杖と鉾槍・後編
一方、騎獣と馬を駆けさせ日の暮れ切る前に遺跡へ辿り着いた2人は、内部に入り込み程無くして思わぬ相手に囲まれていた。
最悪戻れない可能性も考え、乗ってきた動物を先に戻らせたあと。遺跡の中に光源はないため、松明を一つ灯して踏み込んだのだが、それが内側に蟠る闇に潜むものを刺激したか、幾つもの敵意に晒された。それに反応し松明を床に落として得物を抜くのが早いか、二人を妖魔ではない小動物であったはずのものが襲った。本来小さいはずの鼠が巨大化したようなもの、臆病なはずのコウモリ、それらを餌にする側のはずの野生化した犬などの最初の襲撃を無傷で凌ぎ、二人は得物を構えて神経を尖らせる。
暗闇の中でまた気配が蠢くのを感知したと同時に、傍らの相棒が前に出ながら、鋭く息を吸う音がセオには聞こえた気がした。実際はそんな小さな音が聞こえるわけはないが。
ウォルフは鉾槍を風を切る音を立てて振り回し、穂先の斧頭で、ギイと鳴いて何匹かいっぺんに急降下してきたコウモリであったものを両断した。大きな動きを隙と見たか穂先を向けたのとは逆側から巨大化した野鼠だったろうものが襲いかかってきたが、石突で腹を突いて黙らせる。血を吐きながら吹き飛んだそれを一瞥もせず、武器を返すついでに追撃を加えようとした黒い犬の側頭部に斧頭と反対についているピックを打ち込んで絶命させた。振りぬいた鉾槍から体重でその死体が抜け落ちるに任せ、更に襲い掛かる敵がいないかどうか睥睨しながら、血糊がついた鉾槍を一閃させ、ウォルフは元の構えに戻る。
セオもそれを見ながらただ息を潜めているだけではなかった。むしろ彼に対しても狂を発した動物は襲いかかってきており、飛びかかってきた蜘蛛らしきものを回し蹴りで弾き飛ばし、飛来した数匹のコウモリらしきものを短剣で切り払っていた。最後に襲いかかってきた大鼠の首を斬って沈黙させると、両手に短剣を一本ずつ構えたままウォルフの背後に位置する。
「さすがに他愛もねぇな。件の魔術師の番犬か何かか、こいつらは?」
唸りながらウォルフが言うのを聞き、暗闇の中からこちらを伺う幾つもの気配を感じながらセオは声を低めて答える。
「いえ、元々住み着いていたのでしょう。ここを住処にしていた小動物が混沌の影響を受けた、のだと」
石床に両断されたコウモリのようなものの死体が転がっているが、その姿は徐々にコウモリのものを逸脱し始めている状態であった。薄い膜で構成されているはずの翼に刺が生え、また胴体の毛皮の中から昆虫の足のようなものが不恰好に突き出している。他の、大鼠や蜘蛛や、野犬の死体も大小あれど変異を遂げていた。
「……ゾッとするな。しっかし、どうする? 一匹一匹は大したことなくても、これから大物控えてっし、邪魔だぜ」
「確かに。出来れば魔力は温存したかったんですが……追い払いますか」
彼は言うが早いか、短剣を鞘に収め、先ほど床に転がした松明を素早く拾い上げる。紛れも無い隙ではあったが、その機に襲い掛からんとした暗闇の獣たちは、ウォルフが鉾槍を構え直し睨みつけたのに気圧されたか、ざわつくだけにとどまった。その間にセオは拾い上げた松明を右手に持ち、長めの呪文を唱えながら柄に左手の指で印を描く。
「炎の獣よ、我が名に従いて形を取り、不浄なる者共を排撃せよ」
呪文の最後の節を唱えながらトン、と音を立てて描いた印の中心を叩くと、松明の炎が大きく揺らめき、一片の火が床に滴って膨れ上がると狼のような獣の形をとった。渦巻く炎で形作られた獣には目がなく、周囲へ光と熱を振りまいている。セオは従順にその場に座っている獣を一度見やり、視線を移して暗闇の中でこちらを見ている気配を指さすと命令を下した。
「行け。お前の力の続く限り」
炎の獣は音のない咆哮を上げると、獰猛に暗闇の中の気配群に向け一飛びに襲いかかる。獣は重さがないゆえに素早い上、火で生成されているため発せられる明るさと高熱を嫌ったか、潜んでいた動物達にパニックが起こり周囲が凄まじい鳴き声とざわめきに包まれた。しかし、それも獣に追い立てられる群れが遠ざかるに連れ静まっていき、ややあってからその場に沈黙が落ちた。獣はこの松明が点いている限り敵を追い続けるだろう。周囲の気配が既にないことを探ってから、セオは一つ息をつく。苦手とする火精を操ったことで、自身の保有する魔力が明らかに目減りしたのを感じながら。
「えらい、騒がしかったな」
「すみません、思ったより数がいたようです。中のものには、これで確実に気づかれましたね」
視線を少し下げ、悄気たような声を出す彼に対し、ウォルフは至って気楽な表情をしてみせる。
「いや、いいさ。どうせ追っ払わなけりゃ時間を食ってたんだ、大して変わらん。行こうぜ」
「……ええ」
ウォルフは首を横に振って鉾槍を持ち直すと、先に立って歩き始めた。セオも松明を持ったまま後に続く。何もいなくなった石の通路は、二人の足音をうつろに響かせて続いていた。回廊のようになった道を抜け、幾つかの角を曲がった先に、地下へ降りていく階段を見つけて下りる。階段も廊下と同じくただ広く、音がよく響いた。
やがて、上の階と同じように廊下が続く場所に出る。上よりは若干狭かったが、それでも十分幅は広く、大人二人が手を広げても両側につかないくらいはあった。階自体の作りも階段を軸に二つ折りにしたようになっているらしく、彼らは既視感を覚える曲路を通り抜ける。ただ上の階では回廊があった場所は、中央に一段下がった構造があり、そこに水の溜まった広間になっていた。松明の光を反射し、淀んだ水面がわずかに煌めく。
「……壁に照明用の魔術具が取り付けられてますね。上の方」
大人の背ほどの落差のある段をよけ、壁際を歩きながら見上げてセオは呟いた。ウォルフはその声を聞いて立ち止まり、一度上を見てから、直ぐ前に視線を戻す。
「使えそうか?」
「ええ。ちょっと松明持ってて下さい」
前を向いたまま尋ねるウォルフへ、彼は数歩前に出て横から松明を差し出した。ウォルフは鉾槍を片手で持ち、空いたもう片方で松明を受け取る。それを確かめてから彼は手を離すと、改めて上の方に設置されている魔術具を見やる。作りはごく単純で、魔力を封じた石がはめ込まれた基部に、光源となるであろう玻璃で覆われ呪文が刻まれた琥珀が接続されている。石に込められた魔力を光源の回路に注いで光らせるもののようだ。基部からは銅線が伸び、壁につい最近刻まれた細い溝の中へそれは入り込んでいる。
似たようなものが、歩いて行く先に点々と続いているのが見えた。溝にも魔術具にも不揃いな歪みが目立つ。恐らくは、ここを使っていた人物の手製であろうと思われた。それも急ごしらえの。
セオはその、装置から自分の顔のあたりまでなだらかに下りてきている溝に片手を触れ、進行方向とは逆に辿りながら歩き出した。程無く広間の入口付近の壁に紛れるようにしてあったスイッチを見つけ出す。
「ここを押し込むと点くようです」
鉾槍の石突を床に立て、松明片手にその様子を見守っていたウォルフの方を見て彼は告げた。答えは気負いのない、だが緩みもない声で返った。
「どうせ上でやらかした大騒ぎで気づかれてるだろーし、さっきから足音も響いちまってるしな。点けてくれ」
セオは頷いて、発見したスイッチに手を当てて押す。石にしては軽い手応えでそれは壁に向けて押し込まれ、カタンと小さな音がすると同時に、魔術具へ近い順に明かりが灯る。広間から廊下の奥まで、松明のものよりも白く、黄色味がかった光が辺りの闇を押し返していた。ほう、と感心したような声を待機していた方が漏らした。
「入り口からありゃあ、楽だったのにな。何でこんなハンパなとこから作ったんだか」
「誰かが出入りしてるとバレるからだと思いますよ。このくらい奥からなら、少し様子を見に入り込んだ程度で見つかったりしませんしね」
その言に対しいまいち納得がいっていないような調子に首を傾げているウォルフを見て、セオは敵地にいながら少し気を和ませかけた、その時だった。
軋るような異様な咆哮が奥から響き渡った。空気だけでなく遺跡そのものも振動させるその大音声を聞き、鼓膜を保護するためにセオは両手で耳を塞ぎ、ウォルフは顔をしかめながらも壁際に松明を放り捨てる。彼は深く息をし、不吉な匂いを嗅ぎ取ったのか眉間の皺を深くした。
「血の臭い。古い奴と新しい奴が混ざってやがる……やっこさん、食事したてってとこか」
響き渡る音に紛れて聞こえたそれは、もし被害者がここにいたとしても、もはや手遅れであるということを意味している。苦いものを飲み込んだような感情をセオは覚えた。
やがて残響が消え、セオが耳から手を離すのを見てから、ウォルフは通路の方に視線を向け目を眇めて鉾槍を構え直す。ろくに構えもせず突進した先の戦いとは違い、しっかり腰を落として中段に得物を握りこんだそれは、初見の小手調べだとしても、ある程度本腰を入れて戦うつもりだという印だった。セオは彼の立ち回りの邪魔をしないよう、また広間全体を視界に収めるようスイッチから離れて立ち位置を変える。一度目を閉じ、再び開けた時には魔力の視界も同時に展開する。
程無く二度目の咆哮が響く。先のよりもずっと近い位置から聞こえたが、声そのものより石の砕ける音のほうが大きく、その主の動きが変わったことを如実に示していた。セオが会敵に向け、風精に命令を下してウォルフの周りに空気の層による鎧を形作る。更に休まず、服の上から片手で護符に触れると次の詠唱を始めた。
そしてそれは、2人の進行方向であった廊下の壁を突き破り姿を現す。石床を鉤爪で削り破砕音を響かせ、体から生える棘にて照明を破壊しながら迫ってきたそれ、怪物は一言で言うなら巨体であった。辛うじて通路を塞がない程度の体高と横幅を持ち、全体のフォルムはトカゲに似ているが、体の所々から大小様々な棘が突き出している。近寄るに連れ上半身に阻まれ下半身は見えなくなったが、体を覆う黒い甲殻の隙間から、妙に滑りを帯びた肉らしきものが見えている異様さは少しも減じなかった。
そいつは広間に飛び込むと急減速し中央の窪みの前で止まると、混じりあい移り変わる色を宿した瞳で二人を見て吠えた。大きく避けた口から3列にびっしりと生えた牙が覗き、前足の3本爪が威嚇するように床をえぐる。体重に耐え切れず通路の角が崩れ、石片が溜まっていた水に落ちて飛沫が上がった。
空気すら震え上がらせるようなその咆哮に被るようにして、ウォルフから全身から迸るような叫びが発せられる。対抗して吠えるモノに反応したか、怪物の目がそちらを見て鎌首をもたげ、彼に目標を定めた。小虫を潰さんとするように、右前足が振り上げられ叩きつけられるのを横に跳んで避け、彼は逆にその前足の甲殻の隙間へ武器の穂先を突き立てる。赤黒い血がそこから迸ったが、怪物の方も痛みを表現するより息を吸い込むと、先に体に生えていた棘の一部、肩にあるそれの角度が変わり、一時的に動きの止まった彼に向かって射出される。ウォルフは舌打ちして鉾槍を引き抜き、矢のように飛んできたそれを得物で叩き落とした。叩き落された棘は石でできているはずの床に半ばまで突き立つ。重ねて横殴りに食いついてきた顎に気が付き、彼は避けるために飛びのきながら、空を噛む音を立てて口を閉じた怪物の鼻先に穂先横の斧頭を叩きつけた。首をうねらせ苦痛の叫びを怪物が上げた時、セオが唱えていた呪文が完成する。
どうっと閉所で吹くはずもない風が怪物へ向けて吹き付け、刃と化した風によって甲殻に傷がつきその隙間の複数ヶ所が抉れ派手に血がしぶいた。しかし、決定打にはならない。怒りの唸りを上げる怪物に向け、追撃を加えるためにすぐさまウォルフが踏み込み、がら空きになった首の付根の隙間を狙うが、そこの甲殻は二重構造になっているのか高い音を立てて穂先が弾かれる。反動で武器が流され体勢を崩される前に角度を変え、改めて別の隙間を狙って斬りつけた。首を狙ったその攻撃は見事に肉を裂く。だが、大抵の生物であれば致命となる抉り方をされても、怪物には単なる負傷以上のなんでもないようで、軋るように鳴きながらぐっと首を弛めると、横殴りに左前足で攻撃を繰り出す。
「うぉっと!」
鼻先ギリギリでその爪を避け、風圧でよろめくのを好機と見たか再び食いつこうとする怪物の目に向け、矢継ぎ早に呪文を構成していたセオの風刃が突き刺さる。流石にこれは効いたか、怪物は前足で頭を押さえうずくまり、悲鳴じみた叫びを上げる。ぐっと体に生えている棘の全てが角度を変え、全周に向けて発射された。
飛来した棘を柄で払い、飛び退りながらウォルフは悪態をつく。のたうつ怪物により追撃で跳ね飛ばされてきた石片はセオが張った風の鎧で逸らされるが、広場中に怪物の棘が突き立つ有様となっていた。
「コイツ、ちっとも効きやしねぇ! さっきから当たっちゃいるんだが直ぐ傷が塞がりやがる!」
見れば、先程ウォルフが与えた傷も、セオの魔法での傷も出血が止まっている。まだ完全に消えているわけではないが、肉が盛り上がり急速に治癒しているようだった。頭を前足で押さえるのをやめて首をもたげた際に見えた、最後に潰したはずの片目もみるみるうちに沸き立つようにして元の輝きを取り戻しつつあった。
「やっぱ、弱点をつかないとなりませんか……見当はつきました、けれど」
「どこだ!」
「首の付根の内部です。問題はどうやってやるか……あそこだけ手の届く範囲の防備が固い」
攻撃した際の手応え、それから魔力の流れを見て判断したことを告げると、うげと嫌そうな声が返った。同時に怪物が体勢を立て直し、鉤爪で床をかく。牛か何かが突進してくる前触れかのように。ぐっと首を下げたのを見てから、二人同時に後方の廊下へ走りこんだ。廊下自体を揺るがせる衝撃と破砕音、怪物の軋るような吠え声が廊下に飛び込んだ背後から響き渡る。どうやら巨体を生かした体当たりを行なってきたのだと推測された。そして破壊音が止まらないことから、後を追ってきていることも。
一切止まらずに角を折れながら、セオは考えを巡らせる。標的に対し下から核を破壊する攻撃が不可能ならば、条件を変えて可能にしてしまえば良い。だが彼奴の破壊力を考えるに、階段を策に使えば帰れなくなる可能性が無視できない。
階段を登る最中に共に走る相棒を見やると一瞬視線が絡み、それぞれの担当が決まる。ウォルフは階段を登り切ったところで跳ぶようにして後ろに向き直った。セオは下からの脅威に向けて構え直す相棒の横をそのまま、いや、呪文を唱え風精に呼びかけると、風の力を借りてそれまでよりも速く走る。
「右側でまた!」
「おう!」
声だけを残し、相方が廊下の向こうへ走り去ると、ウォルフは下方から響く石を砕く音と咆哮を聞きながら鉾槍の柄を握り直した。彼はしばらくあの化け物を足止めし、頃合いを見て下がらねばならなかった。早すぎればセオの用意する罠が間に合わないし、遅ければ自分が力尽きかねない。
「……上等じゃねぇか」
彼はボソリと呟くと、口の端をつり上げて笑った。恐怖は腹の底にあったが、それ以上に難題に取り組む手応えを感じて。つまり彼はそういう質だった。
一方、走り抜けて回廊までたどり着いたセオは、息を整える間も惜しみ、右側の通路に入ると風精を一度解放して罠の準備をはじめる。手袋を外し物入れに詰め込んで、ベルトにつけていた水筒も取り外すと左手で持つ。栓を抜いて、右手の人差し指の皮膚を噛み破り血を数滴中に滴らせてから、水を残量を確認しつつ廊下に少量ずつ撒き始めた。その水の線が廊下の幅いっぱいに描くのは、特に工夫のない2重の円と内部に食い込む竜のような象形である。
己の血を使い、陣を作ってまで彼がこれから使おうとしている魔法は精霊使いのものとしては大掛かりで、しかしその効果ははっきり言って派手なものではない。水に備わっている他のものを溶かし込む働きを増幅し、滴る雫が石に穴を穿つように触れているものを劣化させる、今回の場合は水の撒かれた周囲の床を脆くするためだけのものであった。しかし、今はそれが必要なのである。火精や土精を得意とする精霊使いならもっとスマートなやり口があるだろうが、彼にはこれが精一杯だ。
水筒の水を使い切り全てを描き上げると、陣を踏まぬよう彼は足を運び、入り口に近い弧の頂点に跪く。右の人差し指に走る痛みを意識しつつ水で描いた線に両手を触れると、歌うように呪文を織り始めた。指先の傷から血が流れるように、体内の魔力が陣へ染みこんでいくイメージで力を注ぎこむ。先ほどまで遠かったはずの振動がじわりじわりと距離を縮めているのを感じながら。焦りで背中の後ろに嫌な汗をかくのを自覚する。
せめてもう少し、と思考の片隅で念じつつ彼は魔法を練り上げ続けるが、作業が終わる直前に回廊の角を曲がってきた、見覚えのある白い衣が目に入った。黒い怪物の爪と牙を避け粘っていたようだが、足止めし切れなくなって走ってきたウォルフだった。外套の数カ所は引き裂け、それ以外も土埃と血で汚れている。息は完全に上がっているものの血に濡れた鉾槍をしっかりと持ち、目立つ怪我はないようだった。
「悪い、限界だ!」
「上出来です、そのまま走って!」
呪文を中断し、短く言葉を交わして、脇を走り抜ける風を感じてから彼は最後の節を唱え始める。目減りしていく魔力と近寄ってくる脅威と、彼の踏みとどまる意思との、ある種の度胸比べだった。そして、魔法が完成すると同時にウォルフを追ってきた怪物が角を曲がり、姿を現す。そして陣に勢い良く踏み込んだ。
黒い巨体が踏み込んだ床が、まるでもっと脆い別の素材になってしまったかのように抜け、そこから崩壊が始まる。怪物が床だったものに前のめりに飲み込まれ、だがそれだけに収まらない崩壊は、ある程度の厚みがあったはずの回廊の床をボロボロと崩れ去る瓦礫に変える。セオは直前まで陣に力を注いでいたせいで下がり切れず、体を丸めて頭をかばい、せめて衝撃を殺すことを意識しながら浮揚感に身を任せた。
そう長い落下ではなかった。数度の衝撃の後、足から床にぶつかったのを感じ、記憶を頼りに階下であった広間の中央から遠ざかるよう転がって足の骨を守る。目を開け立ち上がるが、もうもうと上がる埃で周囲は見通せない。石の破片が掠りでもしたか、額からつっと一筋血が流れ落ちる。顔を伝い唇の端を通るその生温い感触に、半ば無意識に舌を出して自分の血を舐め、セオは笑った。無論、傷がそれだけで済んでいるはずはなかった。落ちる際に打撲でもしたか腹に嫌な熱がわだかまっているし、体中、特に右の二の腕と左の脹脛辺りに脈と同じリズムで痛む箇所がある。だが安いものだと高揚した精神は判断する。何故ならば、狙いはとうに達成したからだ。
埃が晴れ、空間をビリビリと震わせ耳をつんざくような咆哮と共に、積み上がっていた瓦礫の一部が跳ね飛ばされる。夥しい量の体液を流しながら、そこから傷ついた巨体が鎌首をもたげる。降り注いだ岩にズタズタに切り裂かれ押しつぶされて尚、怪物は牙を噛みあわせ、獲物に向けて食らいつこうと首をうねらせるが、その動きは明らかに精彩を欠いていた。少なからずダメージを受けているのは確実であった。
今の彼奴の下半身は瓦礫に埋もれ動き回れなくなっている。それが肝要だった。あの意外に素早い巨体の動きが少しでも封じられたのは大きい、そして奴の背中はがら空きなのだ。
「っるぁああああ!」
「キョォアアアアア!」
甲殻を砕き肉を裂く鈍い音、聞き覚えのある気合と怪物の悲鳴じみた咆哮が重なる。怪物の頭よりも上、天井が落ちたことで出来た穴から、ウォルフが白い外套を翻して飛び降り、鉾槍を深々と突き刺したのだ。体重と速度を乗せられた一撃は、敵の首の付根を穿いて切り裂き、柄が半ば以上体内に埋没する程の深い傷を作り出した。赤黒い体液がそこから噴き出し、顔と衣服を染めていく。
思わぬ傷を穿たれた怪物は甲高い叫び声を上げて身をくねらせ、自由になる前腕を振り回して降ってきた邪魔者を振り落とさんとするが、ちょうど上部の死角に飛び降りた形のウォルフには届かず、また彼が身に埋まった鉾槍を支えにしているため、傷が広がれど払い落とすには足りない。更に、セオには怪物が溜め込んでいた魔力の気配が徐々に衰えていくのが感じられていた。同時に、再生を始めていた傷の治癒が止まる。
「くっそ、浅ぇか!?」
体液で滑る鉾槍の柄をしっかり握りしめ、暴れまわる怪物の背中で踏み留まりながらウォルフが呻くのが聞こえる。焦りが滲んだその声に、巨体が暴れているせいで飛んできた瓦礫のかけらに目を傷つけられるのを腕で庇って防いだあと、怪物の姿とそれに被って見える魔力の減衰を見ながらセオは声を張り上げた。
「大丈夫です! 今の一撃は核を穿ったはず、だから」
もう少し頑張って、と言いかけた時だった。背中の敵対者を振り落とそうと暴れていたはずの怪物の目が、セオを見た。セオもまた怪物を見ていたがために、まともに視線がかち合う。そこにあったのは純然な敵意と食欲、そして生への渇望。敵わなければお前だけでも、という言葉を聞いた気がした。生への執着は自分にもあったが、怪物のそれに気圧されそうになって、ぐっと唇を噛み締める。そのせいで反応が遅れた。
「セオ、避けろ!」
ウォルフの声で我に返り、怪物が腕を目一杯伸ばして横殴りに攻撃を加えてくるのを視界の端に捉えた時には、既に回避するには遅かった。反射的に残り少ない魔力で風精を呼び、風で防壁を作った直後まともに食らって吹き飛ばされる。空気の層で幾らか衝撃は軽減され、爪で切り裂かれるのは避けたものの、壁に叩きつけられて息が詰まり、痛みと共に喉奥から熱いものが込み上げる。何とか立ち上がろうとするが、痛みと衝撃のせいでまともに体が動かない。むしろ息を吸おうとして吸えず、咳き込んだ拍子に血を吐いた。埃に覆われた石床に、真っ赤な滴りが模様をつける。
怪物は攻撃が当たったことに士気を取り戻したのかどうか、体液を流出させながらも喜色を帯びた吠え声を上げて、壁際に倒れた標的の方に這い寄ろうとしていた。下半身が瓦礫に埋まったままであるため、その爪は石を削るばかりで進まないが、凄まじい執念を感じる所作であった。
「おい、生きてるか、セオドールッ!」
ああ、そんなに焦らなくてもいいのに。セオは何処か他人事のように意識の中でそう思考し立ち上がれぬまま、此方へ少しでも近づこうとする化け物と、その背中の上で深く突き刺さった鉾槍を今度は抜こうとしているウォルフの姿を見る。
彼の使っている鉾槍は普通の槍と違い、穂先に斧頭とピックがついているため、抜こうとして動かすと必然的に肉を裂くことになる。体内を切り裂かれる痛みに、化け物が此方ににじり寄ろうとするのをやめて身と首を捩り、背中の邪魔者に再び食いつこうとして体が揺れるため、彼は鉾槍を抜くのを諦めて予備として身に帯びていた長剣を片手で抜く。安物ながら武器としてきちんと形作られた鋼が不安定に揺らめく灯りを反射して煌めいた。
「こんのっ、いい加減に黙りやがれ!」
敵の振り落とそうとする動きを読み、鉾槍から手を離すとウォルフは化け物の首の上を走った。最後は首の上部に並んで生えている棘を踏み台にして跳び、そして深々と化け物の頭、鱗に覆われていない目の上に剣を突き刺す。追撃に化け物がつんざくような悲鳴をあげ、頭を振ったがその動きがみるみるうちに鈍り、やがてぐうっと首を伸ばし、静止した後その場に倒れ伏した。巨体が地面に叩きつけられる重い衝撃が周囲に走り、埃が巻き上げられて一瞬視界が塞がる。
その粉塵をまともに吸い込んだらしく、咳き込みながら彼の相棒が静まりゆく煙を割って現れた。黒い血に濡れた長剣を右手に引っさげ、鬱陶しそうに左手で埃を払いながら。
「……あー、くそ。こういうオマケはいらねぇっての」
ブツブツ言いつつも、外套で剣の血を拭って鞘に収める。それから、壁際にうずくまったままの自分の相棒に目を向けた。セオは未だに体の自由はあまり効かなかったが、努めてゆっくり息をしながら、何とか片手を挙げてみせて生きてることを主張する。それを見て、ウォルフはほっとしたようにため息をつくと彼の元へ歩み寄る。それから何も聞かず乱暴に担ぎあげられ、体の中の骨やら何やら激痛が走り思わず彼は盛大に呻いた。そうしたら痛いかどうかなどやる前にわかるだろうに、それを聞いてウォルフが一瞬固まる。
「っんの馬鹿、もうちょっと、丁寧に、取り扱いなさい……!」
「……そのくらい文句言えりゃ、大丈夫だろ。つか、治せねぇのか?」
切れ切れに文句を言う担ぎあげた相手に、ウォルフは呆れたように尋ねる。セオは痛みに思考が紛れそうになりながらも残存魔力を探って、微かに首を横に振った。完全に底をついていて、これ以上は命を削ることになる状態だったのだ。
「これ以上は、治す以前に、死にかねないん、で」
「無理か。わーった、ここ出たら施療院に運ぶぞ。嫌だっつっても聞かねぇからな」
もう口を聞く余裕もなく、答えは沈黙で返した。ウォルフは微かに舌打ちして、怪物に刺さったままの鉾槍を回収するべく、セオを担いだまま倒れ伏した敵の方へ歩み寄る。大きく開いたままの目に燃えるような意思はなく、もはやそれは敵ではなくただの死骸だった。
核を破壊されたその体は既に崩壊を始めており、末端や傷からサラサラと砂に帰るようにして形を失っていっている。敵の首の付根に深く刺さっていた鉾槍も、崩壊が進み傷自体が広がるにつれ傾き、よじ登らないでも手が届く範囲に柄が下りてきていた。
ウォルフは敵だったものが流した血でべたつくそれを、片手で掴んで引き抜くと、担ぐことはせず持ったままその場を離れる。証拠になるような体の一部を持って行こうかと思ったが、全てが崩れていっていたため、不可能であると判断してのことだ。
「ま……予想外に手こずったが、俺らの方はこれでオシマイか。エルデストの方も上手くやってっかねぇ」
自身の腕はこれ以上戦闘が辛いくらいに痺れている上、返り血とはいえ血にまみれているし、相棒は複数ヶ所の負傷をしてもう満足に動けないようだし。一つ難題をこなした解放感とともに疲労感を覚え、ぐったりと黙ったままの相方に語りかけながら、彼は帰路についた。崩落しなかった方の通路を抜け、遺跡の入り口にたどり着いた頃には、東の山脈の背景にある空が赤らみ始めていた。いつの間にか夜は終わっていたのだ。