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新・斉の残党  作者: 野沢直樹


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死の代償


 島に残された胡青は、田横の死を知り、泣き崩れた。来るべき運命を知っていた彼女にとって、与えられた結果は既定のものでしかない。しかしだからといって、それやすやすと受け入れるほどの心の強さなど、青は持ち合わせていなかった。

「自らの幸福を追い求めることよりも、過去のご自分の罪をあがなうことを選んだのでしょう。あの方は、そういうお方です。……だからこそ私は、あの方をお慕いしていたのです」

 青はいま、荒波が打ち寄せる断崖の上に立っていた。そこは生前の田横が好んで思索に耽った場所であり、青自身も好きな場所であった。いま自分がいるところが、絶海の孤島であるという事実を深く印象づけさせる場所。大自然の中では「自分」という存在がごく微小なものであるに過ぎないことをあらためて思い出させてくれる場所。

 微小な存在であるからには、失われても損失はない……彼女は、断崖から身を投げ出そうとした。あるいは彼女が愛した田横が、ここで同じように思い、自らを死に至らしめたのかもしれない、と思いながら。

 しかしひとつの事実が、青にそれを思いとどまらせた。

 彼女は、子を身籠っていた。明らかに、田横の子である。

 それこそが、あらかじめ彼女に知らされていた莱族の未来の象徴であり、彼女自身にとっても、その後の人生の象徴であった。たやすく失うわけにはいかなかった。


 ――あのお方の血が、いま私の中に流れている……。


 そう思うと、子を産み落とすことさえも惜しく思った。産んでしまえば、田横の血は子に受け継がれ、自分の中からは失われてしまう。


 しかし、それは仕方のないことであった。いま、彼女にできることは斉の王家であった田姓の血を絶やさぬことと、莱族の血を絶やさぬことなのであった。



 使者として田横の死を目の当たりにした王鄭は、復命して蕭何に事情を述べた。


「田横は死して善男となりました。しかし私の感じる限り、すでに田横は死ぬ前から善でありました。過去の自らの行為を恥じながらも、その行為に最後まで責任を取ろうとし、島に残した部下のために自らの命を張ろうとした……王者としての節義を持った人物でありました」

 蕭何はそれに答えて言う。

「乱世というものは、概して人を酔わせる。それはいわば悪酒のようなものだ。田儋や田栄は酔ったまま死ぬことができたので、幸福であったといえよう。しかし残念ながら、乱世の時代もほぼ終わった。田横は酔いが醒めたのだ。おそらく君の言う生前の彼の姿は、本来の彼の姿なのだろう。酔ったまま死んだ方が楽であっただろうに……気の毒なことだ」


 王鄭はその後、寄という名の息子にその心情を吐露している。

「私は、今さらながら善悪の峻別という兄上の言葉の意味を知った。兄上は……自らの死でもって、一人の男を本来あるべき善の姿へ引き戻したのだ。いやはや、兄上の学問の凄まじさを思い知らされた事件だった」


 王鄭という名は偽名であり、彼はまさしく酈食其の弟、酈商であった。


 劉邦はいったんは斉を帰順させた酈食其の功績を賞し、その息子である酈疥に高粱侯の地位を授けた。また、実際に斉を滅ぼした韓信には、紆余曲折はあったが淮陰侯という地位が与えられている。高粱侯、淮陰侯はどちらも漢の爵位の中の最高位にあたる「列侯」である。これは、酈食其と韓信の功績が同等であったと劉邦がみなしたことの象徴であると言っていい事実だろう。


 しかし、劉邦にそのような決断をさせたのは、他ならぬ田横の死であった。五百名に及ぶ臣下たちが、ひとり残さず主君の死に殉じたという事実は、斉という国がいかに精神的に強固であったかを彼に知らしめるものである。それを実際に漢に靡かせたふたりの功績は、確かに偉大であった。


 田横は死して斉の強力さを示し、その死によって人々に自らの高貴さを示したのである。



 莱族はその後滅びることなく、現代では山東省や遼寧省に現存する少数民族のなかでも最多を誇り、その人口は総数で一千五百万を越えるほどとなった。彼らはいま、中国国内のみならず、台湾、韓国、日本などにもその繁栄の場を広げている。その始まりが、胡青の生きたこの時代だったと言えるかもしれない。


 田横が彭越のもとを去った後にたどり着いた島は、当時は名も無き島であった。しかし、それもやはり現存している。山東半島の南、青島市即墨に属し、現在ではその正式な名を「田横島」としている。

 その島にある高台の頂上には田横の石像が雄々しくそそり立ち、その後方には彼に殉じた五百名の義士たちの墓が残っており、いまでもここを訪れる人々は数多い。


 死して二千年以上の年月を費やしながら地名にまでその名を残すとは、酈生の命を賭けた行為はまさに偉業であった、と言うしかない。田横は、酈生の行為によって自分が本来善人であることに気付き、自ら死を選んだことによって、人々にそれを知らしめたのだ。


 人々が二千年以上も彼を偲び、祭祀を絶やさない理由がそこにある。


(完結)


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