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新・斉の残党  作者: 野沢直樹
2/11

莱族の乱

「ご承知のようにいま存在する斉は、私の兄である田儋(でんたん)が復興させた国です。それを次兄の田栄(でんえい)が受け継ぎ、その弟の私がさらに受け継いでいます。しかしいまや斉の命運は風前の灯……」

「いや、しかし斉は長引く楚漢の対立の中でもっとも長く生き延びた国だ。秦末の動乱で韓や趙、魏や燕がそれぞれ復活したが、いま現在でも存続しているのは斉だけではないか。あまり自己を貶めるものではない」

「お言葉に甘えて誇らせていただきたいのですが……他の諸国の王族たちは皆、借り物の存在です。韓王にしても趙王にしても……武力を持つ豪族たちによって据えられた傀儡(かいらい)に過ぎません。これに対し我々は、王族の血を引く我々が自ら国を復興させ、いままで維持してきた。その国勢は七十余城を越す大国であり、決して楚や漢に劣るものでもありません。どのようにして我々がそのように国を復興させたか……まずは長兄の田儋がどのように国を興したか説明いたしましょう」

「うむ」



 眼下に見下ろす海原は穏やかで、世の喧噪を忘れさせる。その青さは晴れた空より青く、まったく濃淡がなかった。広大かつ深遠なその風景を、高台から眺めることを田儋は好んだ。あまりにもその風景が気に入った彼は、丘の上に別宅を構え、夏はほとんどそこで過ごした。有力者であるからこそできる贅沢である。

「心が落ち着く。この静寂が、たまらぬ」

 彼はそこを訪れるたびに、そう口にした。しかしそれは彼にとって、地上の乱れが相当なものであることを示す。彼は世の乱れによる地上の争いに疲れ、海に癒しを求めていたのだった。

 儋はこの日、ある決意を胸にこの別宅を訪れていた。時は秦の始皇帝が死んだ翌年のことである。


「よろしく頼む」

 儋は重々しい口調でそう言ったかと思うと、海に向かって開放された露台に置かれた寝台に仰向けになった。やや離れた場所で待つ二人の弟たちは、その様子を不安そうに眺めていた。

「何が始まるのですか」

 まだ目元に幼さを残す末弟の横は、隣に控える次兄の栄に小声で聞いた。

「儀式だ。大地と海の持つ力を体に取り込み、その力によって自身の力を増大させる。うまくいけば……人は先を見越す能力を身につけられるのだそうだ」

 栄はそう言って説明してくれたが、その口調には儀式そのものを信じておらず、馬鹿にした態度が見受けられるようであった。あるいは年の離れた若い弟に説明するのが面倒だ、という気持ちがあったのかもしれない。いずれにせよ、やや投げやりな態度であった。

「まあ、どうせ俺たちには兄貴のすることに意見することなんてできやしない。だから、ただ黙って見ていればいいのさ」

 栄はそう言うと、腕組みをして口を噤んだ。ただし、その視線は鋭く儋に向けられている。

 向けられた先の儋が焼け死ぬのではないか、と思われるほどの激しい視線であった。儋の目が安らかに閉じられているのをいいことに、栄はひどく不遜な態度でその様子を眺めている。傍らの横は、それに背筋が寒くなるような恐れを感じた。

 やがて緩やかな太鼓の音とともに、儀式が始まった。仰向けに寝る儋の周囲に二人の女が姿を現したかと思うと、彼女らは伸ばした手を儋の足先から、まるでなめまわすように擦り始めた。異様なその仕草には艶かしさが漂い、それを見ている田栄や田横の側が気恥ずかしさを覚えるほどのものであった。香が炊かれ、その臭いが鼻に届くと、彼らにはその艶かしさが頂点を迎えたように感じられた。

 緩やかで優しい鼓の響きと、漂う香の臭い。そして儋の体をまさぐる女たち。儋の目は一貫して閉じられており、二人の女に身を任せている。ひとりは儋の肩から手先に向けて自らの手を滑らせ、もうひとりは腰から足先に向けて自らの手を滑らしていた。

「体内の毒気を押し出しているのだ。それにしてもあのいやらしさはなんだ。実にけしからぬ」

 栄はそう言いながらも、目が離せない様子でいる。どうやら、場の醸し出す妖気ともいえる雰囲気にのまれまいと必死に抵抗しているようであった。

 一方の横は声も出せない。妖しく、艶かしい空気の中で、自らの正気を保つのにも苦労していた。

 しかし、実を言うと横はすっかりこの儀式に魅了されていたのである。女たちの姿は独特で、日常彼らが目にすることのないものであった。彼女たちは、目の荒い、まるで網のようなもの衣裳として身にまとっており、露台に注ぐ日の光が女たちを照らすと、その衣類の網目から彼女たちの体の線がくっきりと浮かび上がるのである。田横の目にそれが淫靡に映ったことは間違いないが、神秘的にも映るのであった。

 そしてそのような中で、兄の儋が一度も目を開けないことが驚きであった。あたかも儋は女の手で体を弄られることよりも、気を出し入れすることに集中しているかのようであった。

――そうでなければ、我慢できるはずがない……。

 女たちは毒気を抜き終えた儋の体内に、今度は新たな気を入れる動きを始めた。それまでとは逆の方向に手を滑らせ、体全体で押し込むようにして大地の気を儋の体内に注入しているのである。

「まだ終わらぬのか」

 栄は始終そのようなことをぶつぶつと口にしていたが、儋は決して目を開けず、口も開けずにいた。そのような状態が小一時間も続き、海原が夕日の色に染まった頃、ようやく女のうちのひとりが儀式の終わりを告げたのである。

「我々莱に伝わる作法により、田儋様のお体に力を注ぎました。力のみなもとは、この大自然にみなぎる気でございます。今ここに儀式は成功し、田儋様は力を得ました。それは大自然の力であり、我々莱の力でもあります」

 そう言いながら、女たちはひれ伏した。その声を聞いた儋は目を見開き、むっくりと寝台の上に起き上がると、

「ご苦労であった。(らい)の者たちよ」

 と言いながら、夕日に暮れた海原を眺めた。その顔は、どこか憑き物がとれたようであり、それでいて以前より凛々しさが増したようであった。

 しかし、横には疑問が残った。

――いったい、莱とはなんだ。

 隣にいる栄は、歯がみしているようであった。どうやらその原因は「莱」という言葉にあるらしかった。

「莱などと……。兄上はどういうつもりだ」

 儋と栄は年齢にして二つしか違わない。それに対し、栄と横の年齢差は十以上である。よって、横が知らないことを二人の兄が知っていることは多い。横は聞きたいことがあれば、素直に二人の兄に尋ねてきた。自分の無知を恥じたことがない横であった。

 しかし、このとき横が発した質問は栄を呆れさせ、初めて彼は自身の無知を恥じたのである。

「そんなことも知らないのか。莱とは、莱族のことだ。この斉の先住民族だ」



「その先住民の莱と我々が関わりを持つことは、いけないことなのでしょうか」

 田横は聞いた。栄がいらつく理由を知りたかったのである。

「かつて莱はこの山東半島に国家を築いていたが、斉がそれを滅ぼしたのだ。以来、奴らは斉を恨み、その憎しみをはらす為に呪詛の術を覚えたという。今この場で兄貴が受けた妙な儀式こそが、奴らのその技なのだ。兄貴は奴らの技によって力を得たかもしれぬが、しかしそれはもともとこの斉国を滅ぼす力なのだ」

「ということは、兄上は斉国を売り渡したと?」

「兄貴の意図は知らぬ。しかし結果的にはそういうことだ。……俺は胸糞が悪くなったから帰ることにする。あとは直接兄貴に聞くがいいだろう」

 栄はそう言い捨て、その場を立ち去ってしまった。田横は栄についていくべきか迷ったが、結局儋に直接聞いてみたいという欲求に勝てず、その場に残った。

「兄上……」

 横は儋に向かって呼びかけたが、返事はない。表情は以前と比べて引き締まったように見えるが、心が別のところにあるかのようであり、結局横は二、三度にわたって儋の注意を引かねばならなかった。

「横か。帰らなかったのか」

 儋はようやく我に返ったようであった。その顔は夕日に赤く照らされ、見ている横に神々しさを感じさせた。先ほどの儀式も相まって、儋の印象は人に深い神秘性を感じさせるものとなっていたのである。

「……はい」

 横は儋の存在感に圧倒され、その問いかけにまともに答えることができないでいた。しかし、儋はそれに構わず、話し続ける。

「栄の姿が見当たらないな。ここに来る時は一緒のはずだったが」

「先に帰られました」

 儋はその横の返答に軽く笑い、弟の失礼な行動など意にも介さないと言いたげな口調で語を継いだ。

「あの反抗的な栄のことだ。きっと私のやることが気に入らぬのだろう。奴は今日のことをどう言っていたか」

「なんでも……兄上が莱族の力を借りようとしていることが気に入らぬ、と言うことを申しておられました。あれは……斉国を滅ぼす力だと」

 儋はふう、とため息をついた。その様子から、栄の意見に呆れたことは明らかであった。

「戯れ言を……。斉国はすでに秦によって滅ぼされている。わしはそれを復興させようというのに、それがわからぬとは」

横はこれを聞き、驚きを禁じ得なかった。儋は、斉国復興のために自身が先頭に立つ、と語っているのである。既に秦が大陸全土を支配する時代に生まれた横にとっては、信じられない暴挙であった。

「兄上は、革命を起こすおつもりですか!」

 横は興奮して尋ねたが、それに対する儋の態度は冷静そのものである。

「いや、革命は既に起きている。わしはそれに乗り遅れまいとしているだけだ」

 田儋の言う革命とは、主に楚の地を中心に勃発した陳勝・呉広の乱のことを言う。これによって秦の統治は弱まり、各地に独立の動きが生じていることぐらいは田横も理解していた。

「しかし……」

「陳勝や呉広がどういう人物かは知らぬ。が、それを探っている暇はない。このまま彼らの革命が成功すれば、我らの地は彼らのものになってしまう。逆に革命が失敗して秦が勢力を盛り返せば、我らの地は秦に支配されたままであろう。つまり、斉の独立を期するのであれば、今しか機会はない」

 儋の言うことは理に適っており、横としても納得するしかない。しかし彼にとってわからないのは、それをなぜ儋がやらねばならないのか、ということであった。

「我々は斉の王家に繋がる家系ではありますが、決して本流というわけではありません。なのになぜ兄上が……」

「その通りだ。国が潰れた上に、単なる王家の親戚に過ぎない我々の今の立場は、ただの地元の金持ちでしかない。しかしわしはかつて斉国が凛々しく存在感を放っていた時代を知っている者のひとりだ。機会が訪れているというのに座してそれを見過ごすわけにはいかぬ。それに……危機は変化を期待する者にとっては好機であるともいう。わしにとってこのたびの革命は、斉の本流の座を射止める最大の機会でもあるのだ」

 しかし斉の住民のほとんどは田儋が王家の本流ではないことを知っている。そのような人物が主導する革命に従う者が果たして存在するのか……横は質さずにはいられなかった。

「人心を得なければなりません。成功の鍵はあるのですか」

「危機を好機と感じるのは、現状を打破したいと強く願う人々だ。そのような人々こそがわしの味方だ」

「それは……?」

「それこそが莱族だ。今の儀式は、わしに力を与える為であるとともに、彼らがわしを迎え入れてくれたことの証でもあるのだ」

 そう言った儋の表情は、自信に満ちたものであった。

 横は心を動かされつつある。



「私たち莱族が国を滅ぼされてから、およそ九百年が経ちます。民族は散り散りになり、ある者は山村に隠れるようにして暮らし、またある者は斉人の下僕として暮らすようになりました。ですが私たちは常に自分たちの民族的結束を大事にし、それを失わないように努力してきたのです」

 儋を迎え入れる祭祀を行なった女のうちのひとりが、口を開いた。

「その莱族たるお前たちが、なぜ兄上を迎え入れたのか? 兄上は……いや、この私もそうだが、莱族ではない。本流ではないとはいえ、斉の王家に繋がる一族なのだ。言ってみれば、お前たちの仇ともいえる存在ではないか」

 横はそう質問し、女たちの反応を見た。返答に際して言い淀むようなことがあれば、莱族に邪心ありと判断するつもりであった。

 しかし女の口調には、まったくそのようなものがなかった。

「私たちの生活は、占いをもとにしています。その手法は多岐に渡り、星の位置や風向きから吉凶を判断するなどの一般的なものや、獣が腹に子を宿す時期を見定めて収穫の期日を算出したりするなどの実用的なものもあります。が、民族の運命を決定づけるような重大事には、降霊術を用います」

「それで?」

「巫女の体に大地や空に無数に存在する霊を降ろし、我ら莱族の行く末を占いましたところ、他族の指導者を迎えてそれに従うが吉、と出ました。その指導者とは、私どもの生まれ育った地を愛する者であり、自らの掲げる目的の為には民族の相違などには目もくれない人物である、と。……これらの条件に基づいて私どもが迎えましたのが、田儋様でございます」

 儋はそれを聞きながら、超然とした態度を保ち続けている。しかし横にはどうにも、女たちの言うことが信用できない。

「御神託か霊の言葉かは知らぬが……いったいその占いの結果はどの程度信用できるものなのか。お前たちは、それを信じているのか」

 横は聞いたが、女はその横の言葉こそが信じられない、とでも言いたそうな表情で答えたのである。

「私ども塵芥のような存在が信じる、信じないを論じることはできません。この人の姿をした悪魔がはびこる世の中で、信ずるべきは神のお言葉のみとお思いになりませぬか?」

 田横は言い返す言葉が見つからず、立ちすくむしかなかった。確かに革命時代の人の世は、ほとんど魔界といってもいいであろう。人は人を信じ得ず、神の言葉にすがりたがる。というより、それしかすがるものがないのだ。

「横よ」

 儋は横の傍らに立ち、その肩に手を置いて話し始めた。

「莱の儀式によって、わしは力を得た。それは具体的に言うと、先を見越す力なのだ。わしは、儀式の最中眠りに落ち、夢を見た。それはただの夢だったかもしれぬが、やはり神託であったと思われるのだ」

「具体的には、どのような夢を?」

「うむ。夢の中のわしは、王として軍を率い、戦っていた。そして斉は七十余に及ぶ堅牢な城によって守られ、諸国の争いをよそに繁栄するのだ。横、お前が壮年になるころには、我々の勢力は海の向こうの島々にまで及ぶことになる」

「……島々まで……確かですか」

「はっきりと見えた。ただの夢ではない……ゆえにわしは決断したのだ。莱族を核とした軍を組織し、秦の地方行政組織のひとつを占拠する。手始めに、我らの故郷である(てき)県の県令を捕らえ、その組織を強奪するのだ。お前にも参加してもらう」

 最後にはやや強権的な命令で儋は会話を終えた。横としては、やや不満であった。しかし末弟の彼としては、どれほど不満を抱えていようと、結局は兄の命令に従わねばならないのである。

 儋は立ち去ってしまった。あとに残ったのは、横と二人の莱族の女だけであった。

「君たちは、本気で兄上の叛乱に加担するつもりなのか。それに君たちの儀式はどの程度信憑性があるものなのか。兄上は夢を見たと言っていたが、それは本物の神託なのか?」

 女たちはしばらくお互いの顔を見合わせ、それぞれにきょとんとした表情をしていたが、そのうちのひとりがやがて答えて言った。

「どのご質問からお答えすべきか迷いましたが、すべて『はい』とお答えいたします」

「すべて『はい』だと? では君たちの降霊術はまぎれもなく本物で、兄上は本当に未来を見たというのか」

「どうしてお疑いになるのでしょうか。儋さまにはご自分や、ご自分の一族の将来の姿が見えたに違いありません」

 実を言うと横は莱族の降霊術など信じてはいなかったので、彼女たちの態度には驚いてしまった。兄の儋はともかく、少なくとも彼女たちは心の底からその効果を信じている様子であったからである。

「では……叛乱は成功するのか」

 横は問わずにはいられなかった。しかし女はそれに答えてはくれなかった。

「それは儋さまにしか知り得ないことです。あなた様が知ろうとしてはいけません」

「なぜだ」

「未来を知るということは……あなた様が想像している以上に、つらいことです。また、自分の運命を知りながら、それを捩じ曲げようとする行為には危険が伴います。私どもはそのことを知っていますので、ごく限られた方にしか能力を与えません」

「…………」

「田儋さまには、これからあなた方一族が直面する良き運命も、悪しき運命も、ともに見えているのです。つまり未来を知るということは、運命を真正面から受け入れるということ。相応の心構えも持たぬ者が未来を知ろうとしてはなりません。運命に潰されてしまいます」

 横は恐ろしくなり、それ以上質問することができなかった。



 秦の統治下で各地方を守るのは、王侯などの領主ではなく中央から派遣された役人である。斉の狄県もその例外ではない。

 田儋は世の乱れに乗じた。このとき狄県には陳勝麾下の将である周市(しゅうし)が率いる軍が迫っている。

「あるいは周市にこの地を蹂躙させ、彼の武力によって秦の支配体制を崩壊させるのもいいかもしれない。すべて終わったあとに周市を討てば、効率的にこの地を我がものにすることができる……しかしわしはこの地を、民衆を守りたいのだ。結果がすべてというわけではなく、わしとしては過程も大事にしたい」

 儋は弟の栄と横を前にして、そう語った。

「なにを言いたいのかがよくわからぬ。つまり兄貴には、周市と対抗する意思がない、ということなのか」

 栄の物言いは常に挑発的である。婉曲的な言い回しをすることも、聞くことも嫌った彼は、いつも結論を先に聞きたがり、結果を重視する傾向にあった。傍らで二人の会話を聞いていた横には、儋の言葉が暗に弟の栄を批判するものであるかのように思えた。

「そういうことではない。わしは、戦ってみせるよ。……この地の守護者としてな!」

 儋もやや意固地になっていたのかもしれない。このとき栄に返した彼の言葉は、やはり婉曲的なものであった。

 しかし、横にはその意味がわかった。儋は周市と戦う前に、斉の統治権を確保したいと思っていたのである。

「県の役所を襲うおつもりですか。……この地の守護者となるために」

 横はおそるおそる聞いた。

「横は察しがいい。まさにわしは、そのつもりだ」

 儋は快活な口調でそのように言いながら、横の肩を嬉しそうに叩いた。しかし横はこのとき恐れを抱き、思った。陰謀とはこのようにして巡らされるものなのか、と。


 儋は自分を取巻く親族に莱族の男たちを加え、これをひとつの叛乱勢力とした。そして例によって莱族の巫女に日を選ばせ、実際に行動を起こすに至る。

 周市率いる陳勝軍が迫り、対応を迫られた役所が混乱に陥る中、夜に田儋は県令に面会を求めた。曰く、

「大罪人を捕らえた」

 と。その彼の後ろには、手枷をはめられ、鎖で首を繋がれた二人の男がいる。

「その者たちが、大罪人か。いったい何をしでかしたというのだ。いまは、とても忙しいのだ。急ぎでなければあとにしろ」

 役所の門番は、その卑賤な身分にも関わらず、地元の有力者である田儋に対して高圧的な口調で問う。しかしそのことを気にするほど、田儋は神経質な男ではない。

「ことは急を要する。この者たちは私の家の下僕であるが、この者たちはこともあろうに、わしのあずかり知らぬところで周市軍と連絡を取りあい、彼らを招き入れる算段をしていたのだ。よって、いますぐ打ち首にして彼奴らの計画を御破算にしなければならぬ。秦の法では私刑が禁止されているので、県令の決済をいただきたいのだ。急いでくれ」

 門番はその田儋の言葉を聞き、慌てて奥へと走った。

 やがて入れ替わりに、長い白髪まじりの髭を垂らした県令が姿を現した。

「田儋よ! 何ごとか。詳しく説明せよ」

 県令の口調と素振りは実に尊大なものであった。しかし田儋はそれを気に留めない。

「それは、こういうことです……」

 田儋は意識的に声をひそめ、県令は耳を彼の口元に近づけた。

「この者たちは過去に大罪を犯したわけではない。むしろこれから犯そうとしているのだ。世の為に、このわしと共にな!」

 儋は県令の耳元でそう囁くと、おもむろに懐から匕首を取り出し、その腹を突いた。

 県令は、即死した。 

 異変に気付いた役人たちが騒ぎ出したが、儋の後ろにいた二人が素早くそれに対応した。喚く役人たちの口を塞ぎ、その喉元を切り裂く。既に彼らの腕には手枷はなかった。

「制圧せよ!」

 田儋の号令を合図に、それまで闇に潜んでいた莱族の戦士たちが姿を現した。ある者は天井を破って上から現れ、またある者は床板の下から現れ、またある者は明かり窓を突き破って側面から現れた。その突入の方法は劇的であり、役所の内部の人々を驚愕させるに充分なものであった。

 役所の廊下に血しぶきが満ちた。莱族の戦士たちは、素早く相手を追い詰め、物も言わずに致命傷となる一撃を加えていく。静かではあるが、その空間には戦慄が溢れていた。

 そしてその中央に、田儋がいる。田横はその後を追い、指示を仰ごうと思ったが、どうにも声が出ない。と、いうよりも声を出してはいけない、と考えた。物音を立てると、自分も莱族に殺されそうな気がしたのである。

「横よ」

 凄惨なその場の空気に震え上がっていた弟に、儋は振り向かずに声をかけた。

「恐れるな。弱き自分の心に屈するな。士たる者が行動を起こしたからには、最後までやり遂げなければならぬ」

 しかし横の見る限り、秦の役人たちに目立った抵抗の動きはないようだった。彼らは剣を抜いて立ち向かおうとはせず、ただひたすらに逃げ惑うばかりであった。にもかかわらず、莱人たちは彼らを殺すのである。

「ここで必要なのは慈悲の心ではない。必要とされているのは、憎しみの心を断つことだけだ。いま我らが彼らの中のひとりを討ち漏らしてしまえば、その心に憎しみの感情を植え付けてしまうことになる。その感情はやがて復讐したいという欲に変わってしまうのだ。我々はいまここで文字通り彼らを根絶やしにしなければならぬ。それが双方にとって幸福なことなのだ」

 そのように話す儋の傍らで、役人がまたひとり、斬られた。儋はその血潮を顔に浴びながら、動揺する素振りさえも見せない。横には、その姿があたかも悪霊に取り憑かれた男のように見えた。彼の話す言葉さえも、詭弁であるかのように感じた。

 しかし彼はその一方で、前方をいく儋の背中に大きさを感じたのである。横は悪霊に取り憑かれた儋に、魅力を感じていたのであった。



 田儋に率いられた莱族の一隊は、ついに役所奥にある県令の居室まで辿り着いた。そこには県令の個人的な財産があり、使用人や妻子がいた。

 儋は先に弟の横に説明したのと同じ理由で妻子を殺し、のちの汚名の種にならぬよう財物を奪うことを禁じ、それを残さず焼き尽くさせた。

「あまりに残酷ではないですか。財物にしても、燃やし尽くすくらいなら民衆に分け与えた方が有意義だと存じますが……」

 横は儋の行動力や決断力に魅了されながらも、意見してみた。答えはわかっていたつもりではいたが、明確に儋の考えを聞き、実際に言葉にしてもらった方が、のちの世に起こりうるであろう批判に対して申し開きができる、と考えたのである。

 このときの儋の返答が、以下のようであった。

「確かにわしはこのように人命を軽んじ、財物を焼いている。しかしいまのわしにとって大事なものは他にあるのだ。社会を劇的に変化させるには、大なり小なり損失が伴うものだ。人の命を奪うことには、ためらいを感じる。財物を焼くことには、惜しさを感じる。しかし、それらの感情をわし自身が乗り越えないことには、よりよき人の世は到来しないのだ」

 横にとって儋の言葉は、絶対的な正しさを感じさせるものではなかった。しかし、彼が行動を起こすに至ってどのような覚悟でそれに臨んだかを的確に示した言葉でもあった。よって横は、満足することにした。


 やがて役所を制圧し終えた儋は、騒ぎを聞いて集まってきた民衆たちを前に、高らかに建国を宣言した。

「秦の統治が弱体化していく中で、諸侯は次々と叛旗を翻して独立した。いま、彼らは斉の行動を注視している。この斉はいにしえからの独立国であり、その歴史は他のどの国よりも古いからだ。そして田氏はいにしえからの斉の王族であり、この儋はその血を受け継ぐ者である。いま余は宣言する。斉は秦の支配から独立し、再び王国としてこの地を統治すると。そしてそれを王として余が導くと!」

 その場に居合わせた民衆は、皆喝采をもって承認の意を表した。それは誰もが秦の強権的な支配を快く思っていなかった証であったが、同時に田儋の電撃的な行動と、その姿に人々が魅せられた証でもあった。

 宣言した田儋の姿には、闇夜に関わらず青い光が射していたのである。



「……と、いうわけなのです」

 田横はここで話を区切った。ここまで自分が体験してきたことをつぶさに語ることで、自分が正真正銘の田横であることを証明することがある程度できたように感じたからである。

 しかし彭越は、話の内容の方に興味を抱いたようであった。

「莱族という得体の知れない民族の力で、貴公の兄にあたる田儋には神秘性が備わったわけだな。青い光は、その神秘性を象徴している。……しかし、おおむね建国にまつわる逸話には、そのようなものが多いものだ。国をひとつ興すということは、美談では終わらないことが実は多い。貴公にもわかるだろう?」

「仰りたいことは、わかります」

 田横は素直に頷いた。彼は結論を急いでいなかった。

「往々にして、建国とは悪逆な手段によって為されるものだ。しかし権力を得た者は、その正統性を主張したいが為に、自らを神聖化しようとする。いま、貴公がしてくれた話は、後日になって創作されたものではないのか」

 彭越はその人相の悪い顔に、悪戯っぽい笑みを浮かべながら問うた。

「私の話は、実体験に基づいたものです」

 田横は静かにそう述べ、続けた。

「兄の儋が得た力は、自身の未来を知るというものでした。これは、兄自身がその内容を語らない限り、他者が真偽のほどを確かめる術はございません。しかも兄は、未来を知り得たという事実を、私を含めたごく数名の者にしか話しませんでした。それでも人々は兄に神秘性を感じ、その魅力に惹き付けられたのです。あの夜、青く照らし出された兄の姿は、斉の住民の間では語りぐさとなっているのです」

「しかし、それだけでは田儋に神秘の力があったかどうかの証明にはならぬ。田儋の力が客観的に判断できる種類のものでないとすれば、その魅力は見る側の主観でしかない。わしが思うに、青い光も月の光が都合よく儋の体に反射しただけだ。まあしかし、貴公が田儋とともに行動したということは真実のようだ。よって貴公は真に田横であると認めよう。だが田儋の異能力に関しては、認めるわけにはいかぬな。とてもそれがあるとは、信じられぬ」

「しかし本当なのです。兄は自身の運命を見据えた上で、行動していました。もう少しお話ししましょう」


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