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柔らかな感触で地に足が着くと、ミュークトは辺りを見渡した。
「寒っ!」
それから急激な気温変化に驚いて声を上げた。
でも、先程まで居たスファンの緑一色とは全く違う風景が広がって、少年の心は躍らされる。
元々白かったであろう建物の壁はほんの少しだけ汚れて灰色になり、それよりもやや暗い灰のレンガの道には、魔力的な色をした水色の線が走っている。
そして道行く人々の目や髪は、殆どが魔力の弱いくすんだ色をしていた。
「こっちは年間通して気温が低いままなんだ。 風邪引くなよ」
「あーい」
身体をさすりながら、気の抜けたような声でミュークトは答えた。
「ヴァシアも気をつけてねー」
そのままの緩い声で彼女に声をかけると、そうでもないような顔をしている。
寒さに強いのだろうか、と思った瞬間、小さくくしゃみの音が聞こえて、クジーアは少し笑ってしまった。
「クジーア君?」
ふと、明るい女性の声が、彼の名前を呼んだのが聞こえた。
それから背の低い草を踏む音がした。
足元を見てみるとそこは手入れのされた芝生の上で、周りには綺麗に咲く花が植えられている。
どうやら誰かの家の庭らしい。
「やっぱりクジーア君だったわ。 お帰りなさい」
「ただいま、リル姉ちゃん」
リルと呼ばれた音の主はクジーアの両手を取り、優しく握った。
「この方々が、水力変換機の様子をみてくださるのね?」
「まあ、そんなところだ」
彼女は、彼の後ろで町並みを田舎者丸出しで見ている少年と、鼻を気にしている魔力主に視線を向けた。
「はじめまして。 私はサウストリル水力管理所のリル=サンスと申します」
「あ、こちらこそはじめまして! ミュークト=イーディアムです!」
丁寧に頭を下げて挨拶をする彼女にやっと気づいて、少年は同じように礼をする。
「ヴァシア=クレンスだ。 よろしく」
彼女は挨拶をすると少しだけだが微笑んで見せた。
ミュークトの家で見ていた限りでは想像できない柔らかな表情に驚く。
「ミュークトさんと、ヴァシアさん、ですね。 よろしくお願いしますね」
改めて軽く礼をした彼女は先程自分の出てきたドアの方へと三人を導いた。
「ここではなんですから、どうぞこちらへ」
まだ辺りを物珍しそうに見ながら言われたとおりについて行くミュークト。
その後に、二人の背中を見ているのか、視線の捕らえられないヴァシアが続いて入っていく。
そして取り残されるようにして、クジーアはそこに立ち尽くしていた。
少し頭を抑えて目を伏した後すぐ、誰にも気づかれないように、その後を何も無かったかのように追って建物の中へと入っていった。
* * *
スファンよりも肌寒い気候に合った甘めのホットミルクを飲みながら、クジーアとリルの他愛の無い話が弾んでいた。
「それで、ミュークトのヤツ、羊に追い掛け回されて!」
「ちょっとやめてよ!」
二人は従姉弟同士らしく、世界中を旅していたクジーアが偶然寄ったサウストリルで再会したのだそうだ。
そこで、旅先で分かりそうな人が居たら話をしてみると言ったクジーアに、水力変換機の事を頼んだのだという。
「リルさんまでそんなに笑わなくたって!」
「ごめんなさい、でも、おかしくって……」
でも彼女の、薄い水色の、まるで清流のような髪を見るとどうもしっくりこない。
従姉弟同士にしてはひとかけらも似ていないのが、ミュークトには何だか不思議な気がしていた。
「ひ、ひどいですよ! っていうか恥ずかしい!」
そんな馬鹿みたいな明るい話をしているにもかかわらず、ヴァシアは前と同じようにカップを両手で包むようにして黙り込んでいた。
ただ、前と違うのは、顔を上げて、話を聞いているらしく、目が対応するように少し動くことだ。
笑うことは無いのだけれども。
「本当にごめんなさい。 水力変換機の話をしましょうか」
必死に笑いをこらえながら彼女は立ち上がって、奥の本棚から割と新しいノートと付箋だらけの古い本を取り出してきた。
それからノートをクジーアに手渡し、丁寧に古い本をテーブルに置きながら座り、付箋の一つを頼りにページを開く。
「最近の様子を書いておいたの。 それと簡単な構成をね」
「ありがとう」
ノートを捲りながら真剣に見つめているクジーアの横から覗いて見るが、ミュークトには何のことだかさっぱり分からないことばかりで頭がいっぱいになってしまった。
「それは専門的なものだから分からなくて大丈夫よ」
フォローするようにそう彼女は声をかけ、古い本をミュークトとヴァシアが見やすいように方向を変えると、説明を始めた。
「この丸いのが、水力変換機の要の盤。盤にはアクアス盤とイーディアム盤があって、サウストリル一体ではイーディアム盤を使っているの」
本に記された二つの円。
家でクジーアが見せたものと同じものと、少しどこかが違うもう一つの円と、それがどこに取り付けてあるかの図や全体像らしき物が確認できる。
他は難しい文体や用語ばかりの解説なのか補足なのかがびっしり書き記されている。
「アクアス盤、と、イーディアム盤って、何が違うんですか?」
「それはね、ちょっと難しいの」
「難しいのか……」
ミュークトは自分から質問をしてみたが、難しいと言われてしまうと少し困る。
「作った人が違うから、ちょっと作りが違う、ってことかな?」
優しく答えを返すリルも、呟くように「ちょっと違うのだけれども」と付けたした。
「でも大丈夫。 私は専門家だから、機械の構造とかは私に任せて」
「もちろんお願いします」
深く礼をするミュークト。
「あれ?」
それから急に頭をあげる。
「でも、機械のことすごく詳しいなら、直せるんじゃないですか?」
素朴な少年の質問に、彼女は少し困ったように、どうしようもないことを思い出すように答える。
「そうね。ただの機械の不具合なら私でも直せるのだけれども、違うみたいなの」
軽いため息がリルの口から落ちると同時に紙を捲る音が途切れる。
「機械には異常がねーんだな、これが」
ノートを閉じながら、心底不思議だ、と言うような表情を浮かべて、クジーアが会話に入ってきた。
それから丁寧にノートをリルへとかえす。
「じゃ、何処が悪いの?」
「そのためのお前じゃないか」
「え?」
何のことかさっぱりわからないミュークトは、からっぽのままの頭で首を傾げてみせた。
そんな少年に彼は少しだけ強く迫ってみせた。
「アクアスの力が必要だと、俺は思ったんだよ」
水というもの全てと不思議な関係で結ばれているその種族の本能にかけるべきだという結論をかえすと、少年は少し表情を翳らせる。
「イーディアムは純正な水の種族じゃないよ」
「でも盤がイーディアムだからいいんだ」
クジーアがそう言うと、納得したようにミュークトの表情が元に戻る。
「そっか」
「ってか、今更イーディアムだーアクアスだー何て言うもんじゃねーって。 そんなの何千年前だっていうんだよ」
「そうだよね」
少し先程より元気になったような、そんな風に見える少年は、背筋を伸ばすように座りなおし、改まったようにして聞いてみる。
「それで、俺は何をすればよろしいのでしょうか?」
気合の入りすぎた表情に少しだけ笑わされながら、彼女は簡単に答えてみせた。
「行けば分かると思うわ」
あまりに簡単に、抽象的に、投げ出したかのようにもとれる回答に、ミュークトはまた頭を空っぽにしてしまう。
「え?」
「ミュークトさんなら何か感じると思うんです」
「感じる?」
「ええ」
少し視線を逸らした彼女の琥珀色の瞳の奥が青くちらついた気がして、少年は言葉にできないものを感じ取った。
それから薄水色の髪に目をやると、先程の、不思議に思って心の中を漂っていた疑問が、急に落ち着いたのが分かった。
「分かりました。 頑張ってやってみます」
「ありがとう」
リルが優しく微笑みをかえすと、一気に残りのホットミルクを飲み干して、クジーアが声をかける。
「それじゃ、行こうか」
「うん」
同じようにリルも席を立ち、既に中身が無くなって冷めたミュークトのカップとまだ暖かいクジーアのカップを回収して、ヴァシアのカップに手を伸ばした。
まだ中身が入っている、というよりも、全く飲まれていないようで、膜が浮いている。
「さげてもいいですか?」
リルが声をかけると、ヴァシアは小さく頷いて、カップを包んでいた手を離した。
「私、今から少し出かけなくてはいけないから一緒に行けないのだけど、大丈夫?」
「ああ」
「よかった。 じゃあ、お願いね」
四人分のカップを抱えながら奥へ入っていくリルに、クジーアは準備をしながら答えた。
その横でミュークトは立ち上がってからゆっくりと伸びをして、大きく深呼吸をしている。
「冷たい空気はしゃきっとするね!」
「寒いのはあんまり得意じゃないんだけどな」
少年を横目に、寒そうにマントの襟に顔をうずめて彼は呟く。
少し前まで一番寒がっていて、何だか風邪もひきそうな感じがしていた人が、今は一番元気なようにみえる。
「ねえ」
「どうした? リル姉ちゃん」
「ヴァシアさん、行っちゃったわよ」
「え!」
いつの間にかドアを開けて行ってしまった彼女。
どうして全く気づかなかったのか、どうして声をかけずに出て行ってしまったのか。
ヴァシアのことだから、と思えば、それほど不思議に感じないのが不思議なことだ。
「早く追いかけないと!」
とはいえここは見知らぬ地。
急いで後を追おうとミュークトは飛び出して行ってしまった。
「追うっていっても、二人とも道分かんねえだろ……」
重くない大きなため息をついて、クジーアも後を追おうとドアに手をかけると、奥から彼女の足音が聞こえてきた。
「じゃあ、行ってきます」
「クジーア君」
出かける前の挨拶をして外に出ようとすると、彼女の声が少し冷たく聞こえた。
「魔力主なら……」
振り返ることはできなかった。
今の彼女は、あの、自分と同じ琥珀色の目をしていないと思ったから。
「……何考えてんだよ」
少しだけ体が震える。
それは寒さからだけではないと分かっている。
でも、分かられたくはない。
「あれだけの力があれば、変換機の調子をみなくても、今すぐ」
「やめてくれ!」
クジーアは声を荒げた。
何かに急かされているような詰った声が、次々と言葉を吐き出すのを、これ以上は聞けなかった。
「……それは違う、と思う」
呟くように加えた一言が、何も音のない部屋の中で、音もなく消えていく。
しばらくの沈黙の後、彼女が切り返すかのように口を開く。
「そうね、ごめんなさい。 私、どうかしてたわ」
急に取り繕うように早口になって喋る彼女は、慌てて出かける準備を始めたようだ。
ノートと本とを手に取ったような音が聞こえ、そこで音がいったん止まる。
「行ってらっしゃい」
いつもの優しい声に戻った彼女の澄んだ言葉が静かに耳に届くと、彼は手をかけたままだったドアを開けて、外へと踏み出した。
声は出せなかった。
冷たい風が一瞬部屋の中へと漏れこむ。