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青い部屋の裸婦

作者: 小山彰

 智絵はベッドから降りると、隣で寝息をたてはじめた政彦の足元の蒲団をそっとめくり、ねじれるように丸まった自分の下着を手探りでさがした。そして豆球ひとつが灯った薄暗い闇の中でいつものように身支度を始めた。

 ピカソの青の時代が好きな政彦は部屋の壁を青く塗りつぶしていた。その壁のいたるところに飾られた油絵の裸婦像が、そっと智絵を見つめていた。どれもこれも豊満で妖艶な女性たち。智絵がモデルの絵はまだ一枚もこの部屋にはなかった。胸も小さく貧相な体躯を自覚している智絵には、『わたしをモデルにどう?』という勇気は無かった。

 画家志望の政彦と智絵が交際を始めて二年になる。以前、智絵がバイトをしていたナイトクラブで知り合った。

 出会った頃、政彦はパチンコ屋の雇われ店長だった。真剣に政彦を愛するようになってまもなく、智絵は夜のバイトを辞め、政彦との時間を増やすために昼のデパート勤務だけにした。政彦も公休が不定期なうえに長時間勤務のパチンコ店を辞めて日雇いの土建会社に転職した。あえて安定した仕事を捨てたのは、絵を描く時間を求める政彦の覚悟だった。互いに過去は多く語らなかった。

 智絵は、まるで空き巣のように息を潜め、疲れて眠っている政彦にキスをして、いつも部屋を一人で出る。男経験の貧しさからか、今時の若い子のように、送ってくれとは言えなかった。

 でも今夜はいつもと違っていた。

「送って行こうか?」

 政彦が蒲団を跳ねのけて言った。

「いいわよ。もう終電の時間よ。わたしを送っていったら、帰りはどうするつもり」

「車がある」

「車!」

 政彦は裸のままベッドを飛び降り、浴室の脱衣カゴに脱ぎ捨てたままになっている作業ズボンから黒い大きな柄の付いた車の鍵を取り出して言った。

「ほら」

「どうしたの」

「明日、作業車がないから、現場に行くのに、社長が『俺の車を使え』って」

「社長の車」

「そうだよ。BMW」

「うそ」

「嘘なものか。窓の外を見てみろよ」

 智絵はカーテンを半分だけ開けた。確かにシルバーメタリックの外車がアパートに横づけされていた。

「まさか……今日、あの車で帰ってきたの」

「メリークリスマス!」

 政彦は智絵の心配を気にもとめず、チェックのボタンダウンシャツにチノパンを履き、着古した革ジャンを羽織ると部屋を出て行ってしまった。

智絵が部屋の鍵をするのと同時に、地鳴りのようなエンジン音がアパート中に響いた。

外へ出ると冷たい風が智絵の耳を刺した。短い秋は足早に通り過ぎ、暦が師走になって途端に寒くなっていた。

「大丈夫?」

 智絵はそういいながら助手席に腰を下ろした。慣れない本革シートがストッキングに吸いつくようで冷たかった。助手席が右側なのも落ち着かなかった。

「くどいなぁ」

「だって……政彦、仕事以外では車に乗らなかったんじゃないの」

「今夜は特別。よかったらこの車で、もう一回しましょうか?」

「よくいうわ」

 目を丸くした智絵の顔を見て、政彦はケラケラと笑った。


 短大を出た智絵は、両親の猛烈な反対を押し切り、憧れの先輩が勤めていた地元の老舗デパートに就職した。しかし勤めだしてまもなく、なぜ両親が就職に反対したのか嫌というほど思い知らされた。希望に胸を膨らませた新入社員を待っていたのは、家族親戚を巻き込む膨大なノルマと社内不倫の泥沼。気がつけば独身のまま三十を過ぎていた。七年近くつきあった上司は、贈る言葉のひとつもなく転勤で智絵の前から消えた。残ったのはわずかばかりの定期積金とセックスが上手くなったことぐらい。愛することに臆病な女が肉体の悦びを知ると厄介なことになる。

 寂しさをもてあまし眠れぬ日々に悶々としていた智絵は、政彦に本当の恋をもとめて新しい生活を始めていた。智絵は政彦を深く激しく愛した。まったくの受身であれやこれやと注文をつける前の男と違って、政彦も智絵が満足いくまで愛してくれた。

 午後十一時。

車は入り組んだ住宅街をゆっくりと抜け出すと片側四車線の国道に出た。政彦は交通量が少ないのを確認すると面白いように車を加速させた。

「(スピード)出しすぎじゃないの?」

 智絵は思わず政彦の膝を叩いた。

「あれだけ激しいエッチをするおねえさんが、ずいぶん臆病だな」

 政彦は智絵の顔を覗き込んで言った。

「それとこれは別でしょ。もう~」

 車は高速道路の高架橋の下を疾走していた。

 しばらくすると煌くネオンが発光するこの街最大の繁華街が道路の右側に見えてきた。

智絵が政彦と出会ったのもこの街のほんの片隅だった。偶然なのか、運命だったのか、そんなことはどちらでもよかったが、智絵は政彦とめぐり合えた事をこの街に感謝していた……。


 あの夜、政彦は智絵が一番嫌いだった柿元という常連客に連れられて店にやってきた。不倫が終わって少しやけになり、長い夜をもてあましていた智絵は、デパートの仕事が終わってから夜の街に週三回でていた。両親は結構厳しかったので、不倫を続けていたあいだも日付が変わるまでには必ず帰ることにしていた。バイトはほんの数時間だったが、お酒が好きな智絵はそれなりに短い夜をエンジョイしていた。

「ちょっと車まで戻ってくる」

 政彦を連れてきた柿元が席を立った。指名されて席についていた智絵は心の中で飛び上がって喜んだ。

「どうしたんですか?」

 色落ちしたポロシャツにジーンズ姿の政彦が、立ち上がった柿元を見て心配そうに声をかけた。中肉中背でのっぺりとした顔つきの政彦はどう見てもクラブ通いをするような風貌ではなかった。

「車に財布を忘れてきた。伊集院、おまえここの分くらい持っているか?」

「いや……」

 政彦はうつむき加減に首を振った。

柿元は実に嫌味な男である。カマキリのようにやせ細っていて、胸糞がわるくなるほど気取っているこの男が、智絵は生理的に好きになれなかった。

 ホステス仲間たちは、気前よく金を捨てる柿元の事を『殿下』と呼んで重宝がっていた。世の中がこんなに不景気になっているのに、パチンコ店を継いでいた柿元は、頼まれるとイヤといえないのか、同伴はいつもOKだし、帰りにつき合えば食事もおごってくれる。おまけに誘った女を滅多に食おうとしない。ホステスにとってはこれ以上のカモはいなかった。

『もしかして、殿下は役に立たないんじゃないの?』

 安全パイの柿元を称して、一番かわいがられていた直美がそう言っていた。

本人は上客のつもりだろうが、夜毎ネオン街を徘徊するロンリーボーイの背中には悲哀を感じる。

「最近は美貌と栄養の時代かもしれないけれど、僕はね、あんまり肉つきのいい女は苦手なんだ。だいたいあの大きな胸に知性を感じないからね。その点、智絵ちゃんはいい。背は高いし、なんと言ってもスレンダーで足が美しいからな。知性と教養を感じるね」

 最近太り気味の直美に飽きた柿元は、入店したばかりの智絵に目をつけていた。

「すぐ戻るから。待っててくれ。智絵ちゃん、伊集院には惚れるんじゃないよ。こいつは画家志望。仕事は二の次。小説家は嘘つき、画家は貧乏。これは定説。苦労すること間違いない。一緒になったりしたらとんでもない事になるぞ」

 柿元は捨て台詞を吐いて店を出た。

「伊集院さんは画家ですか?」

 とってもミーハーかもしれないが、智絵は画家という言葉に惹かれた。智絵の初恋は高校の美術教師だった。美術室にこもりひたすら絵を書き続ける姿を廊下から眺めるのが智絵の学園生活の思い出だった。結局、その恋は先生の結婚という形であっけなく終わった。

「まあ……ね」

 政彦は柿元が忘れていったタバコを一本くわえた。

「素敵。今度見せて欲しいなぁ」

 智絵は今まで出会った男とは違う政彦の生き方に好感を持った。仕事だ、金だ、女だ、そんな欲望ギラギラの男は飽きるほど見てきたが、身近にそんな芸術の香りのする男は一人もいなかった。

「柿元さんのところで仕事をしているんですか?」

 智絵は慣れない手つきで政彦に火をよせた。政彦もぎこちなくタバコを吸った。

「もちろん。働かないとメシは食えないよ。だからバイトしている。柿元さんところで二年勤めたら店長代理になってしまった。だからもう辞めようと思っているんだ」

「どうして?」

「バイトで店長じゃサマにならないだろ?」

「それはそうだけど、柿元さんに気に入られているんじゃないですか。そうでなかったら、こんな高い店に連れてきてくれないわ」

 智絵は周りを見渡しながら小さな声で、『高い店』と言った。

「勘違いしないでくれよ。俺は社長が言っていたように画家志望。聞こえはいいけど個展も開けない駆け出しだ。売れるまであと何年かかるかわからない。君のようなきれいな人が感心するような男じゃないから」

 智絵は、政彦が『きれい』というのは、『美しい』じゃなくて『金がかかる』女のことを言っているのだと思った。

「実をいうと、わたし、あの柿元社長が怖いんです。できたらあなたから何とか言ってくれませんか?」

「えっ、どうして? 社長は君のこと、ずいぶん可愛がっているみたいだけど」

 突然、智絵が話を転じたので、政彦は驚いてタバコをもみ消した。

「最初に断っておきますけど、わたしはあの人の女じゃないですから」

 智絵はムキになっていた。政彦からそんな風に思われるのが腹立たしかった。

「立場上、俺からはなんとも言えないよ。そんなに悪い人じゃないと思うけど」

 政彦は当たり障りのないことを言った。

「聞いてくれますか? わたし、昼はデパートに勤めているのだけど、どこで調べたのか毎日仕事場に電話をかけてくるの。電話は、この店だけにしてくれるように頼んでもまったくダメ。ケイタイの番号を教えないものだから、どこで調べたのか今度は夜中に家に。信じられる? わたし、両親と住んでるのよ!」

 智絵はいつになく多弁になっていた。

「やめた。お客様の悪口をいってたらママに叱られるし、だいたいこんな話をしてもつまらない。それより伊集院さんの話を聞かせてくれませんか」

 智絵はムキになっていることを政彦に悟られるような気がした。

「どうして?」

「あなたのことをもっと知りたいから。ここにいるあなたが今までどのような人生を送ってきたのか。興味があるわ」

「それこそつまらない」

「どうして」

「過去なんて別にどうでもいいことじゃないか。たとえば俺が君を好きになったとしても、多分、俺は君の過去を知りたいとは思わない。二人が今そこにいればいいことだろ。過去がどうだからといって、今の二人には関係ないことだ。運命づけて物事を考えるのは好きじゃない」

 政彦は水割りを一気に飲みほした。

「変わっていますね」

 普通の男というのは昔話と称して自慢話をするために飲みに来ているようなものだと智絵は思っていた。

「よくいわれるよ」

「何を描いているのですか?」

「俺のライフワークはね、裸の女を描くこと。いくら豪華な衣装で着飾っても裸の女には勝てない」

「裸の女の人をたくさん見ているんだ」

「そうだな。裸婦のフォルムがかもしだす憂愁とか、歓喜とか、悲哀とか、そんな多種多様なムードを描きたいと思っている。身体を包む衣装や顔の表情はほぼ二次的なものだからね」

 智絵は話を振られても答えようがなかった。正直なところ智絵にはよくわからなかった。絵について真剣に語りだした政彦の世界は難解だった。

「ちょっと待ってて、アイスを取ってくるから」

 智絵が少し逃げ出したい気分になって立ち上がると、柿元から電話が入っていた。

「伊集院さん、柿元さんからお電話です」

 智絵はアイスペールをマネージャーに渡し、交換に電話の子機を受け取ると、政彦にそっと差し出した。

「もしもし、はい、エッ、そうなんですか。はぁ、わかりました。そうですね。なんでしたらそっちへ行きましょうか。ええ……はい、わかりました」

 政彦は何度もうなずきながら電話を切った。

「何かあったのですか」

 柿元はどうでもよかったが、智絵はこのまま政彦と別れるのには未練があった。

「社長が駐車場で事故にあったみたいなんだ。くわしくはわからないけど」

 政彦が心配そうに言った。

「自業自得よ」

 智絵は澄まして言った。

「怖いね。女は怒らせると怖い。社長、もうこっちへ戻らないらしいよ。智絵ちゃんによろしくって」

 政彦は赤い舌を出した。

「やめてください、気持ち悪い」

 智絵の膨れた顔を見て政彦が笑った。

「俺も帰るよ。楽しかった。ここの勘定はいいのかな」

「あなたがそんな心配しなくていいわよ。わたしも一緒に帰るわ」

 そう言って智絵は政彦と腕を組んだ。

「いいのかい。俺は別にかまわないけど」

「わたしはあの人がいたから残業していたの。もうとっくに帰る時間を過ぎているわ」

「そうか」

 智絵は柿元への腹いせに二人で腕を組んで帰った。柿元を気遣ってか、不釣合いな二人をマネージャーとママが心配そうに見つめていた。

「もう少し飲まない?」

 智絵から誘った。

「今夜はもういいよ。社長いわく、俺は貧乏だから」

「うそ。あなた店長でしょ。店長をしている人が貧乏はないでしょ」

「君には想像もつかないかもしれないけれど、俺には天文学的数字の借金がある。ほとんどはその返済。これでもまだ聞きたいことがあるかい?」

 智絵はしばし黙した。

「お願い、一軒だけつきあって。今夜はわたしがご馳走するから」

 政彦が智絵の顔を覗き込んだ。

「いっておくけど、お返しできないかも知れないよ」

 政彦は歩をとめて、智絵を見つめた。

「そんなのいいわよ。そのかわり、いつか私の裸を描いてくれる?」

「いいとも」

 政彦はにっこり笑ってうなずいた。

 

 車は不夜城交差点を左折し、ネオンを背にしながら人口島へ渡る大橋に向かっていた。

「乗り心地がいいわね」

 智絵はゆったりとシートに腰を沈めて車窓から港夜景をながめていた。

「まあね、でも俺は智絵のほうが気持ちいいけど」

「よくいうわ」

「マジだよ。俺なんかいつもぶっ飛びそうだもん」

 智絵はあまり褒められても素直に喜べなかった。ただ政彦が満足しているのならそれでよかった。

「話は変わるけど、柿元は今も店に現れるの。パチンコ屋やめてから会ってないから」

 政彦はカーオーディオのボリュームを絞った。

「来るわよ。政彦とつきあいだしてわたしもクラブを辞めたでしょ、だから週のうち二回はデパートの売り場に来るわ。最初は居留守を使って会わないようにしていたのだけど、同僚に迷惑かけるから、最近は上手に持ち上げて商品をバンバン売りつけてやる。この前もクラブのママのプレゼントと娘の誕生祝を買いに来たので、エルメスのスカーフにハンドバッグ、それにヴィトンの財布、今年のニューモデルを買わせてやった」

「〆ていくら?」

「たいしたことないわよ」

「いくらだよ?」

「五十万くらい」

「ゲッ!」

 智絵は政彦の驚く顔が可笑しかった。

「勘弁してくれよ。俺はそんなモノ智絵に買ってあげられないからね」

「そんなこと期待しているはずないでしょ。なんでもかまわないから、最初に政彦の絵が売れた時のお金で買ってちょうだい」

「なにを?」

「だからなんでもいいわよ」

「そうは言っても智絵はセレブの世界に慣れているから、つまらないものじゃ満足できないだろう」

智絵が扱っているものはたしかに半端でなく高額なのだが、毎日見慣れた商品に囲まれて生活しているとそうでもなくなってくる。

「よし、政彦がそこまでいうなら、欲しいものをいうよ。覚悟はできてるの」

 智絵が腕組みして言った。

「嘘だ、嘘。まいった、まいった」

 二人は顔を見合わせて笑った。

「よかったよ。智絵が買い物依存症でなくて本当によかった」

「もしそうだったら政彦とつきあってないわよ」

「それはそうだ」

 買い物依存症の客は、何度も買い物をしているうちに、購入した商品がいかに高額であるのか、麻痺してしまうのだろう。意外と扱っている者たちの中には中毒になるのが少ないようだ。どちらかというと、地味な仕事をコツコツとしているタイプが陥りやすい。結局のところ本人にとっては浪費になるのだが、購入する時はまるで上流階級のマダムになったような気がして夢見心地になるのに違いなかった。

「売り場で接客している時の智絵ってカッコイイものなあ。あの制服もいいけど、言葉づかいはたまらないね。まるでテレビ局のアナウンサーみたいだ」

あえて格式ばった接客をさせられるのも相手の舞い上がった気もちを満足させるためである。

「話を変えて悪いんだけど、わたしたちには、この車、似合ってないね」

 智絵は政彦の話は受け取らず話題を変えた。

「そうだな。でも今夜は特別なんだ」

「とくべつ……どうして?」

 智絵には政彦がいう『特別』の意味がわからなかった。

 前方にオレンジ色をした照明灯が両側に並ぶ橋の入口が見えてきた。鯨のように大きな口を開けている。この橋を越えた人工島に、智絵の生まれ育った町があった。橋の手前の信号が黄色に変わった。政彦は加速し、そのまま交差点を突っ切り、橋に乗り入れようとしていた。

「危ない!」

 智絵は思わず両足を踏ん張っていた。車が交差点に進入する前に信号は赤に変わっていた。

「キャッ!」

 智絵が小さく悲鳴を上げた。

「うるさい。静かにしろ!」

 政彦の目は血走っていた。


 警察官から免許証を提示するようにいわれた政彦は何もいわず車から降りてしまった。そしてその若い警官と数分立ち話をしたかと思うと、今度はそのままパトカーに乗り込んだ。

「おい、この車どうするんだ。このままにしていたら邪魔で仕事にならんだろ。そこは一人でいい。これを先になんとかしろ!」

 ジャンバーコートを着た指揮官らしい大柄の警官が、白い息を吐きながら吼えた。次から次へと橋を渡ってくる車が列をつくっている。年末の安全週間にあわせた交通検問だった。

 車に一人残された智絵は事態が飲み込めず縮みあがった。エアコンが効いて暖かなはずなのに、智絵はあまりの恐ろしさに震えていた。

「あのガキ! なめたマネしやがって」

 窓に真っ黒なフィルムを貼った白い乗用車が、検問所で制止させようとしている警察官を振り切って走りすぎて行った。けたたましくパトカーのサイレンが鳴った。

「もう一台だ、もう一台、5号車を追跡にまわせ! それから京橋に無線を入れて挟み撃ちにしろ。逃げられると思っているのか、あの野郎!」

 指揮官は再び吼えた。

「失礼」

 若く精悍な顔立ちをしている警官が運転席をノックして智絵の隣に乗り込んできた。

「ちょっと車を移動します」

 警官は手馴れた感じで車を一番左端路側帯のずらりと並んだ車の先頭まで移動した。ドクドクドクと脈を打つ鼓動が、智絵の全身をかけめぐる。警官は車を降りると、またパトカーに乗り移った。

 しばらくして政彦と一緒にパトカーに乗った警官が再び降りてきた。指揮官を呼び止めて何やら耳打ちをしている。

「なんだと、厄介だな。ここじゃ処理できんのか!」

 指揮官は首を何度もひねって舌打ちをした。

「このクソ忙しいときに。車も移送しなきゃいかんのか。立花、お前、吉原と一緒に被疑者を連行して署まで一旦戻れ。俺から警部にお願いする。それと、警部のところから、もう一人つけてもらうしかないな」

 めまぐるしく事態が急変する。智絵はこんなに物騒な現場に出くわしたのは生まれて初めてだった。目だけが勝って放題に動き回る。息苦しい。智絵の喉は砂漠を行く旅人のように干からびていった。

 黒いバスから鬼顔をした年配の警察官が、映画で見るような厳しい表情で降りてきた。

「立花、お前、外車慣れているだろ。被疑者の車両を運転しろ。吉原君は同乗者の横に乗ってやれ。宮下とわしで被疑者を連行する」

 立花と呼ばれたあの若い警官が運転席に、膝小僧がくっきり見えるミニスカートを穿いた化粧のきつい婦人警官が智絵の横に乗った。

「心配しないで」

 そういって婦警は智絵の膝の上に手を乗せた。

「無線、無線だ。確認しろ、確認。さっきの逃走車は確保できたのか!」

 指揮官はまだ吼えていた。

 回転灯がくるくる回るパトカーに先導されて車が発進した。そしてゆっくりと大橋を渡った。智絵の町の警察署に向かっているようだった。

「5号車より警備中の車両各位、車両各位、検問逃走車両とおぼしき不審車両、確保。不審車両確保……」

 無線機が唸った。

 誰もなにも話さなかった。

      

 婦人警官が、取調室の前の長椅子に腰をおろしていた智絵の横に座りながら言った。

「驚いたでしょうけど、協力してね」

「彼はどうなるんですか」

 依然、智絵は事態が飲み込めていなかった。

「もう少し時間がかかると思うの」

「信号無視くらいでどうして警察署まで連れて来られるんですか」

「ちょっと他に調べることがあったから」

「調べるって、何をですか」

「なにも聞いてないの」

「はい」

「あの男性の免許が失効していることは知らなかった」

「しっこう!」

「五年前に免許がなくなっていたのよ。要するに無免許運転」

「エッ、まさか」

 智絵は思わず絶句した。普段、仕事で車を運転している政彦がまさか無免許だとは知らなかった。驚きだけでなく、智絵はその行為が自分への裏切りに思えて身体がまた震えた。

「寒くない」

「大丈夫です」

「わかっているようなことを聞くけど怒らないでね。これも私の仕事だから」

 智絵の耳の中でまた心臓が激しく脈を打ち始めた。

「話が前後しちゃったけど、少しばかり質問させてね。運転していた彼とあなたはどういう関係なのかな」

 婦警はそういうと上着のポケットから手帳を取りだしてペンを構えた。

「友人です」

「恋人同士か、な」

「そうです」

「つきあって長いの」

「二年です」

「二年か……。それじゃ、あなたのお名前から聞かせてくれる?」

「里村智絵です」

「何歳」

「三十一です」

「生年月日は」

 婦警は家族構成から勤務先まで、智絵の個人情報をノートに書き込んでいった。

「いいところにお勤めしているのね。売り場にいるの?」

「はい。一階のブランドギャラリーにいます」

「ひょっとしてヴィトン?」

「いえ、今はエルメスです」

「すごいわね」

 何がすごいのか知らないが、この緊張の中で他愛もないことに驚嘆する婦警の無神経さに、智絵は少し腹が立った。

「彼のことを少し聞いていいかな」

 婦警はノートをめくり新しいページを開けた。智絵は黙ってうなずいた。

「彼の名前は」

「伊集院政彦です」

「生年月日は」

「昭和五十*年十一月三日、だったと思います」

「血液型は」

「たしかO型です」

「職業は」

「建設会社に勤めています。でも本人は画家だといっていますけど」

「画家?」

「そう画家志望。画家を目指していますが収入はなかったようです」

「本人があなたに『画家』だと、いったんですね」

 婦警の強い口調に智絵は少したじろいだ。智絵は、どうして政彦のことを詳しく尋ねられるのかわからなかった。

「彼とはお金の貸し借りはありますか」

「とくにきまった金額を貸したりしたことはありません。もちろん、借りたこともありませんけど」

「そうですか。借金を頼まれたことは」

 智絵は執拗にお金にこだわる婦警の質問がわずらわしく思えてきた。

「ありません」

 智絵はきっぱり答えた。自分の返答次第で政彦が犯罪者にされてしまうような気がした。

「彼の出身地を聞いたことはありますか」

「知りません」

「知らない」

「ええ」

「本当に。彼の前の仕事は」

「知りません」

「彼の家族のことは」

「よくわかりません。そんなこと本人に聞けばいいことじゃないですか。どうして私に聞くの」

 智絵は声を荒げた。

「ごめんなさい。いろいろ彼のことを調べなきゃいけないことになっているの」

 婦警はすまなさそうに口を閉じてうなずいた。

「交通違反だけじゃなくて、彼が他になにか罪を犯しているってことですか」

「そういうわけじゃないのよ。あくまで参考までに聞いているだけだから」

「正直にいいますけど、私、彼のことはよく知りません」

「そうなのね。じゃあ本当のことをいうけど、あなたが知っている彼の名前も年齢も生年月日もすべて真実と違っているのよ」

「なんですって! そんな馬鹿な」

 智絵は悔しくて涙がでそうになった。

(いったい私は何をしているのだろう……)

 通路の向こうから歩いて来た鬼面の警部が、智絵と婦警を無視して取調室の扉を半分だけ開け、「立花、あとどのくらいかかる?」と質問した。

「三十分もあれば大丈夫だと思います」

 若い警官の声がした。

「できるだけ早くしろ。現場が忙しくなっているらしい。四人も抜けたものだから矢の催促だ」

 警部はかなり不機嫌そうだった。

「わかりました。至急仕上げます。照会は誰にお願いできますか」

「吉原にさせたらいい。それより人定はすんだのか」

「はい。これです。念のため捜一にも」

「わかっとる。さっさとしろ」

 警部は扉を閉めた。手にA4サイズの書類が綴じられたバインダーを持っていた。

「吉原君、照会に行ってくれ!」

 警部は智絵の隣の婦警に向き直って言った。

「はい、わかりました」

 婦警はバインダーを受け取り直立した。

「こちらは被疑者の彼女ですが、帰っていただきましょうか」

「心配しておるのに一人で帰すわけにはいかんだろ。そんなに時間はかからん。すぐに済むから待ってもらいなさい」

 警部は智絵を一瞥して通路を戻って行った。

「ちょっと一人になるけどすぐに戻るから」

 婦警は智絵の肩に手をかけ、小走りに警部の後を追った。

 智絵は、自分一人が蚊帳の外におかれた気分になっていた。なにがどうなのか、これからどうなっていくのかまったく見当がつかなかった。

(だいたい『捜一』といえば『捜査一課』のことじゃないか。捜査一課といえば『殺人』だ。政彦が殺人事件の照会を受けるということは……。身の毛がよだつ思いがする。もしかして政彦が殺人犯。 まさかそんなこと。あいついったい何者なのだろう)

 手に持った智絵のハンドバッグの中でケイタイが鳴った。

 午前零時を過ぎていた。

「おかあさん? あ、今ね、ん、ちょっと、そう、今夜は直美のところに泊まるから。大丈夫よ。ごめん。ん、ん、わかってるよ。それじゃ、はいはい」

 家からだった。厳格を絵に描いたような智絵の両親は、彼女の放蕩を知らない。三十を過ぎたとはいえ親から見れば嫁入り前の娘である。男と一緒に警察に来ているなどといったら卒倒するに違いなかった。

 検問所からパトカーに乗せられ、ここまできた時は、智絵は異常な緊張で窒息してしまうのでないかと思った。自分の中では少しも事件は解明されていなかったが、それでも場慣れというのだろうか、時間がたつにつれて不思議に平静さを取り戻しつつあった。でも緊張の連続で喉はカラカラに渇いていた。暑くもないのに汗が噴出してくる。通路の先にコーヒーの自動販売機がぼんやりと見えていた。

 智絵は何か忘れていたものを思い出すようにトイレに行きたくなった。立ち上がって取調室の前で聞き耳を立てたが、扉が閉まると中の音はまったく聞こえなかった。

洗面所は自販機の手前左側にあった。設備は古いものだが小奇麗に清掃されている。

(ここを今まで何人の犯罪者が利用したのか……)

 智絵は緊張でお腹が痛くなってきた。

(ここは交通課のフロア。殺人犯がここを使うことなど滅多にないだろう)

 智絵は一番手前の扉を開けて個室に入った。いつも店で使うトイレより狭く感じた。どうも窮屈である。用を足してトイレットペーパーを引き抜こうとしたら、汚物用のボックスと壁の隙間に二つ折りにされたレポート用紙のような紙切れが挟まっていた。智絵はその紙切れをつまみだして広げてみた。字が斜めになり、二つの資料がかぶさったようになっている。ミスコピーに違いない。


《検案所見》

 発見時、本人は全裸でうつぶせの状態。死因は首部の鬱血により絞殺によるものと考えられる。顔面および上半身にも殴打による鬱血痕が認められる。死亡前後、性交におよんだ痕跡あり。外陰部陰毛に凝結し固着した精液を発見。精液による血液判別はO型。以上の所見により、暴行殺害の事件性が十分認められる。よって司法解剖の必要性を……。


 レポートを持つ智絵の手がアルコール中毒患者のように四方八方に激しく揺れた。

(冗談じゃないよ)

 トイレを出て、智絵は自販機に小銭を入れようとしたが手が震えてポロポロと床に零れ落ちた。這いつくばってお金を拾っていると涙が雨粒のように智絵の手元を濡らした。智絵は声を出して泣きたかった。政彦への心配ではなかった。自分に危害が及ぶという恐怖でもなかった。訳がわからないところに放り出された不安、身の置き場のない不安定さと焦りでいてもたってもいられなかった。

 智絵はやっとの思いでホットのココアを買った。そして足を引きずってソファーまで戻った。プルトップの栓を開け、一口すすった。頬を流れる涙が口の中へ混ざりこみココアがお汁粉に変わっていた。

 智絵は二口目をすする気にならなかった。力の抜けた両手で缶を包んでいると、指先から暖かさが身体全体に広がって行くような気がした。

 うつむくとまぶたが重かった。

   

 漆黒の闇に真白い女の顔が浮かんだ。

女に馬乗りになった黒い影が、拳を振り上げ、女の顔面に振り下ろした。

「ギャッ!」

女の顔が苦悶の表情に変わっていく。

「ゆるしてください……」

立ち上がった黒い影は、女の首に巻きつけたロープを引きずり回していく。手足をばたつかせて抵抗していた女の四肢はやがて弛緩し、動かなくなった。それでも影は容赦なく女の首に巻いたロープを締め付けた……。

   

「ドカ、ドカ、ドカ」と大きな足音が近づいてきた。目を覚ました智絵の全身は汗でびっしょり濡れていた。

「早くしないか。いつまでやってるんだ!」

 ふたたび取調室の扉を開けた警部は、首だけ部屋に突っ込んだまま大きな声で言った。

「調書がまだなんです」

 部屋の中の若い警察官が答える。向かい合っているはずの政彦の声はやっぱり聞こえなかった。

「細かいことは書かなくていいんだ。簡単にしろといってるだろ、このバカ!」

「本件以外の諸々の詐称についてはどう処理すればいいんですか?」

 若い方が抵抗する。

「捜索願も出ていないし、指名手配者でもないことがわかればそれでいいんだ。人にはいろいろ事情ってものがある。事件性のない虚偽の事実は割愛しろ」

「でもこいつ偽名を使っているし、本人は一人だといっていますが、重婚の疑いもありますよ」

 若い方はどうも納得がいかないようだ。警部は部屋に飛び込むと烈火のごとく怒った。

「貴様、俺の言うことが聞けんのか!」

「ハッ。わかりました」

 しばらく沈黙が流れた。

 警部が取調室から出てきた。そしてとってつけたような笑顔で智絵の前に来ると、「長いこと待たせたね。いろいろ詳しいことは我々からお話できないのでね。これからのことについては二人でゆっくり話し合いなさい」とずいぶんやさしく言った。

「そうよ。あなたは何も知らなかったんだから気にすることはないのよ。気を落とさずにがんばってね。なんだったら彼の顔を一発ぶん殴ってやりなさい」

 婦警はそう言うと智絵の肩を撫でた。

「ありがとうございます」

 智絵は、なにやら不思議な気分になっていた。

(そうなんだ。私も被害者なのだ。被害者を装ってしおらしくしていればいい)

 智絵は自分を納得させた。智絵はとにかく政彦が重犯罪者でなくて安堵した。

でも許せなかった。

(首を絞めて殺してやる?)

 智絵は小声を出して拳を握り締めた。

「吉原君、インターの現場、飲酒運転の検挙者があふれかえっているらしいんだ。立花と一緒に戻ってくれんか。のんびりしていたら朝までかかってしまうぞ!」

 警部は再び鬼面に戻っていた。

「わかりました。現場に急行します」

 婦警は神妙な顔をして敬礼した。

 若い警官に連れられて政彦が部屋から出てきた。青白く気落ちしているようだ。

「車は朝までこちらで預かっておくから、明日の朝、いや、もう今日になってるな。所有者の社長に取りに来てもらいなさい。今日はもう帰っていいです。後日、裁判所から通知があるので、それまではこの町を離れないように。もし逃亡したら、厄介なことになるからそのつもりで」

 若い警官は萎れている政彦を見下ろすように言った。

「ご迷惑をおかけしました」

 政彦は元気なく、うなだれた。

 警察署を出るまで政彦は一言も話さなかった。うつろな表情の政彦の足は、不夜城の方角へと向かっていく。このまま歩いてあの大橋を渡るつもりなのだろうか。

 遊歩道の木々に飾られたクリスマス用のイルミネーションが数珠繋ぎになった流れ星のように輝いていた。ガラス張りのテナントビルもいつもながらのサンタクロースや雪だるまをディスプレイして年末商戦を盛り上げている。事件さえなければ溜め息がでるような美しさだった。

「きれいね」という言葉が口をついて出そうになったが、智絵はそれを飲み込んで、「無免許なら車になんて乗らなくてよかったのに」と突き放すように言った。無言で歩いているうちに再び怒りが込み上げてきた。

「……」

 政彦は答えない。

「もし、事故でも起こしていたらどうするつもりだったの」

「……」

「あんたいったい誰なの。どうして名前を偽っていたりしてたの。 それにあなた独身じゃなかったの。私はいったい何を信じたらいいの」

 智絵は次から次に浮かんでくる疑問を政彦に投げかけた。正直なところ婦警がいうように、目の前を歩くこの男の顔を一発ぶん殴ってやりたかった。

 政彦は智絵の問いには一切答えず、前方を見据えたまま歩道をひたすら歩いていく。

 今、智絵が振り返り、違う道を選んだらこの恋は終わる。まだ完全に燃え尽きていない炎が、開きかけた蕾が、その命を終える。

(どうすればいいのだろうか)

 智絵は立ちどまり思案した。

(いや……得体の知れぬこの男を今も愛していることは事実だ)

 怒りと、未だ心のうちでくすぶり続ける政彦への情愛が綯い交ぜになって、智絵は混乱した。

「なんとか言ったらどうなの!」

 智絵は歩を止めようとしない政彦の背に叫んだ。

「おまえの好きなようにすればいいよ。今更、弁解してもしかたがないから」

 振り返った政彦が、ぽつりと言った。

「なによ、それ!」

 智絵は政彦を追うのをやめた。

(こんな虚構の恋愛を続けていったいなんになるのか)

 智絵は哀しくてしようがなかった。

 政彦の背中がどんどん小さくなっていく。雪が降るわけでもないのに涙が智絵のまつげを濡らした。

 しばらくして眩い光を歩道に照射している外車の専門店の前で政彦が歩を止めた。政彦はまるで美術館で絵画でも見るようにショウルームの車を一心に覗き込んでいる。

 空気の読めない態度に、智絵は無性に腹が立った。しかも振り返るそぶりはまるで見せなかった。

(きっと私が追ってくると思っているのだ。そして私がやさしい言葉をかけるのを待っているのだ。思い上がりの男のポーズ。糞食らえだ。ようし、そこで待ってろ。そこまで追っかけていってお前の横面をぶん殴って、そのまま無視して消えてやる。黙って消えるのが格好いいと思っていたけど、どうもむしゃくしゃする。許せない。絶対許せない。なにが好きなようにしろだ!)

 智絵は脱兎のごとく駆け出していた。逆回転で写し出されたカメラのように政彦の背中が次第に大きくなっていく。智絵は目を瞑ってその背中に体当たりをした。政彦は二三歩前によろめいた。

「あんたね、何様だと思ってるの!」 

 智絵は振り返った政彦の左頬を力任せに殴った。鈍い音がした。頬骨に当たった智絵の中指と人差し指がものすごく痛かった。それでも政彦は無言だった。

「……」

「もう私たち終わりね。短かったけど今日まで楽しかった。いろいろ考えたけど、あなたについていけそうにないわ。一年たっても未だにあなたがなにを考えているかわからない。あなたがいうように好きにさせてもらう」

 しばらく沈黙が続いた。

「信じてくれなくてもいいけど、俺、画家になるなんて嘘をいっておまえをだますつもりじゃなかった。絵が売れてなくたって俺は本当に画家のつもりで生きてきたんだ。名前を偽ったのは、画家として名が売れるまで筆名で生きて行こうと決めていたからなんだ。それが俺の覚悟だった」

 智絵にとっては相変わらずわかるような、わからないような理由だった。

「一緒にいるのは楽しいし、いつも夕食を作ってくれる智絵に感謝していたよ。出会ってからずっとお前の世話になり続けていたから。なにかお前に買ってあげたくてもお金はないし、俺にできるのは絵を描くことぐらい。ほかにしてやれることはなにもない、だから」

「だからなに?」

「もういいよ」

 政彦は吐き棄てるようにそういうと振り返って歩き出した。

 智絵は涙が止まらなかった。悔しかった。智絵は流れる涙を拭きもせず、肩を震わせショールームの前で阿呆のように立ち尽くしていた。


 歳が明け、智絵は両親の勧めで見合いをした。相手は大手証券会社に勤めているまったく平凡な男だった。政彦のようにスリリングな個性などまるでなかった。証券会社の支店長代理をしていて収入も学歴も申し分なかった。これが普通の結婚なのだと自分に言い聞かせて相手のプロポーズを受けることにした。

 結納から結婚式まで互いの親が円滑に事を運んだ。彼は智絵の意志を尊重するようにと、相談もなく次から次と話を進める自分の両親を注意したが、智絵はあまり気にもならないのでいわれるままにしておいた。正直なところ政彦との別れが智絵の心の中でくすぶり続けていた。

 智絵は政彦を愛していた。それは紛れもない事実だった。身体が燃えるほど政彦が愛しかった。今の婚約者には何も感じなかった。つまるところ愛していないのだ。それでも智絵は結婚する覚悟を決めていた。埋火を消すために、そしてすべてを清算するために。

 結婚式が一ヶ月後に迫った休日、婚約者の彼が車を買い換えるので、つき合って欲しいといって智絵を迎えにきた。

 彼の車は、あの夜、政彦が智絵を乗せた同じBMWだった。新型に買い換えるらしい。別段古くもないこんな高級車をいとも簡単に捨てる贅沢。智絵もそんな生活に慣れてきたようで彼の意見にまったく逆らうこともなかった。

 二人を乗せた車があの日と同じ大橋をものすごいスピードで走り抜けた。車は政彦に別れを告げたあのカーディーラーの前で停まった。政彦との別れから一年が過ぎていた。

 智絵は少しだけ嫌な予感がした。彼は何食わぬ顔で店に入っていった。智絵も黙って彼の後についていった。気分は良くなかったが思ったほどあの夜のことは智絵の胸中を去来しなかった。不思議なくらいすっきりしていた。 

 彼はすでに購入する車を決めていたらしく、新車の前まで行くと智絵を助手席に座らせた。今の車とほとんど変わりはない。それでも智絵は「素敵ね」と言ってうなずいて見せた。彼は嬉しそうに顔をほころばせた。

「どうしてこの車にしたかわかるかい」

 彼が運転席に座って言った。

「そうね、どうしてかしら。車内が広いからじゃないの」

 智絵は口からでまかせを言った。今の智絵には車などどうでもよかった。

 運転席から降りた彼が、車の正面に回った。そこには、車の演出として立派な額にはいった油絵がイーゼルで飾られていた。

「この絵があんまり君に似ていたから。それで気に入ったんだ」

 水銀灯のスポットを浴びた絵は、痩身の『裸婦像』だった。車を降りた智絵は食い入るように絵を見つめた。ベッドに腰をかけ、青い壁をバックにひざを組んで首を傾ける貧しい乳房の女は、紛れもなく智絵の裸身だった。

 智絵は絶句し、瞼に涙をあふれさせた。

「この絵を描いた画家は無名の新人で、なんでも前の震災で建てたばかりの家や家族をすべて失ったらしいんだ。自身の再生を芸術でなそうとするなんて、ドラマチックだけど現実的でないね。それでもこの絵は、物の豊かさとは別の人間の宿命的な「生」を感じさせる。孤高を生きる人間の絵というのは、飽食の時代を生きる僕たちに何か語っているようだね」

 智絵の表情が変わったのを見て彼が心配そうに顔を覗き込んだ。

「どうしたの」

 智絵は絵から目を離すことなく彼に聞いた。

「この絵はいつからここに?」

「たしか、去年のクリスマス・イヴだって店長がいっていたなぁ」

「お願いがあるの」

 智絵は絵を一心に見つめて言った。

「君のお願いならなんでもどうぞ」

「この絵も、一緒に、買ってください」

「それは名案だ、よ~し、僕にまかせて!」

 潤んだ智絵の瞳から、涙が零れ落ちていた。                     

〈了〉                       2015.10 文芸同人誌「無菌室」第2号掲載


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