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ゴーグル

 店主は、あたしの前にある椅子を指し示した。


「こちらの席へどうぞ。この部屋はどうしても温度を低く保つ必要がございまして。おみ足が冷えますのでね……こちらのお席のほうが、機器の排熱のおかげで落ち着きます」


 そう言いながら、店主はテーブルに敷かれた古い布を指先で整える。その動きに合わせて、昔ここで振る舞われたであろう食事の、香辛料の残り香がふわりと漂った。時間の底に沈んだ匂いだ。


「チャイはいかがですか。今日はカルダモンを少し強めにしておりまして……冷えた体も温まりますよ」


 あたしの返事を聞く前に、店主はさっさとカップをテーブルの上に置いてしまう。


「出された物をあたしが飲むわけないって、さっき念押ししたでしょ。忘れてないわよね?」


「念のため、でございますよ。今までにご来店いただいたお客様すべての好みは心得ておりますが……なに分、『人は気まぐれである』と、古い教えに記憶されてございましてね」


「あんたの店は、その“古い教え”が多すぎるんじゃないの? だいたい、あたしが気まぐれでチャイを飲む女に見える?」


 店主が、目を細めて微笑んだように感じた。

 まるで「その通りでございます」と静かに肯定するような、嫌な微笑みだ。


「はいはい、わかりましたよ。お心遣い、痛み入りますわ」


 あたしは「しっし」と手のひらで払うような仕草をして、話の続きを促した。


「さて……それでは、何からお伝えすればよろしいものやら」


 店主はそう言いながら、テーブルの向かいに腰を下ろした。頑丈そうな金属製の椅子が、プレス機にかけられたように軋む音を立てる。


「まぁ、あたしは気が長いからね。じっくりとこの話、してくれていいけど? どうする?」


 口角をわずかに上げ、片眉だけを器用に持ち上げる。指先でテーブルを軽く叩き、答えを催促してみる。


 店主は胸の前でそっと手を組み、斜め上の、はるか遠くを見る仕草をした。


「では……この星が誕生するところから、いままでの経緯を順序立てて……」


 あたしはテーブルに拳のハンマーを振り下ろした。


「ドン」


 鈍い音とともに、怒りをぶつける。


「どれだけ気が長くても、『地球創生』まで付き合う気はないわよ。あんまり遠回りし過ぎると、そのチャイ、全部ひっくり返すわよ。早くして!」


 眉間にしわを寄せ、まるでピアノでも弾くように、滑らかに五本の指でテーブルを叩く。

 タタタッ……と軽い音がリズムよく響く。視線だけは、鋭く店主へ向けたままだ。


「人は気まぐれである」


 先人の教えが当たったと確信したのか、店主は悟ったようにうなずき、軽い溜息をひとつ漏らす。


「そうみたいね。その“古い教え”、当たってたんじゃない? よかったわね」


 あたしは肩をすくめ、両手で「やれやれ」という仕草をしてみせた。


「左様でございますね。では簡単に、単刀直入に申し上げます」


 店主は姿勢を正し、両手をテーブルに載せる。少し、重たい音が響いた。顔は見えないが、こちらを正面から捉えている気がした。


「説明、よろしく」


 軽く顎を引き、顎先で続けろと示す。


 部屋中の機器が騒がしく稼働し始め、さまざまな色の光が忙しそうに点滅する。その光のせいか、ゴーグルの奥が紫色に妖しく光った気がした。


 あたしは光を直視しないように目を細めた。


 店主はその光を一瞥し、軽くうなずいてから、少し身を乗り出す。声を発する直前、一瞬だけ迷うように計器のライトが点滅した。


「ある人物を、探し出していただきたいのです」


 相変わらず視線はあたしを凝視したままのように感じる。だが、口調がわずかに穏やかに変わった。周波数の変調フィルタをかけているのに、はっきりわかるほどだ。


 その“揺れ”を感じ取った瞬間、あたしは片眉をわずかに上げ、店主の変化を探った。


「ふーん、そうなの?」


 腕を組み、椅子の背にもたれながら、あきれたように言ってみる。


「人探し? あんた達の組織力なら、寝ぼけて外に出ちゃった子猫でさえ、翌朝には見つけられる連中でしょうに。そのあんたらが、なぜわざわざあたしなんかに?」


 口元には、皮肉の笑みが名残惜しそうに残っている。


「気まぐれではございませんよ。ちゃんと理由がございます。ですが、申し上げられません」


 店主は目線をわずかに落とし、組んだ手にぎゅっと力を込める。自信をもった声とのギャップに、妙な違和感を覚えた。


「あたしには言えないの? へぇー、そのくらいで、このあたしが案件を受けると思ってるの?」


 椅子から前のめりになり、顎を少し突き出して覗き込む。冗談めかした口調だが、目は笑っていない。


「必ず、受けていただけると信じていますよ」


 納得したように、店主はうなずく。


「どうしようかなー」


 背もたれに体重を預け直し、指先でテーブルを軽く叩く。乱れたリズムが、居心地悪そうに響いた。


「逃げ出してしまったのですよ、ここから」


 視線はあたしを見ながらも、その奥にある何かにすがっているようだった。


「何が? ネズミ? たくさん飼ってるみたいね。あとは、よくわからない羽虫?」


 鼻で短く笑い、片手をひらりと振ってふざけてみせる。


 店主は一度、手に力を込めてから、静かに言い放った。


「亡霊です」


 あたしは「亡霊?」と、何度か口を開閉させた。言葉を結ぶ前に、息がひとつ詰まる。


「亡霊って何? あたしへの当てつけ? もしそうなら、ただじゃ置かないわよ」


 眉を吊り上げ、身を前に乗り出す。指先でテーブルをつまむようにして体重を支え、いつでも飛び出せる体勢を取る。


「あの方の亡霊なのですよ」


 店主は顔を伏せ、胸が小さく上下する。言いたくなかった言葉を押し出すような、重い呼吸。


「あんたに、そのゴーグルくれた人の?」


 目を細め、ゴーグルを指さす。確認というより、話の流れを切らさないための仕草だった。


「そうです。その亡霊を捕まえていただきたいのです」


 的を射ない話だが、必死に伝えようとしているのはわかる。あたしは店主の手元に目を落とし、静かに息を吐いた。


 感情をまったく表に出さなかった店主が、ここまで必死になる理由。

 それが、何なのか。


 肩は、わずかだが緊張で上がったままに見える。冗談ではなさそうだ。


 正直、ただのつまらない案件だと思っていた。

 だが――これは、当たりかもしれない。


 きっと今、あたしの口元には、狩人のような薄い笑みが浮かんでいるだろう。

 こういう時は、いつもそうだ。


 報酬の話じゃない。

 無いよりはましだが、そんなものに興味はない。


 逃げた亡霊。

 古いゴーグルの持ち主。

 感情の見えない眷属たち。


 一体、何がどうなっている?


 経験からわかっている。

 こういうややこしい話の結末は、たいてい誰も幸せにならない。


 あたしは視線をそらし、長年封じてきた記憶に触れるように、まぶたを閉じた。


 聞こえる。

 あたしの中のあたしが、囁いている。


「この案件は、絶対に面白くなる」


 瞳の奥に、好奇心の灯りがともる。

 それは、危険と知りつつも飛び込む覚悟ができたときだけ、現れる光だった。


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