第1話 最強魔王、赤ん坊になる
――死ぬ。
そう思った。
いや。
もう死んでいる。
「ぐ……っ」
魔王グランディオス。
かつて世界の半分を支配し、数え切れないほどの勇者を葬ってきた俺は、今まさにその胸を聖剣に貫かれていた。
「魔王……これで終わりだ」
目の前には勇者。
五十年もの旅を続け、ついに俺の前までたどり着いた男だ。
「ふ……」
俺は笑った。
「勇者よ……俺は必ず蘇る……」
「え?」
「そして次こそ……世界を――」
――暗転。
* * *
「おぎゃあああああああああああああ!」
うるさい。
誰だ。
俺の眠りを邪魔する奴は。
「おぎゃあああああ!」
だからうるさい!
「おぎゃああああ!」
…………。
待て。
この声。
俺ではないか?
「…………」
目を開ける。
白い天井。
見知らぬ部屋。
そして。
「おお! 目ぇ開いた!」
妙な男が俺を覗き込んでいた。
「十毅ー! パパですよー!」
……誰だ。
俺は魔王だぞ。
貴様のような人間に「パパですよー」などと言われる筋合いは――。
俺は自分の手を見る。
「…………」
小さい。
ものすごく小さい。
指も短い。
拳を握ろうとする。
「ふんっ!」
……握れない。
「ぬっ!」
……握れない。
「ぬおおおお!」
手がぷるぷるするだけだった。
俺は悟った。
転生した。
しかも。
赤ん坊に。
「…………」
まあいい。
身体が幼いだけだ。
魂は俺。
魔力も残っている。
ならば問題ない。
まず魔力を確認する。
目を閉じる。
精神を集中。
魂の奥底に意識を沈め――。
「……」
腹が鳴った。
ぐぅぅぅ。
「…………」
集中。
ぐぅぅぅぅ。
集中。
ぐぅぅぅぅぅ。
「…………」
俺は目を開けた。
今はやめよう。
魔王も空腹には勝てない。
「お腹空いたのか?」
男が俺を見る。
「…………」
違う。
俺は腹が減ったのではない。
これは魔王としての威厳ある――。
「おぎゃあああああああ!」
「やっぱりお腹空いたんだな!」
違う!
俺は怒鳴ったのだ!
だが。
口から出たのは「おぎゃあ」だった。
「…………」
最悪だ。
* * *
数分後。
俺は哺乳瓶を咥えていた。
「…………」
屈辱だ。
俺は魔王。
魔族の王。
かつて玉座に座り、部下たちに頭を下げさせた存在。
それが今。
「ごくごくごくごく」
ミルクを飲んでいる。
「すごい勢いだなぁ」
父親らしき男が笑っている。
「ごくごくごく!」
……うまい。
いや。
違う。
これは食事だ。
必要な栄養を摂取しているだけ。
決してミルクが美味しいから夢中になっているわけでは――。
「ぷはっ」
満腹。
眠い。
「…………」
いや。
寝ている場合ではない。
俺には世界征服という使命が――。
「すやぁ……」
……。
* * *
目が覚めた。
よし。
今度こそ修行だ。
まず魔力操作。
俺は目を閉じる。
集中する。
魔力を指先へ。
ほんの少しでいい。
魔力を――。
「…………」
右手を見る。
何も起きない。
もう一度。
「…………!」
――ポッ。
小さな光が浮かんだ。
成功だ。
俺は心の中で笑った。
さすが俺。
最強魔王。
この程度なら――。
「お?」
父親の声。
「なんだ、これ?」
「…………」
まずい。
見られた。
俺は慌てて魔力を消そうとする。
しかし。
消えない。
「…………」
ポッ。
光が浮いている。
「…………」
ポッ。
ポッ。
ポッ。
増えた。
「…………」
違う。
これは失敗ではない。
魔力が暴走しているだけだ。
俺は必死に制御する。
消えろ。
消えろ。
消えろ!
――ポン!
小さな光が弾けた。
「うわっ!」
九郎が驚く。
俺はベッドの中で固まった。
「…………」
「…………」
「…………」
九郎が俺を見る。
俺も九郎を見る。
「……今、光ったよな?」
「…………」
俺は全力で赤ちゃんの顔を作った。
きょとん。
無垢。
何も知りません。
俺はただの赤ちゃんです。
「…………」
九郎が首を傾げる。
「……気のせいか」
助かった。
俺は小さく息を吐いた。
――その瞬間。
しゃっくりが出た。
「ひっ」
「…………」
もう一回。
「ひっ」
「…………」
さらに。
「ひっ」
九郎が笑い始めた。
「ははは! 十毅、しゃっくりしてる!」
「…………」
俺は屈辱に震えた。
世界を滅ぼした魔王が。
しゃっくり。
……こんなもの。
魔王の威厳が。
ひっ。
……。
ひっ。
……。
消えていく。
* * *
その後。
俺は歩行訓練を始めた。
まず立つ。
これは簡単だ。
――と思った。
「ぬおおおおお!」
ぷるぷるぷるぷる。
足が震える。
「頑張れ、十毅!」
九郎が応援する。
うるさい。
俺は今、魔王復活の儀式をしている。
あと少し。
あと少しで――。
ぐらっ。
「!」
バタン!
「ふぇえええええええええええ!」
「大丈夫か、十毅!」
違う!
泣いているのではない!
悔しいのだ!
俺は魔王だぞ!
もう一度だ。
立つ。
立ってやる。
俺はベッドの柵を掴んだ。
よし。
今度こそ。
「ぬぬぬぬぬ……!」
立った。
立ったぞ!
俺は二本の足で――。
ぐらっ。
「……!」
バランスを崩す。
倒れる!
何か掴め!
俺は手を伸ばした。
そして。
九郎の鼻を掴んだ。
「いてっ!」
九郎が顔をしかめる。
「十毅、お父さんの鼻はおもちゃじゃないぞ」
「…………」
……。
すまん。
* * *
翌日。
俺は新たな作戦を開始した。
――ハイハイ。
歩けないなら、移動速度を上げる。
四つん這いならいける。
魔王軍を率いていた頃の俺なら、こんな移動法は絶対に選ばない。
だが今は赤ん坊。
使えるものは何でも使う。
俺は床を見る。
目標。
部屋の端。
そこに何かがある。
スマートフォン。
九郎のものだ。
これを使えば、この世界の情報を――。
「…………」
俺は這う。
右手。
左足。
左手。
右足。
進む。
進む。
あと少し。
もう少し。
スマートフォンまで――。
そのとき。
「十毅?」
「…………」
振り返る。
九郎が立っている。
「どこ行くんだ?」
「…………」
俺は固まった。
「こっちか?」
九郎が近づいてくる。
まずい。
スマートフォンを見られる。
俺は慌てて逃げようとする。
しかし。
ズルッ。
「…………」
靴下が脱げた。
「…………」
ズルッ。
もう片方も脱げた。
「…………」
俺は床に腹ばいになった。
「…………」
九郎が笑う。
「ははは、靴下脱げちゃったな」
「…………」
違う。
作戦失敗だ。
俺は魔王だ。
赤ん坊ではない。
決して。
赤ん坊では――。
「おぎゃああああああ!」
……。
俺は泣いた。
悔しかった。
* * *
そして、その日の夜。
俺はベッドの中で一人、決意していた。
失敗した。
魔力操作。
失敗。
立つ。
失敗。
歩く。
失敗。
情報収集。
失敗。
そして。
泣いた。
「…………」
だが。
俺は魔王だ。
失敗など恐れるものではない。
何度でも挑戦すればいい。
俺は必ず強くなる。
そして。
いつか。
この世界を――。
「おぎゃあああああああああああ!」
「うわっ、十毅!?」
「どうしたの!?」
「お腹か? おむつか?」
「おぎゃああああ!」
「ミルク?」
「おぎゃああああ!」
「眠いのか?」
「おぎゃああああ!」
「……全部か?」
「おぎゃああああ!」
九郎が慌てている。
俺は泣きながら思った。
――まずは。
この赤ん坊生活を攻略する。
世界征服は、そのあとだ。
そして。
このときの俺は知らなかった。
俺の転生先。
日本。
魔法の存在しない平和な国。
そして俺の父親――犬崎九郎。
この男が、やがて俺の最大の宿敵になることを。
いや。
違う。
宿敵なんて生ぬるい。
俺の世界征服計画を。
俺の魔王としての誇りを。
そして――俺自身の生き方まで。
根こそぎ変えてしまう男になることを。
その男との戦いは。
俺が赤ん坊として生まれた、この日から始まっていた。




