海老バーガー
よくわからない店だった。
そして、よくわからない店主。
飲食店を名乗ってはいるが、店内にあるのはネズミとゴミ袋と虫だけだ。
客席らしきテーブルには埃が積もり、床には薄い油膜が光を鈍く反射している。
厨房の奥では、ネズミより大きな“何か”が、金属製の収納棚をかすかに揺らした。
だが、本当に異様なのはその奥だ。
重い扉の向こうに覗いたラボは、暗すぎる照明と、無駄のない配置に満ちていた。
飲食店の裏とは思えないほど不潔で、静かで、そして――触れてはいけない領域の匂いがした。
何の研究をしているのか。
答えを聞くまでもない。察しはつく。
二十一世紀初頭にiPS細胞が発見されてから、ずいぶん時間が経った。
再生医療は夢物語じゃなくなり、最近では四肢の培養も、かなり現実的な段階に来ているらしい。
“らしい”で済ませている時点で、あたしはもうその世界の外側の人間だ。
けれど、現場で重視されるのは総合力だ。
生体としての完成度、耐久性、制御の確実性。
そうなると選ばれるのは、サイボーグ化。
ロボットアーム、義肢、人工神経。
理由は単純で、残酷だった。
培養した四肢を接合する際、神経伝達に不具合が出れば活着はうまくいかない。
拒絶反応、感覚の断絶。
結果は「作り直し」。
言葉は軽いが、失われるのは時間だけじゃない。
神経なんて情報の塊だ。
記憶、反射、癖、痛みの残響。
それらを一度切り離し、もう一度正しく繋げ直す――
そんなの、ほとんど神の領域だ。
そして神ってのは、責任を取らない。
人が手を出していいものじゃない。
思えないけど……もう、とっくに手は出されている。
だから“亡霊”なんてものが、この世界をうろつく羽目になる。
「間違いなく、今までで一番厄介な案件よね……はぁ、お腹すいた」
考えすぎると腹が減る。
これは長年の経験で学んだ真理だ。
高尚な思索のあとに思い浮かぶのがファストフード。
この落差が、あたしを現実に引き戻す。
厄介ごとをバッグに詰め込んだまま、バイクにまたがる。
エンジンをかけると、頭を占領していた神の領域や亡霊の話は、振動と一緒に一旦押し流された。
向かうのは馴染みのファストフード店。
変わらない味、変わらない油の匂い。
ただひとつ違うのは、バッグの底に壊れない“海老の握り寿司”が入っていること。
それだけが、今日がいつも通りじゃない証拠だった。
店の外観は昔とほとんど変わらない。
派手な看板、無機質な光。
だが“入り方”だけは、ずいぶん様変わりしている。
便利になるほど、人は疑われる生き物になる。
一番目の入り口を通ると、少し奥にある二番目のドアには、大きな「X」印。
昔なら「故障中」で済んだ話だ。
今では、安全が証明されていない者を通すな、という意思表示。
本当は拒絶じゃない。
ただの検査待ち。
でも空腹時には、それがやけに腹立たしい。
足元から微かな振動。
天井と壁のノズルが反応し、次の瞬間クリーンシャワーの洗礼。
無臭の霧と光の筋が、皮膚、衣服、持ち物、骨格、体温を遠慮なくなぞっていく。
悪いことしてなくても、スキャンされる瞬間ってのはどうしてこう後ろめたい。
拒絶される可能性が、頭の隅に残るからだろう。
〈横を向いてください〉
表示に従い身体を向ける。
光が背中から首筋、脚のラインを丁寧に追う。
数秒後、電子音。
「X」は「O」に変わり、十二言語の「いらっしゃいませ」が浮かび上がった。
油とパンと肉の匂いが、一気に鼻腔を満たす。
ようやく“ただの客”として中に入れた。
店内でマスクを外し、深く息を吸う。
ちゃんとした空気だ。
あの店は飲食店の殻を被ったラボだった。
ここは違う。健全そのもの。
カウンターの向こうに立つ店主は、三十代半ばくらい。
眠たそうな目、無駄のない動き。
左手はサイボーグ化しているが、理由は聞かない。
この世界じゃ、知りすぎない方がいい。
今はただ腹を満たすだけでいい。
それ以上のことは、“海老”が教えてくれる。
「さて……ここから先は、ハンバーガーの話だけで済むのかしらね」
その瞬間、店主の表情が固まった。
眠気が消え、緊張が浮かぶ。
顔を知られている。それだけで、厄介事になる。
「勘違いしないでね。あたしは、この店自慢の海老バーガーを食べに来ただけなのよ」
「海老ィィィ!」
店内の空気が、ほんの少しだけ重くなる。
海老バーガー一個分――重く。
さて。
これは、ハンバーガー一個で済む話か。
それとも、今日は長居することになるのか。
あたしは、まだ知らない。




