさ。この台車もボロボロだから、川辺で燃やしてしまおうと思ってね。嬢ちゃんは、家に帰らなくて良いのかい?親御さんが、心配しているだろうに」
「それは大丈夫。おじさん、そんな事よりも、液体が沢山入っているのに、この樽燃えるの?」
少女は、台車に乗っている樽の中へ、興味を示した。油面が、月明かりを反射して、輝いている。
「燃えるさ、これは油だからね。ゴウゴウと燃えるから、店の事はウェイターに任せて、俺は、これから火の番をするんだよ」
「そっか、燃えるんだ。良い事を聞いた」
そう言うと、少女はゆっくりと考えた。そして、燃やしてしまえば良いんだと思った。家ごと燃やしてしまえば良いのだと、あれがあるからいけないのだと、少女は強く思った。
「ねぇ、おじさん。これを売ってくれない?」
少女は尋ねた。店主は、それに眉を顰める。
「お嬢ちゃん、二足三文の価値も無い物だよ。どうして欲しいんだい?」
店主は、理由を尋ねた。理由によっては、譲る気など無い。小さな少女一人で扱うなら、危険な物でもある。
「燃やしたい物があるって、お父さんが言ってたの。買ってきて欲しいって言われたのを思い出したから、丁度良いなぁって思って」
少女はそう言うと、袋から紙幣を一枚出して、それを店主へ見せた。
「5リグスダラー。確かに頼まれたみたいだね。本当は、何を買うつもりだったのかな?」
店主は言った。まだ、少女を疑っている。
「新品の油だよ。お釣りは、ちゃんと貰ってきなさいって言われたけど、この大きいのもあれば丁度良いから、大丈夫だと思う。燃やしたい物は、離れた所にあるから。ねっ、良いでしょう?」
少女にそう言われると、店主は迷った。確かに、売ってしまった方が良い。元々、価値の無い物である。5リグスダラーを受け取って、新しい台車の足しにした方が、店主としても得なのは明らかだった。
「わかった。だが、燃やす時は、お父さんと一緒にするんだよ」
店主は、迷った挙句、そう言う。少女の言った事には半信半疑だったが、少女一人で運ぶ事が出来ても、その先があるとは思えないからだった。
「大丈夫よ、お父さんと一緒に燃やすから。良かった、これでお家に帰れる」
少女が嬉しそうに話すのを見て、店主も何処かホッとした。
「どこまで運ぶんだ?坂道はきついと思うぞ」
「じゃあ、彼処まで運んでくれない?お店の前の道は坂だから。彼処の道は、真っ直ぐで平坦だから、私一人でも大丈夫だと思うよ」
酒場の裏口から、表口のある通りまで店主を引っ張って行くと、少女は指を差して言った。少女が言った道は、確かに平坦である。そのまま、街の外にも繋がる道だから、一つの基準となる道だった。
「わかった。じゃあ、彼処までおじさんが運ぼう」
店主は、台車を押す。少女は、それと一緒に歩き始めた。五分くらいだろうか、通りまで来ると、行きたい方向へ台車の頭を向けて、店主は台車を止めた。
「お嬢ちゃん、じゃあ、気をつけて帰りなよ。途中で疲れたら、お父さんを呼びに行って、一緒に押して貰いな。こんな、ボロボロの台車と廃油だ。盗む奴なんて居ないからな」
店主はそう言うと、店へと道を引き返して行く。少女は、「ありがとう」と、店主の背中へ言った。言った後、台車を押し始める。結構な力が必要だったが、進めないほどでは無かった。冷たい道の上で車輪が滑るから、場所によっては押し易いだろう。
少女は台車を押して、酒場のある道から見えなくすると、建物の影から店主を見る。酒場の軒先きに、マッチの入った籠を置きっ放しだったからだ。
店主は、表口から店を見た後、裏口へ行く道に入る。きっと、店の中に入ったに違いない。
少女は、小走りで、酒場の軒先きまで行く。辿り着くと、店内から「こうやって踊るんだぁ」と酔っ払いの声が聞こえた。籠を手に持つと、少女は振り返らずに走る。走る。走る。台車まで来ると、白い息をたくさん吐いた。今迄で、一番走ったかもしれなかった。
少女は息を整えた後、台車に籠を乗せ、台車を押し始めた。街外れの一軒家を目指して、初まりの一歩だった。
どれくらい経っただろうか。少女にとって、見慣れた家々が、周りの風景に変わった。もう少し行けば、住み慣れた家である。少女は、全身に汗をかきながら、進んで行く。あの靴が、非常に役に立っていた。踏み締めなければ、この台車は進まなかっただろう。
一歩、一歩、一歩。すると、家の灯りが見え始める。あれが、少女の家だった。平屋の家と、隣に並んで小屋がある。周りに隣家は無い。
少女は、家から少し離れた所で、休憩をした。あれから一気に、ここ迄来たのだ。これから先は、出来るだけ静かにしなければならない。スゥーと、全身から力を抜いた後、少女は、力をもう一度入れた。まだ、大丈夫だった。疲れて、動けないほどでは無い。
少女は、休んでいる間に、小屋に台車を入れる事を思い付いた。家の側で、ただ燃やすよりは見つかり難いだろう。
少女は立ち上がると、台車を押し始めた。ゆっくり、ゆっくり、家に近づくと、家の敷地内へと入る。家の方から、女性の変な声が聞こえた。
少女は、良かったと笑った。家には、人が二人居るが、自分を気にする事は無いだろうと思った。だが、静かにして損は無い。
少女は、小屋の扉を開ける。キィーと、冷たい空気に、音が響く。少女は、動きを止めたが、何の変化も無かった。残りもキィーと鳴りながら開けたが、声の主が変わる事は無かった。
台車が入るくらいに開いた扉へ、今度は、台車を押し入れ始める。ズズッと鳴りながらも、小屋へと進む。扉付近で、台車は止まってしまったが、力一杯に少女が押すと車輪が回り、何とか暗い小屋の中へ入れる事が出来た。小屋の中央に、台車は置かれている。
少女の息が、小屋の中でリズムを打った。静かな場所では、それは大きな音みたいに、少女は感じた。だが、準備は整ったのだ。幸いにも、小屋の窓は、家の窓からは見えない。
少女は、樽の中の廃油を覗き込んだ。微かな光を反射する油面は、悪魔の鏡のように思えた。その上を、小屋の中にあった藁で隠す。そこへ、マッチの入った籠を置く。そして、台車の周りには、藁の山を作った。火を付ける為のマッチは、少女の手元に取ってある。
少女は、マッチを一本取り出すと、シュッと擦った。火の付く音がする。それを藁の上に置いた。白い煙と共に、パチパチと音が鳴る。しばらく、少女がそれを見ていると、フワッと炎が大きくなった。籠が、火に包まれている。廃油へと、火が移ったようだった。
そこまで見ると、少女は、手に持っていたマッチ箱も、その炎の中へ投げ入れる。そして、小屋から離れた。
炎は、ゆっくりと強くなる。屋根の雪は溶け始め、その方向へと落ちた。その音は、家の中の二人にも聞こえただろうが、この季節に、気にし過ぎる人は少ない。
小屋から出る火の粉が、下から上へと落ちる。火の蛍が飛び回る。風が吹くと、それは強くなり、熱の空間が出来上がる。何度目かの風で、炎は家と握手し始めた。煤汚れか、焦げ跡なのか、わからなくなる。
カランカランと、遠くで鳴っているのに、少女は気がついた。見張り番の人が、この火事を見つけたのだろう。
ランプの色が、この火事場へと近づいて来る。隣家に燃え移る訳では無いのだが、こういう時は、皆で協力をするようになっている為、例外は無いのだった。
少女は、人が来るのがわかったからか、最後は踊る事にした。酒場で聞こえた声が、少女の役にたったのかはわからなかったが、ヤケ糞とはこういう事だろうか。だが、この場で踊るだけでも、人の見ている点は変わる。そうやって、最終的には、見ている点はズレる物だ。
近くに、人が居るのに気がついた人々は、急いで足を動かした。そして、辿り着いたその現場で、呆気に取られた。少女が、一人で踊っているからである。
女性達は、少女の近くへと行き、話をしようとしたが、少女は踊りを止めようとはしない。
男性達は、中に人が居るかもしれないから、家のドアを開ける。玄関付近で、裸の男女が、酷く咳をしている状態だった。数人の男達で、急いで担ぎ上げると、外へと連れ出す。持って来ていた水でうがいをさせ、白いシーツで二人を包んだ。
救い出された少女の父親は、暫くすると落ち着き、周りを見渡した。父親は、少女が火遊びでもしたのだと思ったのだろう。少女の姿を見つけると、「このクソガキ」と声を荒げながら少女へ近づく。
少女は、その声で身体が縮むと踊りを止め、近くにいた女性の背中へと隠れる。そんな事は気にせずに、全裸の父親は、少女の手を掴むと前へと引っ張り出し、パァンと少女の頬を平手打ちした。
少女は、少しヨロヨロとしたが、父親の手が、倒れる事を許さない。もう一度、パァンと鳴る。少女は、意識が飛びそうだったが、父親の手が、それを許さない。もう一度、パァンと鳴る。少女は、膝を地面に着いた。父親は、まだそこへ、平手打ちを構えている。
「やめなさい」
力強い女性の声がした。市長の奥さんだった。「ヘネさんも、いらっしゃったのですか」という声が、少女にも聞こえたが、もうどうでも良かった。少女は、ゆっくりと意識を失っていった。
「この子は、一時的に、私が預かります」
ヘネは、皆に聞こえるように言う。少女の父親は文句を散々言ったが、ヘネが何かを耳打ちすると、塩をかけた蛞蝓のように小さくなった。
「では、皆さん、後はよろしくお願いしますね」
ヘネはそう言うと、使用人に少女を抱えさせて、火事場を後にする。少女は、失った意識の中で、お祖母さんと楽しく話しているのだった。