表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
狼と茨の冒険者  作者: ゆの字
1章 旧友からの依頼
2/20

彼らの日常

 少女は泣きじゃくっていた。泣きながら道をあてどなく歩いていた。

 今いるのが普段入ってはいけないと言われている、立ち並ぶ建物の隙間の道なのは分かっていたが、どこを通れば表路地に戻れるのか見当もつかなかった。無我夢中で走ってきたから、来た道なんか全く覚えていない。

 周りはしんとして薄暗く、たまによくわからない小さなものが足元を走り、道は今朝の雨のせいかぬかるんでいるし、何かが腐ったような臭いがしている。壁の方にくしゃくしゃにされた布の塊のようなものが見えるが、さっき動いていたような気もしたし、暗がりの方から何かに見られているような感じがずっとしているのだ。

 怖くて寂しくて、後から後から涙が出てくるのを堪えられなかった。余りにも静かで押しつぶされそうな不安感に、うぇ、と大声で泣き出す先触れの声が漏れる。

 あと一瞬あれば形振り構わず号泣していたが、唐突に頭へぽんと温かいものが触れ、驚きに動きが止まり声が引っ込む。

「そんなに泣いて、どうしたんですか?」

 穏やかな調子の声が頭上から降ってきた。するっと頭を撫でて触っていたものが離れ、同時に視界に誰かが入ってきて自分の前にしゃがみこむ。

「この辺の子じゃないです、ね……迷子かな」

 その人は自分の顔を覗きこんで、微かに眉根を寄せた。多分18歳になるかならないかくらいの若さで、焦げ茶の目と、同じ色の長い髪を首の後でくくってて、白い肌をした人。服は黒っぽく、腰のベルトに短剣が2本鞘に入って下がっていて、顔以外の肌は殆ど出ていない。顔だちが整っていて、きれいな人だとぼんやり考え、女の人か男の人か迷う。線が細くて、ほんの少しだけどお母さんのつける白粉のような匂いがしたので、声がちょっと低いけど多分女の人なんだな、と思った。

「お嬢さん、どこがおうちなのか、言えますか?」

 言いながら、片手で頭を優しく撫でられる。その感触で、さっき頭に触ったのはその人の手だとようやく気づいたが、その穏やかで柔らかい触り方のせいで気が緩んで、引っ込んでいた涙と声が一緒に出てきてしまう。堰を切ったようにぼろぼろと涙をこぼしながらしゃくりあげる自分に、その人はびっくりしたようで目を丸くして頭を撫でていた手を止める。

「ああ、困ったな。怖がらせてしまいましたか」

 気遣ってくれている人に、怖いんじゃなくてちょっと安心したせいだ、と教えようとしたが、全部えぐえぐと言葉にならない声になってしまう。

「ごめんね、おうちに連れていってあげようと思ったんですが、びっくりさせてしまいましたね」

 大丈夫大丈夫、と繰り返してその人は頭を優しく撫でながら、自分が泣き止むまでじっと待っていてくれた。その間、不思議と小さな怖い生き物は寄ってこず、漂っていたはずの悪臭は意識するほど強くなくなっていた。ようやく落ち着いた時には、だいぶ時間がたってしまったように感じて、済まなく思う。

「え、えっとね」

「うん」

 まだ声を出すと泣いていた時の名残で、声がひっくり返りそうになったが、慰めてくれた人は微かに頷いて先を促した。

「おうちは、白樺通りの、赤い三角屋根のお家。果物屋さんの隣にあるの」

「白樺通り。あまり遠くはないね」

「……そうなの?」

「うん、ここら辺は道がややこしいから離れてるように思うかもしれませんけれど……おいで」

 少し笑って、その人は立ち上がると自分の方へ向けて片手を差し出してくる。黒い手袋にぴっちりと覆われたその人の手を、迷わず手を伸ばして握ると優しく握り返してくれた。手を引かれて、二人で歩き始める。先ほどまですごく怖かったはずなのに、もう心が締め付けられるようなそれは過ぎ去っていた。視線が向けられていたような錯覚ももう感じなかった。

「お嬢さんは、どうしてこんな所に来てしまったんですか?」

「うんとね、ボリスがね……って言ってもわからないよね、男の子の中で一番体が大きくて意地悪な子」

「うん。その子が?」

 迷いなく道を歩くその人に手を引かれながら、静かな声での問いかけに答える。その内容にこんな所に迷い込んでしまった理由を思い出して、思わず頬をふくらませてしまった。

「お母さんからもらったお守りをね、とろうとしたの。ほら、これ」

「綺麗な青ですね。精霊の加護も感じます。……でも、人のものをとろうとするのはいけませんね」

 首に下げていたお守り、瑠璃色の石の首飾りを見せる。手を繋いでいる相手は微笑んで褒めてくれた。それがとても嬉しかった。

「うん。だからヤダって思って走ってずっと逃げてたら、迷っちゃった……」

「成る程、でも、今度からは気をつけないといけませんよ。ここは怖いところですから」

「うん……」

 どう怖いのだろうというのは口にしなかった。きっと自分が体験したよりも恐ろしい何かがここには潜んでいるのだ、と思うと本当に怖くなってしまうからだ。手を繋いでいる人はそれを察したのか、具体的にどう怖いのかという話はしなかった。

 その代わりに、普段はどういう遊びをしているのか、とか、お父さんお母さんとはうまくやっているのか、とか、日常のことを中心に聞かれる。その間も、幾つもの角を曲がって進んでいた。どの角をどのように曲がったか、もう覚えてなどいられないほど歩いて、見覚えのある通りに出た時だった。

 不意に、少し先に行って折れた道の向こうから自分の名前を呼ぶ声がした気がして足が止まる。手をつないでいた相手も、それに気がついて立ち止まる。

「レティシア、どこにいるのー?」

 気のせいか、と思いたくなくてジッとしていると、今度も紛れもなく自分の名前を呼ぶ声が聞こえた。遊びに行ったきり姿が見えなくなった自分を探しているようだった。曲がり角の向こうから聞こえる懐かしい声に、ぎゅっと握りしめていた手から自然に力が抜ける。手を離して数歩前に出た自分に気づいて振り向くと、送って来てくれた人は表情を緩めてその場にいた。

「あの声は、お父さんとお母さんですか?」

「うん……!」

 はっきりと頷くと、そうですかと頷き返してくれる。何となく、この人とはここでさよならなんだなと感じ取って、少し寂しく思う。自分の名をを呼ぶ父母の声がまた聞こえて、そっちの方を向くと穏やかな声で告げられる。

「では、もう私はさよならしても大丈夫ですね」

「……一緒に来てくれないの?」

 薄々理解しながらも聞くと、その人はしゃがみこんで自分と視線の高さをあわせてから、一つ頷いた。

「知らない人が一緒だったら、お嬢さんのお父さんとお母さんがきっと驚いてしまいますから、一緒に行かないほうがいいんです」

「でも、わたしを助けてくれたのに」

 別れがたくて食い下がるが、静かに首を横に振られてしまう。それでもぐずぐずしていると、その人は立ち上がって近寄ってきて、そっと自分の背中を押す。

「ほら、早く帰っておあげなさい」

 でも、と言いかけた時、また父母の声がして出鼻をくじかれる。唇を噛み締めても、その人の穏やかな表情は変わらなかった。そして自分は諦める。

「……ありがとう、またね、おねえさん!」

「ええ、また。今度は迷子にならないように」

 手を振って父母の声の方へ振り切るように走っていく。手を振り返し、微笑みながら見送ってくれたあの人の後ろから、誰かの噴きだすような声が聞こえたような気がしたが、ようやく家に帰れるという安心感に紛れ些細なこととして片付けてしまった。そして、父母と合流して家に帰った後はたっぷり叱られて、あの人のことはすっかり記憶の中に埋もれてしまったのだった。

 そして二度と思い出せることもなかった。


――――


「お、おねえさんってお前」

 子供が見えなくなるまで見送った後。ばしんと強く背中を叩かれた上に笑いに震える声が背後からして、叩かれた衝撃で一瞬前のめった『彼』はみるみるうちに眉根を寄せ、憮然とした表情になりながら、くるりと振り返って声の主を睨みつける。

 そこにいたのは白い服を着た、彼よりも明らかに長身の男だった。服は外套から何から白く、他の色をしているのは靴くらいだろう。お陰で少し付いている泥跳ねだのの汚れが目立つ。逆に漆でも塗ったかのような黒い髪を、前髪以外整えも縛りもせず背中の中ほどまで伸びるに任せていて、意志の強そうな印象のくっきりとした眉の下にある目も、質感は違うが黒い。顔立ち自体は黙ってりゃ男前、といった感じの鼻筋が通った作りだ。全体的には筋肉質な体つきで、腰には一応、といった体で鞘に収まった長剣が下がっている。彼はその長剣が最近あまり考えずに買った安物の品で、本来男が好んで使うのは長柄武器だということを知っていた。それだけではなく、歳は24を数えていることも、姓を名乗ることを許されていることも。なぜなら、男は本当は今日別行動していたはずの彼の相棒だからだ。

 男は振り向いた彼の肩を更に数度片手で叩き、その力に対象が思いっきりしかめっ面をしていることも気にならないような調子でにやにやする。彼としては、服装といい背丈といい兎に角非常に目立つ要素のある相手にそういう振る舞いをして欲しくはなかった。声を周りから聞こえにくいようにしようにも、先に纏っていた空気の層は、さっき叩かれた時に気が散って風精が逃げていってしまったのでとうに霧散していた。

「ぷ、はは、そんな化粧の匂いさせてりゃしゃーねよなぁ!」

「これは仕方なくですし、おじさんって呼ばれるよりはマシです」

 苦虫を噛み潰したような気分で発したその反論に、相手が今度こそ腹を抱えて大笑いし始め、ますます彼の眉間の皺が深くなる。本来なら彼より目線が高いはずだが、腹を抱えているせいで見えている相手の頭頂部に手首のスナップを利かせてスライドさせるように平手を入れる。ぱしんと高い音が響き、叩いた方の手にも少なからぬ衝撃が走ったが、叩かれた方は全く堪えていないように笑い続けた。何事かという通行人の視線を複数感じて、彼は頬に朱を上らせるとまだ笑っている男の髪を一房掴んで引っ張りながら歩き始める。

「うお、った、痛いって!」

「いつまでも笑ってるからですよ、恥ずかしいったらありゃしない」

 髪を引っ張られる痛みにようやく笑うのをやめて、隣に並ぶよう自分で歩き出した男の自分より頭一つ分高い位置にある顔をじろりと見てから、彼は手を離し汚れを払うように叩く。別に相手の髪の毛が汚れていたというわけではなく、単なる癖である。男はそれを見て口の端を上げたが、先程のような爆笑はもうしなかった。

「悪ぃ悪ぃ、面白すぎてよ。『おじさんよりはマシ』はねーわ」

「……何処がそこまで受けたんだかさっぱりわかりません。私が女と思われようがおじさんと呼ばれたくなかろうが、良いでしょう、どうでも」

「そうか?」

 男は言葉を続けようとしたのか口を少し開けて、だが思い浮かばなかったのかそのまま閉じた。冗談の説明とは虚しいものだ、と以前に言われたのを思い出したのだろうかと彼は考えたが、特に追求はしなかった。その代わりに、別の質問を口に出す。男と彼が別行動を取っていた理由にかかる問だ。

「そっちの首尾はどうだったんです?」

「ん、ああ。やっぱ俺ぁ情報収集向かねぇわ。聞き込みしちゃみたが」

 荒事は兎も角目ぼしい収穫なし、と言って相手は肩をすくめた。でしょうね、と彼は返して自分の胸元に片手を当て、服の下に身に着けている護符へ布越しに触れる。情報という言葉に引き出された記憶が脳裏をかすめ、気分が悪くなった為に無意識にとった行動だった。やってしまってから、気が多少弱っていると認識して微かに舌打ちをする。自分から聞いた癖に、と彼は苦々しく思考した。

「お前は……その様子だとあんま良くねー感じだな。舌打ちはやめとけよ柄悪ぃ」

「貴方に言われたくないです。一応、怪しい程度の情報はひとつ。報告は宿に戻ってからしますけれど」

 往来で言うには憚られる、と言外に告げて言葉を切る。西に傾いた日が濃い橙の色を帯びていて、二人に注意を払っている人間がほぼいないにしても妄りに言うべきでない話題というものはあった。特にここが所謂普通の生活の営みの場であるならば。

「ん、そんじゃ真っ直ぐ戻るか。今日のとこは、他にもう行く先はねぇだろ?」

「ええ。貴方が夕食を外で買って帰るのでなければ」

 頷いた男に、敢えて軽口を叩いてみれば、喉を鳴らすようにして笑いが返ってくる。

「宿のでいいだろそれくらい。今は買い足すほど腹減ってねぇし、お前もそんな食わねえし」

「……いや、人並みには食べてるじゃないですか、いつも」

「そーかぁ? 俺の半分も食べないだろ、大体」

「それは貴方が食べ過ぎなのであって、私が食べないわけじゃないって何回言えば分かるんですか」

 半ばわざと他愛もないやり取りをしながら、彼と男は通りを歩いて行く。幾つもの角を折れ、大通りからは若干外れた、うろつく人間に堅気でないのが混ざり始めた辺りで日はほとんど没し、薄闇が辺りを覆い始めた街を照らす為に街灯へ火が入り始める。明かりをともす為小さな火トカゲを肩に乗せ方々を回っている火守の術師とすれ違い、男はいつもお疲れさんと朗らかに声をかけるが、彼は会釈するに留めた。今は先の記憶のせいで心が波立っていて、下手に火精使いへ話しかければ妙な影響があるかもしれないからだ。そんな二人の対照的な反応に、火守は特に変わった振る舞いは見せなかった。ただ二人へ会釈を返し、黙々と街灯へ近寄っていって、術によって火を灯している。彼らはそういうものなのだ。

「何だ、実は調子悪ぃのか」

 火守に口をきかなかったことに気づいたか、彼の方をへ視線を向けて、先までの雑談の続きではなく気遣うような言葉を男は口にする。調子が悪いというのも厳密には違うので、彼は微かに首を横に振って、言葉少なに否定した。その視界の端で、街灯からこぼれ落ちた火の粉から産まれたらしい小さな火精が、つかの間道を跳ねて消えるのを見る。男は男で、そうかとだけ口にして黙ったせいで、二人の間に沈黙がおりた。

「……そーいやあのガキだけどよ」

「うん?」

 数十歩ほど無言で歩いた時、唐突に男が口火を切る。そろそろ宿やらそれを兼ねた酒場やら、旅人向けの雑貨店やらが並ぶ辺りに入り込んでいた時だった。

「今の仕事絡みか? それともいつもの癖か」

「後者ですよ。……仕事に全く絡んでいないともいえば嘘になりますが、直接じゃない」

「ん、まぁ、そうだよな。ガキなんざ裏に放っといたら、格好の獲物になっちまうか。お前にゃちっと見逃せんわな」

「ええ。何分、苦い思い出がありますので。力あるのは幸いかな、ですよ」

 彼は男の言葉に頷いて、腰に下げた短剣のうち左手で抜く方を軽く叩く。男はその動作を見て眉根を寄せたが、軽く空気のにおいを嗅いで彼から血の臭いがしないことを確かめてから、片手で頭をガリガリと掻いて視線を戻した。

「トラブってなかったならいいさ。お前が一人でことを構えると極端になっから」

「それは否定しませんが。子供連れて修羅場に転がり込むほど、阿呆でもありませんよ?」

「分かっちゃいるけどなー……」

 更に男が言葉を続けようとした時、彼は足を止める。男も続いて足を止め、着いたかと一言呟いた。二人にとって見慣れた建物の前まで来たからだ。木造の二階建てで、屋根は赤瓦でふかれている小さくもなく大きくもない建物。看板は、店の名を示す茨の茂みとそれの中に伏せる狼を象った透彫のものと、宿を示す寝台の形の浮き彫りの、青銅で出来たものが下がっていた。木のドア越しに中からうっすらと喧騒が聞こえている。どうやら他の客が今日は来ているようだった。

 男が先に立って石段を上り、ぎっとドアを軋ませて押し開けた。中に篭っていた音と食事や酒等の匂いがわっと開いた入り口から押し寄せる。男はそれに楽しげに目を細めながら、戸口をくぐり中の騒ぎに負けないよう声を張り上げた。

「おかみさん、今帰ったぞ! 俺たちにも飯頼むわ!」

「ウォルフ、ずいぶん遅くなったねぇ! おや、セオも一緒かい!」

 セオと呼ばれた彼はその声を聞きながら、ウォルフと呼ばれた男に続いて宿の中に入り、立て付けの悪いドアが勢い良く叩きつけられないよう手を添えて閉める。酒場を兼ねている宿の一階では、既に5つあるテーブルに分かれて何組かの客が酒を飲んだり食事をとったり、今日の仕事の話をしたりしてめいめいの時間を過ごしている。歳も背格好も様々、共通するのは武器を帯びているなど何処か堅気でない雰囲気くらいな客層であった。その間を給仕をしている宿の娘が客をあしらったり注文をとったりしながら早足で歩いている。確か栗色の髪をした彼女は今年17歳だったな、と彼はそれを見ながらぼんやり思った。

 軽く周囲を見回してから、彼は先にカウンター席に座っていた男の隣に腰を下ろす。それから、カウンターの中、厨房を兼ねている場所で忙しく働いている宿の主に微笑んだ。おかみさん、と呼ばれている彼女は中年の恰幅の良い女性で、髪は白いものが混ざってきているが娘と同じ栗色をしている。この女傑は、夫をなくしてから一人娘と一緒にこの宿を切り盛りしているのだった。

「ええ、ただいま戻りました。本当は彼より先に戻ってようと思ったんですけどね、ちょっと野暮用ができて」

「そうかい。んじゃ食事は二人一緒で大丈夫かい?」

 お願いします、と頷いて応じれば、おかみさんは働く手は止めず、はいよと力強く答えてそのまま、他の注文もまとめて捌くためにさらに忙しく手を動かし始める。

「食いながら話聞くかと思ったが、こりゃ食った後に部屋で話したほうが良さそうだな」

 それをカウンターに肘をついて眺めながら、ウォルフが言う。セオは頷いて返事をしかけたが、ちょうど客あしらいが一段落ついたのか、娘さんが歩いてきて水の入った陶器のコップを二人の前に置いたので言葉を飲み込んだ。

「おかえり。今日も無事帰ってきたわね」

「おう、今日やってたのは討伐でもなんでもなかったからなぁ。流石に死んでられねぇよ」

 娘さんに向かってウォルフがにやりとしながら言う。セオは内心、大概の討伐でもこの男は死にようがないのだけど、と思いながらコップを手に取り、水で喉を潤す。

「あら、油断大敵って言葉があるじゃない? あ……セオ、戻ってきて早々なんだけど、ちょっと頼みたいことがあるの」

「ん、何でしょう? 時間が掛かる用事なら難しくなりますが」

「ううん、ほんのちょっとあれば済むと思う。本当はお客さんに頼むことじゃないんだけど……夕方にね、井戸の釣瓶が中に落っこちちゃって。多分ロープが弱ってたんだと思うんだけど……棒を使って引っ張りだそうにも、うちの井戸、深いでしょう?」

 言いにくいような歯切れの悪さのある声で娘さんが言い、セオは宿の裏庭にある井戸のことを思い返して納得した。うっかり落ちると大人でも背が立たないくらいに深く、また物を落とせば年に一度の掃除の時くらいしか拾うチャンスがないあの井戸。下手に重いものを落とせば地下水脈に流されてしまうので、そもそも回収できないが。

「……ああ、だから私に」

「そう。場所が水絡みだし何とかならないかなって」

「あー、コイツ一応精霊使いだもんな」

「一応ってなんですか一応って。……その程度であれば、すぐに出来ますよ。あの井戸に住んでる水精は相性の良い方ですし、私も今日は余力がありますしね」

 まるでモグリか何かであるような言い草をしたウォルフの脇腹を肘で小突いてから、セオは承諾の意思を伝える。小突かれた方は特に効いていないのか、素知らぬ顔で水を飲み始める。

「ホント!? ありがとうっ。最悪、井戸の中に釣瓶残したまま、新しいの使おうかって思ってたんだ。腐っちゃったら困るから、最終手段だったけど」

「ええ、何なら今からでもいいですよ?」

「んー、それは流石に悪いし、ご飯食べちゃってから暇な時でいいよ。体が資本でしょ、二人共」

 少し考えてからセオが伺うように隣を見やると、隣の男の方も同じように行動していたらしく視線がかち合う。その様子がおかしかったのか娘さんが思わずといった調子に笑いを漏らした。

 軽く話しあった結果、娘さんの頼みごとは、食事の後、情報交換前にこなすことになった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ