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新・斉の残党  作者: 野沢直樹
6/11

漢の脅威

「その後、君は……使者の酈食其を煮殺したわけだな」

 彭越は、話を飛ばして結果に飛びついた。しかし、それに対しての田横の反応は彭越にとって意外なものであった。

「ああ! そのことはもう言ってくださるな! 忘れたいのです」

 田横は深くそのことを後悔しているらしく、本気で穴の中にでも隠れようとする表情を見せた。

――なるほど、こんな男だったのか。

 彭越は、斉が滅ぼされた一因を掴んだような気がした。この目の前にいる田横という男は、無条件に自分自身の行動の正しさを信じることができないのだ。自分の行動の正しさを内省するあまり、信念に基づいた行動をとることがやや苦手だったのだろう。

「しかし……忘れようにも忘れられることでもあるまい。できたら話してくれ。興味がある」

 田横は、忘れたいと言いながらも、仔細を説明し始めた。あたかも、話すことで彭越の情に訴えたいと思っているかのようであった。



 酈食其は「韓信」という男の名を挙げた。その男は淮陰に生まれた貧乏小僧だったという。時には腹を空かせるあまり、通りすがりの老婆に食をせがんだり、ごろつきの男に絡まれたときには、その股の下を言われるままにくぐった……そんな男だったという。

 その男の名が、勇名だというではないか。田横には、酈食其の言葉が信じられなかった。

「若年期にそのような生活を送った者が、経験を成長の糧にすることはよくあることだとは思う。しかし……その男が自らの才幹で、魏を敗り、代を敗り、趙を敗り、燕を従えたとは……信じられない。天下の半分がひとりの男の力で……」

「ですが、事実です」

 酈食其は田横の驚きように満足したかのような微笑を示した。

「まあそれはわかった。使者どのの言いたいことは、その韓信という男がいる限り、漢は楚に敗れぬ、ということか。その韓信は、あの項羽をも上回る存在だと?」

 酈食其はうそぶくような口調でそれに応じた。

「なんの、項羽などものの数ではござらん。あの男は自らの暴力的な性格で天下を動かそうとする能無しに過ぎぬ。それに比べて韓信は、才覚がある、戦略がある、知識がある……そして仁義があるのだ」

「では、その男がこの斉を守ってくれるというのか。我々が漢と誼を結んだということが知れ渡れば、楚は黙って見ていてはくれまい。いずれ我々は楚に攻撃される。それを韓信が防いでくれるというのか」

「彼に正式にそのような命令は下されておりませんが、能力的には間違いありません。きっと彼はその役目を負うことになりましょう」

「ふうむ……」

 田横は傍らにいる王の田広を顧みた。その目は不安に満ちている。まだ幼い田栄の息子……自分たちを庇護してくれる存在があるとすれば、その力にすがりたい、と彼はその目で訴えているようであった。

「もちろん斉国の方々には、無条件に我々の庇護下にあって、平和を教授していただくわけにはまいりません。我々と同じ立場で、共に戦うことも時にはありましょう。どうか、そのときにはご協力いただきたい」

 これは酈生が発した真実味に溢れる言葉であった。甘い言葉ばかりでなく、その先の苦労も若干存在することを正直に明かした態度には、真摯さが見てとれた。それでも田横は内心で見直した程度の気持ちであったが、幼く、判断力も甘い田広は、この言葉にすっかり乗せられてしまったのである。

「もちろん、我々斉国は惜しみなく協力しよう!」

 この王のひとことで、その後の斉のとるべき方向性は定まってしまった。



 王が独断でそのような発言をしてしまった以上、田横にはそれを覆すことなどできない。しかしそう思えるのは、自分自身が漢の庇護下に入ることにさほど抵抗を感じなかったかもしれなかった。酈生によって、自分も心を動かされつつあったということだろう。

「では、よろしいな?」

 酈食其は確認をとるように田横を見据え、返答を待った。それに対して田横は自らのなかの不確かな意識を確信に変える努力をし、しばしの沈黙のあと、了承の旨を言い渡した。

「……我が王が了承するとあれば、臣下の私は反対する立場にない。漢と同盟を結ぼう」

 この言を受けた酈食其は喜び、ひとつ手を叩いて宣言した。

「これで、決まり申した。斉と漢の強力な同盟が成立したぞ」

 その後、大規模な酒宴が始まった。酈食其は豪快に酒を飲んだうえ、馬鹿な話をしたりして周囲の者たちをおおいに笑わせた。臨淄の宮殿は、和やかな雰囲気に包まれたのである。


 しかしその雰囲気も長くは続かなかった。翌日になると、王のもとに急使が何人も来ては報告し、また来ては報告するという事態が、突然始まったのである。

「平原城が、陥落した」

「高唐城が、占領された」

「饒安城が……」

 使者は次々と現れては、報告する。驚くことにそれはすべて、漢の遠征軍によってなされた凶事である、とのことだった。

 田横は目眩がした。

 自分がまんまと騙されたことに対する相手への憤り。そしてたやすく騙された自分への怒り。自分の意志を無視して承諾の意を表明した王への怒り。それらのものがないまぜになって、田横の意識を混濁させた。それが、目眩へと繋がったのである。

 彼は、未だ陽気に振る舞う酈生のもとを訪れ、厳しい口調で問いつめた。

「広野君(酈生の尊称)よ……。君は先日『天下は漢に帰す』と言ったが、それはこういうことだったのか」

 このとき酈食其は悪びれる表情も見せず、さも何ごとも知らぬかのような顔をして返答した。

「さて、なんのことですかな」

 しらじらしい言葉。わざとらしい表情。あたかも確信犯的な態度であった。

 田横の怒りは、このとき頂点に達した。

「我々斉が漢に味方することを決めた以上、漢軍の鉾先は楚に向けられるべきものではないのか。しかし、聞くところによると漢は大軍を擁して済水を渡り、ここ臨淄に向かっているそうではないか。君はこのことをどう説明するつもりだ!」

 酈食其はこれを聞き、鼻を鳴らした。あたかも物わかりの悪い子供を叱りつけるような態度であった。

「今さらなにを言われるのか。わが漢が貴様ら斉国などと同等と思われては困る。わしが心から貴様らと誼みを結ぶはずなどないではないか。貴様らはわしがなにを言おうと、面従腹背の態度で臨み、都合が悪くなると、平気で裏切る。今、漢が軍を臨淄に向けたのはひとえに貴様らが信用できぬからだ」

「なにを言う!」

 酈食其の発言は、この時代の一般的な斉への評価を言葉にしたものであった。常に戦乱の中にあり、以前の秦、現在の楚などの強大な国を相手に独立を保ち続けてきた理由は、実際にそこにあるのかもしれなかった。しかし当然のことながら、それを面と向かって言われると腹が立つものである。

「信用できぬ奴というものは、お前のような奴をいうのだ。口先だけの老いぼれめ。儒者のくせに礼儀も知らない男だ。死ぬがいい!」

 田横は巨大な釜を宮中に運び入れた。その激情のまま、酈食其を煮るためである。



 酈食其は老人であったが、比較的大柄な男である。しかし左右の腕を縛られ、なおかつ両足も縛られると、抵抗できずに釜に沈められた。

「さて、広野君……。このまま死にたくなければ、漢軍の進撃を止めるよう、取りはからえ。それができないとあれば……死ぬまでだ!」

 だが釜の中の酈食其は、水の中でもがきながらも言うことをきかない。

「馬鹿どもめ! わしを殺せば、漢がお前たちを許すはずがないというのに! お前たちは辞を低くして、わしに頭を下げて頼むべきだったのだ。『どうか漢軍の進撃を止めてください』とな! しかし、もう遅い。わしがお前らのためになるようなことをしてやる義理はすでにない!」

 釜の底に火が付けられ、すでに水温は上昇しつつあった。しかし酈食其はそれに怯むことなく、悪態をつく。そしてその言葉は、深く田横の胸をえぐるのであった。

「どうか、漢軍の進撃を止めてください、だと……誰がそのようなことを言うものか! 貴様のような、姑息な小人めに向かって」

「確かにわしは小人に過ぎぬ。お前らにとってわしのしたことは姑息な手段だったかもしれん。だが小人が大事を成就させるには、そんな小さなことにこだわってはいられない。お前らがわしのことをどう思おうとも、突き進むまでだ。真に徳のある者はちっぽけな礼儀などにはこだわらぬのだ!」

 酈生は、喚いた。田横にとってその言葉は、曲がりなりにも儒者たる人物が発するものとは、信じられないものであった。

「腐れ儒者め! その肉を食ってやる。早く死ぬがいい」

 田横は言い捨てたが、酈食其はもう覚悟ができていたのだろう。それを笑い飛ばす余裕さえ見せたのである。

「よいか、断言してやる。わしは確かに死ぬが、お前たちにわしの肉を食っている暇はない! それはなぜか教えてやろう。漢の指揮官は、韓信だからだ! 天下無双の将である彼にかかれば、お前らなど……」

 ここで酈生はあえて言葉を切り、

「野良犬のようなものだ」

 と言い放った。彼はその言葉のあと、ひとしきり笑い、さらに気分を高めたようであった。

「犬、犬、斉の犬どもめ! お前らが韓信に尻を蹴られ、屠殺される姿が目に浮かぶぞ! 悪いことは言わぬ。犬は犬らしく振るまえ。腹をさらして降伏するのだ。それが嫌なら尻尾を巻いて逃げるがいい!」

 事態はもう酈食其の思う形で展開しており、すでに挽回不可能である。田横は、やむなく撤退を決めた。

 しかし腹の虫が治まらなかった彼は、高笑いを続ける酈食其の顔をしたたかに殴りつけた。もうすでに顔中ふやけていた酈食其は、その一発で鼻血を出し、口からも血を流した。

 しかし、依然として彼は笑うことをやめなかったという。



 怯える田広を抱えるように脱出を促し、それを見送ったのち、田横自身も臨淄をあとにした。ふたりが行動を共にしなかったのは、血筋が絶えることを恐れたからである。王の身になにかがあれば、あとは田横がそれを継がねばならない。また、田横の身になにかがあれば、田広には雄々しく斉の未来を担ってもらわねばならなかった。

 幼き王を守れる者は、国内に自分しかいないことをわかっていた横であったが、このときはそうするしかなかったのである。

「楚に救援を依頼するのだ。それしかあるまい」

 横は面の皮を厚くする思いで、楚の国都である彭城に向けて使者を立てた。田栄の時代から続いて、ことごとく楚と対立してきた彼らにとって苦渋の選択だったことは言うに及ばず、国を維持するにあたって理念や建前が人命より軽視されていたことの証である。横は、たしかに楚と仲直りしてでも助かりたいと思ったのであった。

 その思いに答えた形で、楚は援軍を用意してくれた。猛将竜且が先頭に立ち、高密の地で右往左往していた斉王田広の軍に合流してくれたのである。

「渡りに船とは、このことだ」

 一息ついた田横は、自身の軍を高密とは逆方向の博陽を目指すことにした。南に向かったのである。



「その後のことは、すでに知ってのことと思います。王であられた広さまは竜且とともに韓信に殺されました。韓信は、川を塞き止めて楚軍を誘い出し、それに成功すると川を氾濫させ、楚軍の大半を水底に沈めたとのことです。その報を受けた私は、王を称して漢に対抗しようとしましたが、韓信麾下の将である灌嬰の軍にも敗れる始末で……こうして今に至っているわけです」

 田横は話を結着づけた。しかし彭越としては確認したいことがいくつかある。

「君は使者である酈食其の口車に乗り、宮殿で宴会にふけった。そのせいで地方の城の防備が甘くなったということか」

「一言でいえばそういうことですが、私は酈食其を信用したのです。諸城には漢軍を迎え入れるよう、守備隊を撤退させました。指示を出したのです」

「それは実に……甘かったな」

 彭越は同情するような口ぶりでそう論評した。

「酈食其と韓信が、必ずしも連携した行動をとっていたとは限らん。もしそうであったとすれば、確実に死ぬことになる任務を、酈食其は引き受けたことになる。酈食其が自らすすんで引き受けることは考えられることではあるが、あの韓信がそれを利用して軍を進めた、というのはいささか腑に落ちぬ」

「どういうことでしょう」

 田横はいぶかった表情で彭越に問うた。もしや、自分が嘘をついているとでも言うのか、と。

「韓信は主君に忠実な男だ。広大な地を、その軍事的才能で制圧しておきながら、自らその地を支配することがない。すべて、漢王に献上しているのだ。そして、これまで魏や趙を制圧してきた彼の戦術は……彼自身が戦闘の矢面に立ち、そのことで相手の意表をつくことが主体となっておる。その彼が、他人の命を犠牲にして自分の名を高めようとするとは思えない」

「ですが、私は実際に……」

「お互いが、少なくとも韓信は酈食其の行動を知らなかったのではなかろうか。韓信は斉に侵入してみたら、意外にも諸城が簡単に落ちることに驚いたかもしれない。つまり酈食其は……死士だったのだ。彼は君たちを騙し、味方であるはずの韓信をも騙したのだ。そうに違いない」

 田横はそれを聞き、肩を落とした。酈生の激しい生き様を想像し、自分のまわりにそのような人物がいなかったことを、彼は嘆いたのである。


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