その頃のもう一人
一方、相棒に起こしてもらえなかったウォルフは自力で起きて、何とか夜が明けてそう経たないうちに動き始めた。
欠伸を噛み殺しながら宿より出発し、途中で運良く見つけた花売りから、季節の花を品よく束ねたものを買っていく。何故かといえば、これから訪ねる相手は女性であり、しばらく顔を見ていないため、その機嫌が今どうだかわからないからだ。経験上相手の気分が底辺だと、何も手土産なしの場合ひどい目に合うことが彼にはよく分かっていた。
やがて人の多い大通りから外れ、ゴミゴミとした雰囲気の狭い通りに入る。怪しげなものを売る店や呪い師の家、つまりは一般市民の感覚からすると近寄りがたいものが集まったここは、トネリコ通りと呼ばれている。目的の人物はここに居を構える魔術師の一人であった。珍しいものを見る視線を感じながらも、彼は花束片手に無造作に歩き続け、一つの半分地下に埋もれた小屋の前で足を止める。表札も装飾も何もない、そっけない作りの木戸の前に立ち、少し逡巡してからノックをした。
「はーい。どちらさんだい」
幸いにして住人は起きていたらしく、間はあったものの応えがかえる。ややかすれた女の声であった。
「俺だ、ウォルフガングだ。朝早くから悪ぃな」
彼が名前を告げると一瞬の沈黙の後、速いリズムの足音がして勢い良く扉が開く。少しばかり低い位置にある扉から顔を見せたのは、鮮やかな赤毛とそれに負けない橙色の目をした、真っ赤なローブを纏った女だった。険しい表情をした彼女は、ウォルフの顔をまじまじと見てから扉より出て、彼の頬を両手で挟みこむようにして触る。事情あって普通の女よりは荒れた手の感触を受けながら、花束を持っていない方の手を彼はその手に重ねた。
「ホントにウォルフだ。アンタ、2ヶ月も顔見せないで何やってたのさ。生きちゃいるってのは知ってたけどねぇ……」
「悪ぃ、しばらく忙しくてよ。時間見て来ようと思っちゃいたんだが、なかなかそうも行かなくってなぁ」
顔から手を離させ、代わりにここまで来る途中に買って、土産に持ってきた花束を女に握らせながら、ウォルフはばつが悪そうに言った。女は花束を見て半目になったが、一つ息を吐いて表情を和らげた。
「まぁ、許してやっか……で、急にこっちに顔見せに来たってのは、暇になったからかい?」
彼はそう聞かれて、言いにくそうに頬を掻いた。だが言わないわけにも行かないので、首を微かに横に振って口を開く。
「いいや。久々に来たのが仕事の関係で悪ぃけどよ、今日は、『赫の魔術師』としてのお前に話があって来たんだ、エディス」
「だろうとは思った。だけど、珍しいね、仕事のことでセオドールじゃなくてアンタが来るのは。ま、入んな」
女はウォルフが尋ねた用件を口にすると珍しがりつつも合点がいったように頷いて中に招いた。身をかがめて戸をくぐると中は薄暗く、薬に使う草や乾物などのいつ嗅いでも嗅ぎ慣れないにおいが漂っている。彼を招き入れたあと、彼女は土産の花を奥の作業机の上に置いてから、戸棚からカップやポットを取り出し、茶の用意を始めた。ウォルフはその様子を横目で見ながら、部屋の中心にあるテーブルの椅子を引いて勝手に座った。実際彼にとってここは、勝手知ったる人の家、といえる場所であった。
「……で、今回は何について話を聞きにきたんだい?」
茶葉を入れたポットへ、暖炉で沸かしていた湯を鉄製の柄杓で注いでから、エディスは椅子に座っているウォルフへ向き直る。ウォルフは微かに頷いて、セオから預かってきた手紙をエディスへ差し出す。
「内容はコイツに書いてある。セオは俺に伝言させるのは不安だとさ」
「あはは、アンタ大雑把だからねぇ。アタシも多分そうするわ」
「ひっでえ。伝えそびれとかはした覚えねぇんだがなぁ」
ぶすっくれてみせるウォルフに曖昧に笑うだけで応え、彼女は大股に彼へ歩み寄って、差し出された手紙を片手でひょいと取り上げる。折り目を揃えて畳まれた紙を無造作に広げて文面を辿る表情が、読み進むにつれて眉根が寄り険しくなっていった。
「アンタ、これ中身読んだかい?」
「いいや。どうせ文は覚えられても理解できないから読んでねぇ」
「そーかい……借りを返せってことなんだろうかねぇ、これは」
言いながら紙をくしゃくしゃと丸め、幾つかの呪文を唱えると、彼女の掌の上で紙がひとりでに燃え上がり、赤い火に飲み込まれ姿を消す。すっかり灰になってから彼女は手を払い、茶器を取り出した戸棚に歩み寄って、中に仕舞っていた菓子を取り出して皿にのせた。
「簡単に言うとね、混沌のバケモノについてアンタに教えとけってのがまず一つ。後はまぁ、防御用の魔術具作れってのと、人探しだぁな……最近連絡が怪しくなってる魔術師はいないか、だと。一度に3つとはあの子も欲張ったもんだよ」
卵と小麦粉を練って蜂蜜を加えたものを焼いた菓子が数個載った皿をウォルフの前に置き、彼女自身は喋りながら別のテーブルの上に置いていた茶器の方へ戻る。
「ふうん。できそうなのか?」
「この程度ならね。ま、後ろ2つはぎりぎりのとこ攻められちゃいるが、何とかなんだろ」
彼女が二人分のカップに紅茶を注ぐのを見ながら、ウォルフは菓子の方をつまんで口に入れる。それらを持って彼女が戻るまで、短い沈黙が落ちた。
彼は、この菓子は売っているものよりいささか固くて甘ったるい、とその沈黙の中で菓子を噛み砕きながら考えた。どうもこれは形と味が妙に不揃いであることからして、彼女の手作りらしかった。
「まずは話から、だな。混沌のバケモノ。アタシらは落とし子っていうんだけどね、アイツらは本来こっち側の世界にゃ存在しない、存在し得ないもんだ」
ウォルフの前と、自分が座ろうとしている場所の前に茶を置いてから、どっかと椅子に腰を下ろした赫の魔術師は、自分の名の由来の一つである燃えるような赤毛を指先でいじりながら言葉を口にする。
「エサがなきゃ自分の存在も維持できねぇ。核を壊されりゃどうあがいてもいずれ霧散しちまう。だけどね、それさえ何とかすりゃあ、放っといてもどんどん混沌の力をあっち側から汲み上げて貯めこんでくれる、そういう性質を持ってる。アタシら混沌使いにとっちゃ、いい魔力の外部貯蔵庫とも言えなくはないのさ」
言いながらも、彼女はそれに関して気に食わない要素があるのか渋い顔をしていた。ウォルフは噛んでいた茶菓子を飲み込むと、それで、と先を促す。
「ただ、そのエサが問題ってのと……アンタ、混沌使いについて回る危険って知ってたっけ?」
「いんや、セオが『魔術師はよくあんな危ないものを扱えるものです』とか何とか言ってたことはあったけどな。よくは知らねえ」
ウォルフが記憶していた言葉を口にするときだけ、相棒の声を真似ては見たが全く似ていない様に彼女はけらけらと笑った。が、そう長くは笑わずすぐに真顔に戻る。
「あの子は精霊使いの方だからねぇ、多分知ってるだろうけど口にしたくなかったのかもしれん。そうさな、平たく言やぁ、使い過ぎると心と体が引きずられるんだよ」
そこで言葉を切って、彼女は自らの分の茶に口をつける。しばしの沈黙。カップを置くのを待って、ウォルフは質問を口にした。
「引きずられるっつーと、お前のその目みたいに人のじゃない形になるとか、か?」
「ああ、流石にそれくらいは頭が回るようだね。正解、アタシのこれもそうだ。軽い方だけどね」
口の端を上げて、赫の魔術師は自分の右目辺りに手を触れてみせる。左目とは違い、爬虫類か猛獣のものに似た、縦に割れた瞳孔を持つ目がそこにはあった。
「体の一部が人じゃあなくなるどころか、場合によっちゃ丸ごと化け物になるのさ。体に影響がなくても、心が引きずられる。良くあるのは、無意味に血を好むようになったり同族の肉が食いたくなったり、かね」
彼女は淡々と述べたが、ウォルフは眉根を寄せ、嫌悪感をあらわにして唸った。
「……そりゃあ、おぞましいな。だから魔術師はリスクが高ぇって言われたり、腫れ物扱いされるわけか」
「そういうこった。だけどね、力としちゃ精霊使いより上だって面もある。更に言やぁ、属性に影響されにくいし、場所も選ばないしね。だから、混沌使いはいなくならない……力が欲しいあまり、アタシらですら忌避するヤバいものに手をだす奴もね」
「それが、さっき言った混沌の化け物……落とし子ってやつか?」
「そうさ。確かに魔力を引き出す媒体としちゃ、擦り切れないし容量だってこの上ない。だけどね、常に混沌の濃縮された塊を手元に置くとなると……大体の奴は心を喰われちまうことになる。アンタらが探してる相手は、多分もう、そうなってるだろうね。家畜じゃなくて子供を攫って食わせてるとなりゃあ、相当だよ。落とし子の方も大分でかくなっちまってるはずだ。その分探すのは楽だろうけどね……」
彼女は目を細めて、ウォルフを見やる。ウォルフは赫の魔術師のその探るような視線を真っ向から受け止め、獰猛に笑った。
「そいつを殺すなら、核とやらを壊しちまえばいいのか?」
その言葉に彼女は呆れたようにため息をつく。彼の悪癖がまた出た、とでも思ったのだろう。
「言うと思ったけどね。アンタのその癖で苦労するのは周りだっていつも言ってるじゃないさ……」
半ばぼやくように言いながら立ち上がり、彼女は本棚の方へ歩いて行く。ウォルフはその動きを目で追って、言葉を待った。
「究極的にはそれで合ってるけどね、混沌の落とし子ってのはただの妖魔とは違うんだよ。『アレはああいう種族だから、こうだ』って言えることが少ないんだ。そう言うとアンタを煽りそうだから言いたくなかったんだけどさ」
ぎっしりと様々な色の背表紙が並んでいる棚の前で言葉を口にしながら、彼女は一冊の黒い革表紙の本を引き出す。何の皮が材料であるかはよくわからない質感だが、中のページは羊皮紙でできているようだった。本自体はさほど厚くなく、片手で軽く持てる程度。ホコリを払うためだろうか、ふっと軽く息を吹きかけてから、赫の魔術師はウォルフへその本を投げてよこした。
「字は忘れてないだろうね?」
「俺はどんだけ鳥頭だと思われてんだ。忘れちゃいねぇよ」
ぱしっと音を立ててその本を片手で受け止め、ウォルフは片眉を上げた。本が意外に重量を持っていたからだ。開く前にまじまじと見やるが、見た目は何の変哲もない黒い本でしかない。
「そいつァ結構。その本にゃ落とし子の記録が書かれてる。読んで頭に入れていきな。理解できないなら丸暗記してセオドールに解説してもらえ……嫌な顔はするだろうけどね。その間に、アタシぁ野暮用を済ませてくる」
本自体を持って帰るのは禁止、と言外に含めて彼女は言い、靴音を鋭く鳴らして戸口へ歩いて行く。その途中で普段身に帯びている赤金の片手剣ではなく、壁に立て掛けてあった杖を片手に持った辺り、どこか魔術師にとって権威のある場所へ出向くのだろうかとウォルフは思った。その節くれだった杖は樫の木で出来ていて、魔術師の身分を表す独特の意匠が凝らされているものだからだ。
「薄明の塔に行くのか?」
思い当たった名前を口にすると、赫の魔術師の足が止まる。振り向いて彼女は苦笑いした。彼が口にしたのが、魔術師ギルドの建物についた別名だからだろうか。
「女が伏せたことを穿り返すもんじゃないよ。……ま、そういうこった。アンタというかセオの頼みをこなすにゃ、アタシの手持ちじゃちょいと足んない触媒があるしね。つーことで、読書がてら留守番頼むよ」
「分かった。……戻ってくるまでに読みきれるよう努力しとく」
ウォルフの返事に赫の魔術師は曖昧に笑い、ひらひらと杖を持たない方の手を振ってから踵を返して扉をくぐっていった。彼は本を持って座ったままそれを見送る。多分触媒の補充だけではないのだろうと思いつつ。
「読み物は好きじゃないんだがなぁ」
話し相手がいなくなって沈黙が落ちる中、軽く肩をすくめてひとりごち、彼は1頁目から文章をたどり始める。黒々としたインクで綴られたそれには、落とし子とやらが出現した環境、個体の特徴、核の位置、どのように倒されたか、つまり戦うものである彼が知るべき情報がぎっしりと収まっていた。命綱になるそれを等閑には出来ず、彼は結局読書に没頭するはめになった。
最終的に読み解くまでにはかなりの時間を要し、昼を回ってから彼の愛用の鉾槍を背負ってセオが迎えに来るまで、ウォルフは赫の魔術師の塒で文章と格闘していたのであった。