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新・斉の残党  作者: 野沢直樹
7/11

海上の島へ


 ほぼ一年あまりを、田横は梁の地で過ごした。その間にすることはほとんどない。休息に時間を費やしながら、ふたりの兄のことや、莱族のこと、酈食其のことを思い出すばかりであった。

 彼は、そのことに疲労を感じた。とりわけ酈生を思い出すことは、彼にとってつらいことであった。

「あの老人……我々を野良犬のようなものだと……しかし、いまの私は彭越の飼い犬に過ぎぬ」

 田横のような立場の者にとって、自分が社会にまったく影響を及ぼす存在にない事実は、耐え難いものなのである。

 それが、良き影響でも、悪しき影響でも。彼のような者にとって、平凡は罪悪なのであった。ただの飼い犬のような存在に成り下がることは、自信の過去の行動を省みても、許されることではない。

「漢が、楚を垓下(がいか)で滅ぼし、世は漢の旗のもとに統一されようとしている。その中で、自分のような者が平和を享受できる資格があるとは思わない。私は、ありとあらゆる人たちを殺してしまった。それは、決して漢のためなどではなく、自分たちが生き残るためだけの行為であった。社会の統一に寄与することなく、ただ単に障害であっただけの私を……漢が許すはずがない。また、私も人並みな暮らしを望むことなど、許されないことだと思うのだ」

 彼は、斉地から行動を共にしてきた食客(しょっかく)たちを相手に、そのように自分の思いを吐露した。彼らは、その言から田横が将来に何を望むかを読み取ることができなかった。

「では、殿さまは誰かから罰せられることをお望みなのですか」

 食客たちの自分を心配する質問に、田横は苦笑した。

「いや、決してそのように思っているわけではない。私は、漢の支配の及ばないところに移り住みたいのだ。あるいは北に赴き、匈奴に亡命でもしようかとも思ったが……まさかな。彼らの習慣は、あまりにも我々とは違う。私は、とても生きていけないよ」

「では……」

「うむ。海を渡って島で生活したいと思う。多少の不便さはあるが、そこでなら罪悪感も感じずに、今後の人生を送ることができそうだ」

 そう決めた田横は、彭越のもとに赴いた。長らく世話になった礼をすると同時に、以降の関係を断ち切るあいさつをするつもりであった。



「客人、何用だ」

 奥の間から姿を現した彭越は、以前にも増して老いが目立つ。おそらく最近の争乱が、体にこたえているのだろう。彭越は、すでに(よわい)六十を超えていた。目の回りには深い皺が刻まれ、日にさらされ続けた肌は、張りを失っていた。田横の目には、このとき偉そうに目の前に座った男が、ただの老いぼれに見えた。


 どういうわけで自分がこんな老いぼれを頼るはめになったのかは、説明がつかない。ただ、敵に追われたところで近くにいたのがこいつだった、というだけなのか。それとも自分はこの男を味方に付けることで天下にもう一波乱起こそうと願っているのか。 

 どちらも答えは「否」だった。

 確かに自分は捲土重来を期して、ここ定陶にたどり着いた。そのときは確かに戦うつもりでいた。

 しかし、こいつは自分のそんな気持ちをくじいた。

 韓信はまだしもその配下の灌嬰にまで負けたことが許せず、ひとり述懐する自分に向かって、この老いぼれは言ったものだ。

「まあ、しばらくゆっくりなされよ」

 と。

 とんだ珍客が舞い込んだものだ、と思ったに違いない。しかし、この男は表面的にはそれを示さず、破格の待遇をしてくれた。静かな居宅、豪勢とはいえないまでも充分な食事、身の回りの世話をする女官……そのすべてを用意してくれ、さらに自分の引き連れてきた部下にも同様の待遇を示してくれた。

 その結果、自分は骨抜きになってしまった。戦うのが嫌になり、静かな生活を求めるようになった。

 それがこの男の狙いだったのだろう。この男は、やはり自分を厄介者として感じていたのだ。自分がいつまでも戦おうとしたら、韓信が黙っていない。自分を匿うことで韓信に攻め入られることを、こいつは恐れたのだ。


 しかし、こいつはたいした奴だ。いまでこそこうして椅子などに座っているが、あの当時はゆっくり座っている姿など見たことがなかった。人には「ゆっくりなされよ」などと言いながら……。

 この、彭越という男は王になった。逆に自分はなりそびれた。自分は確かに王家に通じる家柄に生まれたというのに。

 この目の前の男は、ただの漁師に過ぎなかった。しかもそれだけでは食っていけず、追剥ぎなどをして生計を立てていた……そんな奴が!


「…………」

 軽蔑の念が確かに自分の中にはあった。しかし、今になって思ってみると彭越に対する自分の感情は、「感謝」だけだ。

 戦いを忘れさせてくれたことは、自分の人生を楽にした。そしてこの老人は自分が楽をしていることを尻目に、ひたすら戦い続けていたのであった。

「聞こえているのか、田横どの!」



「少し、考えごとをしておりました……」

 田横は彭越を前にしてややぼんやりとした口調で話し始めた。

「よからぬ考えではないだろうな」

「いえ……ところで折り入ってお話がございます」

 彭越は少し迷惑そうな顔をした。

「あまり聞きたくはないが……言うがいい」

「は……申し上げにくいのですが、そろそろおいとましようと思います。長らく世話になりなんのお礼も出来ないのですが」

 田横の表情は依然ぼんやりとしたままで、前の自信に満ちたものはないように見えた。

「おいとまだと……出て行くと言うのか。いったいどこに行くあてがあると言うのか」

「東へ。ひたすら東へ……」

 この言を聞いた彭越は、ふう、とため息をひとつもらし、

「東へ行くということは、斉に戻るつもりか。……やめておけ。天下は定まったのだ。君の宿敵の韓信はすでに斉にはいないが、曹参がまだいる。君が今さら斉に舞い戻ったとしても……手持ちの部下はどのくらいだ? せいぜい五百名がいいところだろう。そんな数では彼らに勝てはしない」

 とさとすように言った。


「わかっています」

 田横は少し微笑んだようだった。

 ――おや? こんな男だったかな?

 あらためて彭越が田横を見ると、以前と比べて目尻が下がったように見えた。また、両の眉毛の角度もやや下がったようにも見える。

 ――表情が穏やかになったようだ。

「わかっているとは……ではどこに行くというのだ」

「東です」

「東はわかった。すでに先刻、聞いた」

「海にまで行こうと思っています。そしてどこかの島へ」

「島?」

「天下がすでにおさまったというのに、いつまでもお世話になるわけには参りません。それに私がここにいれば、梁王たるあなた様にいつか迷惑がかかることでしょう。漢の皇帝がいつ私のことを思い出すかと思うと……私を匿っていることは決してあなたのためにはなりますまい。出て行こうと思います」

 彭越はそれを聞いてひとしきり考えた。この男は殊勝な態度を装っているが、実は漢によって統一された社会など見たくないだけではないか、と。考えられることではある。ほんの一瞬だけではあったが、この男は王を称した。それも気位が高い田一族の中枢にいた男である。人の下で小さく膝を折って暮らすことをよしとするはずがない。

「君らしくない殊勝な言葉だな。かつて酈食其を煮殺した男の言葉とは思えん」

 彭越はあえて挑発するような言葉を選び、田横の反応を待った。

 しかし、その言葉は本当に彼を傷つけたようだった。

「ああ……そのことは何度も言ってくださるな! 本当に……忘れてしまいたいのです」


 これには彭越の方がびっくりした。この男は本当に鋭気を失ったのかもしれない。

「触れてはいけないことだったか……いや、申し訳ない。しかし、君が戦いを忘れて静かな暮らしを望むのであれば、もう少し待たれるがよかろう。あと二、三年もすれば……わしの地位もしっかりしてくるような気がする。まあ、わしの中央に対する発言力がある程度高まれば、君の平穏を確約してやることは可能なはずだ」


 その彭越の言葉はありがたかった。しかし迷惑でもある。田横は本心から島に行きたかったのであった。戦いを忘れ、政治を忘れるには、誰もいないところの方が望ましい。誰かがいれば、自分は戦いを思い出すに違いない、と思っていたのであった。

「ありがたいお言葉ですが……どうか行かせていただきたい。私は戦いにも、隠れて過ごすことにも……疲れました。どこか誰も知らない土地で、自由気ままに過ごしたい、つまるところ私の言いたいことはそれだけなのです」

 これを聞いた彭越は、意を決した。

「君がそこまで言うのであれば……。好きにするがいい。どこの島に行くかは知らないが、旅中に必要な食料はある程度持たせよう。しかし……それ以上の援助はできんぞ。それでもいいのか」

「はい」


 彭越は不安を抱きながらも、田横の出立を許可した。しばらく我慢すれば平穏を約束する、という言葉に嘘はなかったが、厄介払いができたという気持ちは確かにあった。



 田横が梁を去り、海上の島へ向かったという一報は、すぐに櫟陽(れきよう)の皇帝のもとへ届けられた。このあたり、古代だというのに漢の情報収集力はたいしたものである。

 しかし情報を得た劉邦は、その情報をもとにどう行動すべきか迷った。せっかく情報を得ながら、行動を起こせずにいたのである。

 ――消し去ってしまいたい。

 劉邦がそう思うのには、わけがあった。


 かつて斉を韓信に攻略させておきながら、酈食其を講和の使者として派遣したことは、彼の見通しの甘さを露見させた。劉邦はそれを恥じ、生き残った田横を滅ぼしたい、と思ったのである。田氏をすべて滅ぼし、最初から何もなかったことにしたかったのだった。


 このとき傍らに控えた相国の蕭何(しょうか)は努めて冷静に劉邦に進言した。

「田横の行動は、いわば消極的不服従というものでしょう。陛下の統治は受け入れがたいが、あえてそれに武力で対抗しようという意思はない……そう見えます。個人的に面識もなければ禍根もないのですから、そっとしておいてやるのが上策かと」

 蕭何らしい意見であった。しかしこのとき劉邦は珍しく蕭何に向かって怒気をあらわにしたという。

「禍根がないだと……そんなことはない! 酈生を殺された!」


 だが、蕭何は動じなかった。

「お怒りですな。しかしですな、陛下……田横としては、あの場合酈生を殺さずにはいられなかったでしょう。酈生の言葉を信じて行動したのに、ひょっこり韓信が現れ、国を奪われたのですから。したがって田横に行動の誤りはありませぬ。……陛下の方にそれがあります」

 劉邦はこの言葉を聞き、極めて不機嫌さをあらわしたような仏頂面をしてみせた。

「蕭何……お前、わしのせいだと言うのか。そうやって直言してくれるのはいいが、わしがいつもそれを喜ぶと思ってくれては困る」


「お許しを。しかし、言わねばなりません。あのとき酈生を失った悲しみは陛下だけのものではありませんでした。楚王韓信は当時、迷いながら斉に攻め込みましたが、自分の行為の結果に立ち直れないほどの衝撃を受けたといいます。彼の気持ちも考えてやるべきでしょう」

 劉邦はしかし、こんなことを言われても素直に反省する男ではない。

「だったら奴は徹底的に討てばよかったのだ。田横を討ち漏らすなど……奴らしくもない」

「仕方がありませぬ。田横は彭越のもとに逃げ込んだのですから。韓信としてはどうしようもなかったでしょう」

「なら彭越が悪い。どうして奴は匿ったりしてわしの意に反することをしたのだ」

「彭越は、あの時点では陛下の臣下ではありませんでした。彼は中立的な存在でしたので、田横を匿うことで漢に対抗できる勢力を培おうとしたのでしょう」

「韓信にも彭越にも罪はない、としたらやはりわしに罪があるということになるのか」

「陛下のお立場、そして決断にはそれほどの重みがあるのです。これを機に深く自覚なされた方がよいと存じます」


 ――自分の立場が軽いことをいいことに、よく言いおるわい。

 劉邦は内心でそう思ったが、若干それが態度に出たようだった。そばにいた蕭何の耳には彼の口から発せられた舌打ちの音が確かに聞こえたのである。


 しかし、蕭何はあえてそれを無視し、

「田横を討つおつもりですか」

 と聞いた。


「どうせ討つな、というのだろう。しかし、奴の背後には斉の賢者たちが控えているのだ。情報では今のところ五百名しかいないとのことだが、それらが核になってひとつの勢力になったとしたら、どうする? 島にこもったからといって座視しているわけにはいかん」

 これは確かに劉邦の言う通りであった。さらには田横の行動を黙認することで次々に同様の行動を起こす者が現れても困る。消極的不服従者が数多く現れ、それらがひとつにまとまったりしたら、それは立派な叛乱勢力になってしまうからだ。その時、消極者たちは積極者に転じるに違いない。

「ならば、懐柔したらいいでしょう。その島の王にでも封じたらいかがですか」

「王だと! ふざけたことを言うな。いや、わしは討ちたいのだ。酈生の仇を討ちたいのだ」

「またそれをおっしゃる……本心なのですか、それは? おそれながら陛下より酈生の仇を討ちたいと願っている人物を私は知っています。その者を呼んで、意見を聞いてみるがいいでしょう」


 このとき劉邦は、自分の思いで頭が一杯で、他者のことに思い至らなかったようである。蕭何の口から自分より田横を恨んでいる者がいると聞いても、それを想像することができなかったらしい。


「誰のことだ、それは? 韓信のことか」

「いえ、まあ彼もその一人かもしれませんが……違います。お忘れですか? 衛尉(えいい)(近衛隊長)にあたる人物です」

「……ふむ。そうか……そうだったな。奴ならわしよりも田横を恨んでいるかもしれん」

 劉邦は得心した。


 その後、劉邦と蕭何は衛尉と会見するに至った。

 その場に現れた男の名は酈商(れきしょう)といった。高陽の生まれで、陳勝が兵を挙げてから半年後に劉邦の配下になった男である。劉邦にとって極めて早い時期から付き合いのある男であった。


 彼は田横に煮殺された酈食其の弟であった。

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