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えび

今回の依頼人は、とある小汚い飲食店の店主だった。

――飲食店、と呼ぶには少し無理がある。


そこにあるのは、ネズミと、積み上げられたゴミ袋と、無数の虫だけ。

客席らしきテーブルには埃が厚く積もり、床には薄い油膜が広がっている。

厨房の奥では、ネズミよりも大きな“何か”が、金属製の収納棚をコトリと揺らした。


店主はというと、そのさらに奥、重厚な扉の向こうに奇妙なラボを構えていた。

その動作だけは妙に洗練されていて、この場には場違いなほど丁寧だった。


用意された席に腰を下ろしながら、あたしはひとつだけ確信する。


――この人、ただの店主じゃない。


店の外観や内情のこの“雑さ”は、まるで意図的に作られたカモフラージュだ。

ネズミも、虫も、ゴミも、すべて「そう見せるため」に配置されているようにしか見えない。


気づいたときには、背筋がひやりとした。

ここに足を踏み入れた瞬間から、あたしは誰かに観察されている。

それも、生きた人間とは限らない“何か”に。


「亡霊、ね」


思わず口に出る。


「はっきりしない存在を表すにしては、厄介な響き。

……いや、便利というべきかしら」


腕を組み、店主の身体つき――特に骨格に視線を固定する。

骨の一本一本に、妙な“軋み”のような気配が張りついて見えた。

人間のそれじゃない。

でも、人間に見えるように“作られた”骨格だ。


空気は湿っていて、床の油膜が薄く光っている。

天井の換気扇は回っているはずなのに、風は一切動かない。

時間だけが息を潜め、あたしと店主のあいだで、濃く沈殿していく。


「ふーん……さてと。面白くなってきたじゃない。

亡霊なら、どこに行ったって不思議じゃないでしょうに」


実体か、影か、記憶か。

あるいは、この世界のどこにも属していない“何か”か。

逃げたと言われても、それが場所を持つ存在とは限らない。

霧散して、誰かの呼吸に紛れ込むことだってあり得る。


――昔、似た案件があった。

あのときも、依頼主はみんな死んだ。

そういう種類の気配だ。


だから、あたしは口の端をゆっくり上げる。


「追えるかどうかじゃないのよ。

“どんな逃げ方をしたか”の方が重要なの」


足跡を追え、とでも言うのかしら。

でもね、亡霊の足跡なんて、最初から地面についていない。

足が無いらしいから。

この世界って、こういうところだけ妙に律儀だ。


店主は反応を返さなかった。

――返せなかった、の方が正しい。


本当なら笑うところだ。

でも、この店の空気がそれを許さない。

まるで見えない何かが、店主の喉を指先でつまんでいるみたいだった。


「じゃあ、どうやって逃げたっていうのよ?」


歩けないなら、別の手段がある。

浮く、滲む、すり抜ける、乗り移る。

生者の“隙間”に潜ることだってできる。


逃げ道が多ければ、追跡の道も多い。

結局のところ、あたしの仕事はいつもそうだ。


店主の顔を盗み見る。

ゴーグルの奥は沈黙を保っている。

けれど、ほんの一瞬――一呼吸ぶんだけ、揺れた気がした。


……確信する。

どんな形であれ、本当に“亡霊”なのだと。


これは、ただの人探しじゃない。


「何も姿形が見えるだけで存在しない亡霊とは違いますよ」


店主が、静かに言った。


「主の意識、と申しますか。

何かに宿したもの、と申しますか」


「それが宿った誰か? 何か?

よくわからないけど、それを探せばいいわけね」


見つかったら、どうする?

連絡すればいいのか。


「意識がある状態で連れてきていただきたい。

あるいは、ここに来たときに意識を取り戻せれば、

その過程は問いません」


「連れてくる必要があるわけね。

……それはまた、難儀なことだわ」


「難儀であるからこそ、貴方に頼むのですよ。

私どもの眷属は、あまり日の光を好みません」


なるほど。

この店の暗さは“好み”じゃなく、“生存条件”なのかもしれない。


意識が宿った誰か。

つまり亡霊の主は、今は別の肉体を使っている?


寄生か、同居か、乗っ取りか。

思った以上に厄介だ。


……でも、嫌いじゃない。


意識の転移、人格の残滓、記憶の亡命。

科学でも、オカルトでも、説明できるし、できない。

こういう曖昧な事件ほど、世界の裏側の手触りが濃い。


その誰かは、今もこの街を歩いている。

気づかれず、誰かの中で息をしている。


「……あたしを同族の日陰者扱いしてるみたいで、

ちょっと気に入らないけどね」


まぁ、いい。

どう料理するかは、見つけてから決めればいい。


「で、その亡霊に関する資料は?」


店主はカウンターの下に手を滑り込ませた。

無駄のない、妙に静かな動き。

何か生き物を撫でているみたいな手つきで、

そっと取り出されたのは――


海老の握り寿司の形をした記録デバイスだった。


照明を受けて、ほんのり艶めく。

まるで、握りたての本物みたいに。


「……これ、デバイス?

食品ディスプレイに似せたやつね。懐かしい形だわ」


「こういうものが好みですので」


「亡霊の?」


「あのお方のです」


指に伝わる感触は、電子機器とは思えない。

生ものみたいな“これじゃない感触”。


嫌悪じゃない。

ただ、確実に気味が悪い。


――触れてしまった以上、もう引き返せない。


「ま、いいわ。人探しは専門だしね」


バッグの中で、“海老”は静かに重みを主張している。


この店を出れば、きっとどこからか、

“亡霊”の匂いが漂ってくる。


それは――悪くない。


あたしは背を向け、

その確信だけをバッグに突っ込んで、

店を後にした。

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