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新・斉の残党  作者: 野沢直樹
9/11

運命は人によりて神にあらず

 一


 田横は、夜ごと胡青を抱いた。それを彼女が拒むことはない。青は、常に包み込むような愛で横を迎え入れた。

 しかし横は、いくら青を抱いても心の奥底にある不安を抑えきることができずにいる。儀式のさなかに見たあの墓標には、確かに自分の名が刻まれてあったのである。

「やはり、かつて君が言っていた通りだった。未来を知るということは、恐ろしいことだ。私は今まさに、運命に潰されようとしている」

 横は青の胸に顔を埋めながら、消え入りそうな声で呟いた。青はその横の頭を強く抱きしめ、不安を和らげようとする。横は、息苦しい思いをしながらも、そのことを幸せに感じた。

「漢より使者が来て、私に上洛せよと言うのだ。行けば、きっと私は殺されるに違いない……あの夢で見た墓標は、うう……なんと言おう……その兆しなのだ」

 未来は、おぼろげにしか見えなかった。にもかかわらず、その印象は横にとって、強烈なものであった。横は悟ったにもかかわらず、いまこの場でもし死ぬことになったら、と思うと恐ろしさを感じるのである。それは、青を深く愛したからに違いなかった。

「死ぬべきときには死なねばならない……だが、おそらく今はそのときではないのだ。だから恐ろしさを感じるに違いない」

 人生を悟っていながら、命を惜しむ。その矛盾に田横は自身の不甲斐なさを感じた。

 あるいは先の儀式は、彼を単なる普通の男にしただけなのかもしれなかった。王族という国の命運を背負い、自らの命を顧みず、そして他者の命をも顧みることがなかった彼に、通常の市井の人々が持つ感覚を与えただけなのかもしれなかった。

 ――不思議なものだ。戦いのさなかにいる時は、より死ぬ確率が高いというのに、それを気にしたことはなかった。あの儀式が私をこのような腑抜けにしたというのか……。

 田横の頭の中に、二人の兄の姿が思い起こされた。

 田儋と田栄。ともに乱戦の中で戦死した彼らは、田横にとって自らの生き方の指標となる人物たちであった。

 しかし皇帝に向かって「放っておいてくれ」とでもいうような返答をした自分の姿はとても情けなく、結果的に二人の兄の顔をも汚したような気分になる。


 ――今さらなんだ! どうせ……我らが支配した斉は滅んだ。私が彼らの真似をしたとしても、国は再興しない。ただの……死に損だ! 無駄死にだ!

 そう自分に言い聞かせ、気の迷いをごまかそうとした。

 横は青の胸に抱かれることに満足を覚えながらも、一方ではそのような自分の姿が許せなかった。


 二


 翌日の昼下がり、横は島の端の断崖から海を眺め、思索の時間を過ごした。

 真っ先に思い出されたのは、あのときの酈食其の言葉である。

「指揮官は韓信だ! 彼に比べればお前らなど……野良犬に過ぎぬ!」

「犬は犬らしく振るまえ。腹を見せて、降参するのだ」


 ああ、犬、犬、犬! やはり自分は犬に過ぎなかった。怒りに任せて酈食其を殺したものの、迫り来る韓信に恐れをなして逃げ回ったあげく、皇帝相手に見逃してほしいなどと哀訴するとは……。

 ――武力も持たぬ弁士を殺し、自分より強い相手には腹を見せる……まぎれもなく私は犬だ。

 長兄の田儋は、秦の章邯率いる当代最強の軍に雄々しく立ち向かった。

 次兄の田栄は、項羽を相手にしても決して卑屈にならず、たびたび剣を交えた。それに比べて自分は……。


 田横は果てしなく思い悩んだが、この先どうすべきかと考えても答えは見つからなかった。

 やがて、漢の使者が再び彼のもとに現れたことが告げられた。おそらく使者は、催促をしに現れたのであろう。


「衛尉酈商には、貴殿が現れても決して騒動を起こさぬよう言い渡した。関中まで来いとは言わぬ。雒陽(らくよう)まで来て、顔を見せよ。招きに応ずれば、再び王侯を称する身分に戻れる。しかし、応じなければ貴殿は滅ぼされよう」


 その言葉を真に受けて王侯に戻れるとは思わなかった。それよりも自分が応じないことで、島の五百名の部下たちに危害が加えられることを恐れた。そのように感じてしまうあたり、田横は二人の兄と本質的に違ったのかもしれない。


 結局彼は二人だけの食客を連れて海を渡り、大陸へ上陸することを決めた。ほかにどうしようもなかったのである。


 三


「明日にはここを発つことになりそうだ。その先は、どうなるかまったくわからぬ。もし私が帰らなかったときは、あとは好きにしてくれ。島を出るなり、他に愛する男を見つけるのも構わん。……だが、ひとつだけ言っておくことがある」

 思い詰めた様子の横の言葉に、青は神妙な面持ちで聞き返した。

「どのようなことですか」

 横は、名残惜しさを押し殺した表情で、その気持ちを口にした。

「……儀式のことだ。あれを軽々しく、他の男には行なわないでほしい。未来を知るということは、実につらいことだが……君が与えてくれた幻影を、他の男に味合わせたくないという気持ちもあるのだ。おかしなことだが……約束してくれるか」

「もう二度と行ないません。お約束いたします。だって……儀式の目的は、すでに果たされました。私たち莱族の未来はあなたに託されたのですから……。ですが、それと私個人の感情は別です。私があなたを愛した気持ちは私個人のもので、莱族の未来がどうというものではありません。だから他の人に儀式を行う気持ちもなければ、その必要もないのです」

 青の口調は淡々としていたが、表情は真剣味に溢れていた。横は満足した気分に浸ったが、よく考えてみれば莱族の未来が自分に託されたということの意味がよくわからない。しかし、それを直接的に尋ねることは、憚られた。

「もうひとつ聞いておきたいのだが……君は、君自身の未来が見えているのか」

 横は言葉を選び、結局そのような尋ね方をした。

「はい。ですが私にも未来はあなた様と同程度にしか、見えません。ですから、あなた様と私が結ばれることが、莱族の未来にとってよいことだ、ということぐらいしかわからないのです」

「では、当然これから先の私の運命も、わからないのであろうな。君にとっても、未来を知ることは……やはり残酷なことだった」

「私にできることは、あなた様がお帰りになると信じて待つことだけです」

「……期待に応えられるとよいが」

 横は席を立ち、出立の準備を始めた。

 ――いったい、自分をこのように苦しめるのは誰だ?

 それとも人智を越えた存在が、苦しめるのか。それは、莱族の人々が言う「神」のことだろうか……いや、人だ。かつて自分が王族として人々の運命を左右したように、いま私は誰かの意志によって、運命の選択を迫られているのだ……横はそう考えた。

 ――相手が単なる人ならば、運命は定まったものではない。たとえ死ぬことになろうと……。

 横は、もはや自分には死を避けることはできないと覚悟していた。そのなかで、いかに自分らしい死を迎えるか……それが横の求める最大の課題であった。


 四


 使者は通常随員を連れているものだが、このときの使者は一人だけだった。軽く見られたような気がしないでもないが、田横としては人数が少ない方が気楽であった。これが二十名を越すほどの随員を伴った使者だったとしたら、彼にとって雒陽までの道中は刑吏に引きずり回される囚人がたどるもののようだったに違いない。


 彼らは雒陽までの道のりを駅ごとに馬車を乗り換えて、共にした。

 馬車に乗っている間は、することがあまりない。必然的に使者との会話が増えた。

 使者は自らを「王鄭(おうてい)」と名乗り、気軽に田横に話しかけた。しかし、その割にはこの王鄭なる人物は自分について話すことを、あまりしない。

 そのことに気付いた田横は、やや不安になる。それも無理のない話で、彼がこれから連れて行かれる場所は、いわば敵地であった。使者がなんらかの理由で自分を欺いているのかもしれないと疑いたくなる気持ちも、自然なものであった。

「君、いや、王鄭どのは、どこのお生まれか」

 相手に出身地を問うことは、この当時では素性を知りたいという意思表示のひとつである。田横のこのときの質問もそれに違いなかった。

臨湘(りんしょう)です。それが何か?」

 臨湘とは洞庭湖(どうていこ)の南のほとりにある城市である。春秋時代の楚の領地でかなりの奥地であった。

 ――臨湘……長沙(ちょうさ)人か。漢の勢力はすでにそこまで広がっているということか……。

 田横は内心驚いたが、相手に対してはそれを悟られぬよう、素っ気なく言った。

「聞いてみたまでだ」

 だが王鄭というその人物は田横の顔をいたずらっぽい目で眺め、

「ははぁ、わかりましたぞ。疑っておいでなのですな?」

 と言った。

「そんなことはない」

「臨湘はいいところですよ。夏には洞庭湖で遊び、秋には遠くに見える山々が真っ赤に紅葉する。冬は殺風景で私にはつまらなく見えるのですが、それはそれで味わいがある、という人もいます」

 王鄭の口調は屈託のないものだった。緊張している田横には、それが逆に癇に障る。

「君の出身地に興味があるわけではない。聞いてみただけだと言ったではないか」

 仮に疑っているとしても出身地を偽っていることを疑っているのではないのだ、田横はそう言いかけたがなんとかその言葉を飲み込んだ。

「そうでしたか。これはとんだお喋りを……申し訳ござらぬ」

 王鄭はそう言って微笑んだ。そうして見ると不思議に長者らしい風格も漂うように感じられる。田横は王鄭が使者として下手(したて)に態度を構えていることから、疑いなく相手が年下だとふんでいたのだが、もしかしたら自分より年上なのかもしれなかった。その辺も聞いてみたいと思った。

 ――いや、根掘り葉掘り聞くのはよそう。


「田横どの。あまり考え込まなくてもよろしい。私は一介の使者に過ぎず、皇帝はあなたのご尊顔をいちど拝見したいと望んでいるだけです。他意はありません」

 それを聞いた田横の表情が、緩んでいく。眉間のしわがとれたかと思うと、彼は口にさえも出して言った。

「それを聞いて安心した。私は島に残してきた配下の者たちに危害が加えられてはいけないと思い、こうしてやってきたのだが……覚悟が足りないようだ。配下に与えられる危害を一身に受けることになると思うと恐ろしくて仕方がない。私が酈食其にした仕打ちのことを思えば、当然だというのにな」

 王鄭は、驚いたようだった。田横の言葉に返事をしなかったのである。

「どうした。なにを驚く」

「いえ……。私は斉の田儋・田栄・田横の三兄弟は揃って気骨があり、近寄りがたい存在だと聞いていたものですから。あなたが過去の行為を後悔しているような発言をすることが意外だったのです」

「ぬけぬけと言う奴だ。だが、これは本心そのものだ。確かに酈食其には裏切られたという思いはあったが、殺してしまえばそれが(わざわい)のもととなる……当時の私はその危険性を熟知していたが、あえて酈食其を殺した。二人の兄のように強い……君の言葉を借りれば気骨のある男だと見せつけるためにだ」

「斉が漢に土足で踏みにじられることを嫌ったがための行為でしょう。理解できることですよ」

「うむ。しかし漢への対抗姿勢を打ち出すために私のとるべき行動は……酈食其ではなく侵攻してきた韓信を殺すことであった。しかし、私は恐くてそれが出来なかった。私は逃げ出し……韓信の配下にあった灌嬰の軍にも敗れた。それが、私の正体だ。気骨のある男、というのは看板に過ぎぬ」


 王鄭の見る限り、田横は酈食其を殺したことを本気で後悔しているようであった。乱世の梟勇の姿は影を潜め、人生が嫌になった隠者のような印象を受けた。

「こんな男の『ご尊顔』を拝見したって、皇帝が満足するわけがない。おそらく、皇帝だってわかっておいでだ。顔を見たいというのは口実で、その実は私に恥をかかせようという……」

「そうかもしれません。しかし、それに耐え忍べば生き続けることはできましょう」

「確かにそうだが、皇帝が許したとしても酈食其の弟は許しはすまい。仮に許してくれたとしても、私は一生負い目を感じて生きていかねばならない」

「酈商は……そんなことを気にはしません」

「なぜ、そう言える?」

「なぜって……。ああ、駅に着いたようです。馬車を乗り換えましょう」

 その言葉に従って馬車を降りた田横だったが、やや王鄭の態度に不信感を抱いたようだった。


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