回る、巡る
私は気を失っていたに違いない。でなければ、あんな情景に遭遇するはずがないのだから。
ここには鉛色の慟哭も紅の殺気もない。全くの無色で無比の静寂が、熱くも冷たくもないシーツとなって辺りを覆う。
彼はその礼儀に従って、音もなく私の視界の中へと上がってきた。右前足、右後足。器用に運ばれる彼の白く細い四肢は、まるで時計の針のように規則正しく運ばれる。
いいや、その例えは不適切なのかもしれない。なぜなら、彼のそれには紛れもない温もりがあったからだ。どんなに規則正しい一歩の連続であっても、それを動かしているのは電気で動く発条ではなく、血の通った心臓なのだと感じさせたからだ。
しかし、小作人だった私に彼の美しい『一歩』を表現し尽くす語彙など持ち合わせているはずもない。
それでも、私の理解の外にあっても、やはり世界に平等な時計よろしく、彼の一歩は止まらない。一歩、また一歩と私の視界の奥へと踏み入ってくる。
温もり以外でも彼の一歩は私の心を安らかにさせた。彼の柔らかく丁寧な四本足の歩みには、宿舎で受けた辱しめや戦場でこの目が映した恐怖の塊を――息ができなくなるほどに苛烈に締め付けてくる腫瘍を――一本、一本解いていくような心地よさがあった。
彼の瞳と私の瞳が触れ合うと、それはさらに強く感じられた。どこまでも深い青を纏うサファイアのような硬質的な彼の眼は、私を汚そうとする感情や記憶らをことごとく吸い取ってくれるようだった。すると、そっと覗かせる彼の鋭い犬歯は吸血鬼のそれのようにも見えてくる。
私の生きた時間が洗い流されていく。有無もなしに奪われていく。淀んだ気持ちだが、それは間違いなく私にとってかけがえのない経験だった。私がこの戦争の後に折れずに生きるための。しかし、私に少しの恐れもなかった。
彼に出会ったという経験は、目を背けたいこれまでの記憶や感情たちを補って余りあるものだと分かったからだ。
ついに全身が私の視界に収まるまで彼の歩みは進んだ。だがしかし、私は間違いなく彼の全身を捉えているはずなのに、彼の部位を見ることはできても彼の全身を見ることはできなかった。
彼が何者であるのか見ることができなかった。
「カワ…ムラ…アツ…ヨシ…」
「カワ…ムラ…アツ…ヨシ…」
驚いたことに彼の一見不器用そうな小さな唇は、戦場で出会った彼の声と言葉を模倣した。
完全に彼の声ではない。あの時よりも幾分穏やかで、力強く聞こえる。
途切れ途切れな彼の言葉は、まるで末期の言葉を聞いているようだが不思議と心地いい。耳元で丁寧に愛を囁かれる女性の気分にさせる。
低く、落ち着いた彼の声は撃たれた腹部も優しく愛撫してくれる。
撃たれた…!?そうだ。私は撃たれたのだ。死に際にカワムラアツヨシと呟き続けた彼に。