棋譜読みは恋を拾う。
わたしの職場には、若い女の子が二人もいる。
ショートヘアでクール系美人の澄子さん。
黒髪ロングで可愛い系女子のコウさん。
この二人、かなり仲がいい。休み時間になるといつも澄子さんの席でお喋りをしている。
まあ、仲がいいことは、いいことだ。でも問題は、その内容なんだよね。
「5八飛車」
「4二銀」
「6八玉」
「8四歩」
今日は将棋らしい。
将棋盤もないのに、二人で別々の方向を見てぶつぶつ言っている。
いわゆる『目隠し将棋』だ。まあ、棋譜はお互いメモしてるみたいだけど。チェスクロックまで用意している。
先週はスマホのアプリで『ついたて将棋』をしていた。その前の週は『初代ぷよぷよ』だった。
そう。この二人、どういうわけか休み時間に二人でゲームを始めるのだ。
しかも、わざわざルールを変則的にして。
というか澄子さん、初手5八飛って何なの。
「7八銀」
「8五歩」
「7九玉」
「8六歩」
わたしは、段位者にはまるで及ばないけれど、実はそれなりの将棋愛好家だし、ある程度脳内でも指すことはできる。
だから分かるのだが、先手番の澄子さんは変なことをしている。初手5八飛から、どの歩も突かないで玉を美濃に囲うのを優先って……。
本人は、至ってまじめな顔で指しているけれど、これは駄目でしょう。角が邪魔で玉を囲えないね。
せめて5筋の歩を突きなよ。
「同歩」
「同飛車」
「8七歩」
「8二飛車」
案の定、コウさんに飛車先の歩を交換させてしまった。
コウさんは居飛車だから、盤上は対抗形だ。でも、先手が振り飛車なのか。
「7六歩」
「7二銀」
おっと、やっと歩を突いたと思ったら、角の方から?
中飛車なのに5筋の歩がそのままって、なんだか気持ち悪いなあ。
「7七角」
「8三銀」
「8八玉」
「8四銀」
これで一応美濃囲いは完成したけど、コウさんは棒銀で8筋を進んでくる。
これなら、わたしだったら後手を持ちたい。歩も手に入っているからね。
「4八金」
「8五銀」
「7五歩」
「……7二金」
見ると、コウさんは難しい表情をしている。
角頭の歩を狙ってたけど、逃げられちゃったからね。それでも居飛車側が十分指せるだろうけど。
いつもは明るくて可愛い彼女なのに、悩んでいる顔は何となくカッコいい雰囲気だ。ボーイッシュっていうのだろうか?
「5六歩」
「7六銀」
「6六角」
「んっと、3二金」
澄子さんはやっと5筋の歩を突いた。
角をいじめられているけれど、本人は平然としている。ポーカーフェイスってやつ。
美人だとこういう無表情でも絵になるから、にくいね。
「5五歩」
「6五銀」
「7七角」
「5二玉」
コウさん、棋風が男前だ。男前すぎる。
その玉上がりはわたしなら絶対やらないよ。怖いから。
「5七金」
「3四歩」
「4六金」
「……3三銀」
「4五金」
「4四歩」
おっと、一転して4~5筋で戦いが始まったね。
まあ、王様が5筋にいるんだから、棋理には沿ってるのかな?
でも、これは先手不利。こうされてしまったら金を引くしかないね。
「5四歩」
「あれ? ……同歩」
へ?
「同金」
「同銀」
「同飛車」
「5三歩」
おお。5筋があっという間にきれいになった。
これはコウさん、うっかりだね。澄子さんの攻めに付き合ってしまった。
そのコウさんだけど、むむむ〜、と机の上を睨んでいる。指が何かを探るように揺れている。
「5九飛車」
「1四歩」
「1六歩」
「えーっと……。8五飛車」
んん、その飛車浮きの意味は?
まさか7五の歩を取ろうってことかな。うーん。いくらでも受けられてしまいそうだし、それは悪手っぽい。
少し悩んでいたし、手が思いつかなかったのかな。
「8六歩」
「7五飛車」
あ、澄子さんは歩を取らせるんだ。
しかし、このお嬢さんはさっきから動じないね。歩を取らせると飛車の横利きが怖いと思うけど。
「6六銀」
「4五飛車」
だよね。飛車が自由なら、2筋、4筋が狙われちゃう。
というか、2~4筋を守ってるのが銀桂なのか。
これはコウさんが一本って感じかな。
「3八銀」
「9五飛車」
おうふ。
澄子さんの銀上がりを見て、コウさんは飛車を9五に逃がしてしまった。
どうしてそうなった。
「9六歩」
「9四飛車」
淡々と澄子さんは飛車をいじめる。このお嬢さんはドSだね。
まあ、毎日ゲームをやっている様子を見てるから、ドSっていうのは分かってたけど。
「5五銀」
「8四飛車」
ここでまたも5筋を攻める澄子さん。
歩打ち狙いのこれを、コウさんは放置。ちょっと飛車を可愛がりすぎているかなー。
まあ、受けること自体はできそう……だけ、ど?
でも、怖い。澄子さんは今まで閉じていた目をかっと開いて、獲物を狙う獣みたいになっているよ。
「5四歩」
「3一角」
「5三歩成る」
「同角」
3一角じゃ、受けになってなさそう。
コウさん本人もそれに気づいたみたい。目をつむって、眉間にしわを寄せてしまった。
そう。角は前に動けないね。
「5四銀」
「う……。3一角」
「5三歩」
「5一玉」
これは勝負あったかな。
コウさん、手を見落としているね。そこは5一玉ではだめだよ。
ペンを握ったまま、澄子さんが虚空を睨んだ。
見えない指先が、存在しない盤から銀を拾いあげる。聞こえないはずの駒音が聞こえた。
「6三銀成らず」
「えっ? ……あっ、えっと……6一玉」
「5二歩成る」
「7一玉!」
だめそうだね。
コウさん、気持ちは分かるけれど、大きな声を出すのはマナー違反だよ。
すぐ後ろの席で、中野課長がぐっすり寝ているんだから。
「7二銀成る」
「同玉」
「4一と」
「くそー。8六角」
「5二飛車成る」
「負けましたっ」
勝負あり。
澄子さんはやっぱり平然としている。勝って当然という顔。でも、かなり危なかったよね?
コウさんはへにゃんと落ち込んでしまった。
「もー、強すぎ! もっと手加減してよー!」
「私はそんなに強くないわよ。現に今回も、あなたのミスに助けられただけ。
なんで金を打たなかったの?」
「え? 金?」
「4五飛のときよ。あれは金打ち狙いの一手だったんじゃないの?」
澄子さんの指が机の上をなぞる。資料の裏に書いた棋譜を順にコウさんに示している。
そうだね、そこは私も一番気になったところだよ。
「4八金。2八金でも悪かったと思うわ」
「あらー。ぜんぜん気がつかなかった。たしかに、受けにくそう」
「受けにくいというか、たぶん受からないと思うけど……。
じゃあ、感想戦やりましょうか」
流し目で澄子さんがコウさんを見やる。こういう澄子さんの表情は色っぽい。
特に、そう、コウさんと遊んでるときの目は、妙に楽しげで、こちらまで惑わされてしまいそうになる。
「じゃあね。きかせてもらうけど。
初手の▲5八飛って、ぜったい咎める順あったでしょ」
コウさんはびしっと棋譜の一番上あたりを指す。
「さあ。もしかしたらあるかもしれないけれど、知らないのよね。
渡辺竜王いわく、『将棋の初手は何を指しても、そんなに悪くならない』そうだけど」
澄子さんは無表情でそれを流す。
というか、澄子さん、もしかして隠れ将棋フリーク? 渡辺竜王ってそんな発言してたんだ。どこの記事かな。
「あと、角するっと逃げられたとき、あれも捕まえられなかったかなあ」
「7七から6六に上がったときね。あれは、△6四歩と伸ばされるとイヤだったかしら」
「あああ。そうか、じっと……」
ぐるぐると上下に、コウさんのひとさし指が空中を行ったりきたりする。
勝負をしているときと違って、今は普段どおり、小動物みたいな可愛らしい表情になっている。
現役高校生だといわれても、信じてしまいそうなくらい、この女の子の顔つきは幼い。
「あと、もっと玉をはやく囲っておくべきだったと思うわ」
うんうん。それは私も思う。中飛車相手で王様がずっと5筋にいるのは気持ち悪いよね。
「▲5七金に△3四歩は自然に見えるけど、そのあとで▲4六金に△3三銀とあがって、▲4五金でしょう。
この手はそもそも玉を引いておけば、なんてことなかったと思うんだけど」
あ、そこは違う。後手は歩を持ってたんだよ?
後手の銀が6五にいたんだから、▲5四歩△同歩▲同金には△5七歩からの連打でいいよね。
でもまあ、持ち駒に意識をさけなくなってしまうのは、目隠し将棋なら仕方ないかな。
「△5三歩で▲5九飛と引かされたあと、端歩の交換まではいいとして」
「△8五飛……次の手が分からなかったから……」
「分からなかったら、駒組みを見直したほうがいいんじゃないかしら」
「そうします」
コウさんが項垂れる。いつ見てもきれいな黒髪ロングヘアだ。禿げればいいのに。
そうなのだ。なんとこの時点で後手玉はまだ5二で堂々としてるんだよね。
このまま4三玉、5四玉と上がってきそうな勢いすら感じる。どこの戦国武将だ?
「私のほうも、▲8六歩△7五飛のとき△6六銀は変だったかもしれないわ。
ここで銀を打つのは今考えると違和感があって……
どうすればいいのか分からないけれど、ここは受けるのじゃなくて、攻めるべきだったのかも」
天井を見上げながら、澄子さんがぼんやりとした口調で言う。
そのアングル、整った鼻筋がますます整って見えますよ。
「その先、△4五飛に▲3八銀とあがったとき、金を打たなかったのは、さっきも言ったよね」
「これ本当に受けられないの? △4八金……」
無理だと思うよ。コウさんはこの手を見落としたのが痛かったね。
「私の考えた順は、▲4六歩と突いてから。もし△5九金と飛車を取ってくれるなら、▲4五歩△6九金▲同銀で駒が捌けるかもしれない、と思ったんだけど。
やっぱり飛車と金を持たれてしまうと、この陣形ではだめそうね」
「攻めあうなら5四歩とかどう? 同歩で……」
「同歩じゃなくて、4二銀と引かれるだけで、指し手が分からなかったと思うわ」
澄子さんが首をひねっている。うん、それなら私も後手もちだね。
こうなってしまうなら、結果論的に、飛車のいじめ方が悪かったということだろう。
どうせ銀を打つなら、△8五飛に▲8六歩で歩を取らせてしまうより、先に▲7六銀と打ってもいいはずだ。たぶん。
「で、実際には▲3八銀には△1五飛と逃げて、▲1六歩△1四飛、ここで歩打ち狙いの▲5五銀だけど」
「△8四飛と飛車を優先してしまってシマウマだったね。これも銀引いておくべきだったかー……」
「狙い通り▲5四歩になぜか△3一角、▲5三歩成△同角」
「ああっ、ここも、角引くより金を6二に寄ればいいじゃん! ぜんぶ受け間違ってる! ぜんぶ!」
駒組みという考え方が……。
「当然私は▲5三銀と出るわよね。
そこで△3一角と戻ったわけだけど……ここは私の手持ちが歩1枚なのよ。
このあと結局7五角と上がったことを考えれば、このタイミングで7五角もあったと思う」
「なるほど、7六歩と打つと歩切れ!」
「歩がなければ詰めろがかからないわよね。
△3一角▲5三歩。これが詰めろ狙い」
「ハイ。ぜんぜん見えてませんでした」
「まっすぐ△5一玉と引いた理由は、そういうことよね。斜め下に落ちてればそれだけで詰めろはかからないわ」
うーん、壁のほうに行ってしまうけれど、△4二玉でもいいんじゃないかな?
コウさんのほうを見ると、「うわっ、私の受け、ひどすぎ……!?」といった表情になってしまっている。
「▲6三銀不成は取ると詰んじゃうから、△6一玉。で▲5二歩成に……」
コウさんはさらっと流しているけど、そこもやっぱり△4二玉でどうだっただろう。スルスルと盤の右に逃げられそうだけど……。
でも、こうなってしまったら、負けは負けか。
「△7一玉▲7二銀成△同玉▲4一と△8六角▲5二飛成までね」
「うー。悔しい」
澄子さんはなんだかうれしそうに、悔しがるコウさんを見ている。
「明日、もう一局やろう?」
ずいっ、と澄子さんに顔を寄せて、コウさんが強く迫る。
あなたたち、顔が近い、近いよ。
「いいわよ」
おや、澄子さん。恥ずかしがってるみたいに顔が赤くなったぞ。心なしか半歩引いたようだ。
コウさんは気がつかなかったようで、また棋譜に顔を戻す。
「あら、もう五十分ね」
「あ、ほんとだ。じゃあ片付けよう」
そんなことを言い合って、二人は机の上を片付けはじめる。
なんというか、毎日のことだけれど、この二人は仲がいい。
コウさんは澄子さんがいると普段の五割増しくらい元気になる。
澄子さんも顔には表れないけど、このあいだコウさんが休んだ日なんて、口数が目に見えてわかるくらい減ったもんね。
それに、さっきの表情。
見ちゃった。
たまに、たまーにだけど、澄子さんはコウさんのほうを見て、すっごく愛おしそうな表情をするのだ。
なんていうか、これもう、恋人じゃん、恋人じゃん! って言いたくなるくらい。
毎日、こんな風にらぶらぶとゲームをしてるのも、そういう視点で見ると、かなり怪しい。
もしかしたら、二人は付き合っているのかな?
女の子同士で? でも、最近はそういうのもありっていうよね。
《キーンコーン カーンコーン》
あらら。そんなことを考えていたらお昼休みももう終わりか。
いつのまにか、あの二人を眺めるのが日課になってしまっている。
さあ、お昼からのお仕事、お仕事。
そういえば、あの二人、明日も将棋を指すって言ってたけど……。
ちらりとまた視線を向けると、おっと、澄子さんと目が合ってしまった。
ふむ。
わたしは首をかしげ、両手をピストルの形にして、ひとさし指同士を突き合わせる。これで伝わるかな?
《あなたたち、付き合ってるの?》
通じたらしい。
澄子さん、真っ赤になってしまった。両手で顔を隠している。
あはは。これは『効果あり』だね。
▲5八飛△4二銀▲6八玉△8四歩▲7八銀△8五歩▲7九玉△8六歩▲同歩△同飛▲8七歩△8二飛▲7六歩△7二銀▲7七角△8三銀▲8八玉△8四銀▲4八金△8五銀▲7五歩△7二金▲5六歩△7六銀▲6六角△3二金▲5五歩△6五銀▲7七角△5二玉▲5七金△3四歩▲4六金△3三銀▲4五金△4四歩▲5四歩△同歩▲同金△同銀▲同飛△5三歩▲5九飛△1四歩▲1六歩△8五飛▲8六歩△7五飛▲6六銀△4五飛▲3八銀△9五飛▲9六歩△9四飛▲5五銀△8四飛▲5四歩△3一角▲5三歩成△同角▲5四銀△3一角▲5三歩△5一玉▲6三銀不成△6一玉▲5二歩成△7一玉▲7二銀成△同玉▲4一と△8六角▲5二飛成
こっそり自分でもメモしておいた棋譜をカバンにしまって、頭の中の将棋盤を片付けると、わたしはお昼のお仕事にとりかかる。
明日、同じ将棋の話題で話しかければ、もう少し彼女たちと仲良くなれるだろうか?
いつか、二人の間柄についてちゃんと聞けたらいいのだけれど。