眷属
重い扉を押し開いた瞬間、世界の温度が切り替わった。
湿度のない、乾いた冷気。
金属が焼けたあとのような匂いが、肺の奥に直接触れてくる。
壁一面に吊り下げられているのは、バイオロイドの部品だった。
腕。肺。光ファイバーで編まれた神経束。
どれも整然と並び、無機質な光を反射している。
まるで――手術を待つ亡霊の、部品庫。
中央の作業台では、赤色のホログラムが脈を打つように揺れ、
脇の培養槽では、人工皮膚らしきものが、ぶよりと重力に逆らうことなく揺れていた。
その異様な空間の中央に、店主は立っていた。
異様に背が高い。
肩を覆う特殊外套は耐薬品性のコートのようだが、布というよりは“皮膜”に近い。
顔を覆うのは、旧世代軍用の大型ガスマスク。
だが、何より目を引いたのはゴーグルだった。
金属のリベットで補強された、古いフライトゴーグル。
琥珀色を帯びたレンズには、細かな擦り傷が幾重にも交差している。
ベルトの革は乾き切り、ひび割れすら見えるのに、
丁寧に手入れされているのが分かる柔らかな艶を残していた。
時代遅れのガラクタにしか見えないはずなのに。
この、金属と人工皮膚の冷たい匂いに満ちたラボの中で、
その古びたパーツだけが、異様な“温度”を持っている。
まるで、ここに残された唯一の“過去”の痕跡のように。
「あんたのゴーグル、趣味がいいわね」
探偵はそう言って、軽く視線を上げた。
「第一次大戦中の物と同じ型。最近のレプリカじゃない。……それ、本物でしょ?」
店主はゆっくりと顔をこちらへ向ける。
琥珀色のレンズが光を拾い、内部の様子は一切読み取れない。
「ご明察。流石は、物知りでございますね」
「持ってる人、もう少ないはずよ。
ガラクタ市で運良く拾えた、ってわけじゃないでしょう?」
「運という概念を、私はあまり信用しておりませんので。
これは……ある方からの“譲渡品”でございます」
「譲渡ね。その“ある方”、まだ生きてるの?」
店主は、一瞬だけ呼吸の間隔を変えた。
答えを選別するための処理が、内部で走ったような、妙な間。
「どうでしょうね。
生死という分類で語れる方々ではないもので」
「ふーん……。
じゃあそのゴーグル、ただの骨董品じゃないわね。仕掛けでも?」
「ご期待に沿えるほど派手なものではございませんよ。
ただ……“記録”を残すには十分でして」
「記録? 映像でも撮れるってわけ?」
「映像とは限りません。
視界に入ったものの“形状パターン”を、一時的に保持する程度の……
ごく簡単な機能でございます」
「十分すぎるわよ、それ。
あたしの顔、もう保存されてる?」
「もちろん。
この先、何度でもお目にかかれます。見間違う事はございません」
「なにそれ。皮肉?」
「いえいえ。心から出てきた、真実でございます」
探偵は小さくため息をついた。
ゴーグルの奥からは、何ひとつ読み取れない。
張り付いたような“丁寧さ”だけが、ずっと続いている。
「しかしあんた、背が高い割に威圧感がないわね」
「あなたを前にして、威圧感などとてもとても。恐れ多い」
探偵は部屋の奥へ視線を流した。
光に紛れ、三つほどのレーザーポインタの赤点が揺れる。
警告か。
それとも、わざと見せているのか。
「あれもこれも、なんか気力も殺気もない。
……まあ、いいわ」
肩をすくめ、ジャケットの裾を整える。
「で? 何をあたしに依頼したいわけ?
『ライバル組織への破壊工作』なんて、請け負ってないわよ」
「そのような事は考えておりません。
第一、あなたの力を借りずとも、もうそれは叶っておりますので」
作業台のホログラムを指先で払いながら、淡々と言う。
「これ以上、組織を拡大する気もない?」
「私は、この程度で十分でございますよ」
淡泊すぎる返答。
野心の温度すら感じない。
「不思議ね。あんたも、今あたしに照準を合わせてる奥の連中も」
「不思議、とは?」
「殺気を感じない。恐れも、怒りも、焦りも。
心の揺らぎが、一滴もない」
「左様でございますか」
「よく訓練されてる? それとも、他に理由がある?」
店主は、わずかに首を傾げた。
その仕草すら、妙に“精度が良すぎる”。
「訳有りでございますか。言いえて妙でございますね」
「そう? ありがと」
店主はポケットからコインを取り出し、手のひらに載せて差し出した。
「では、試しにこのコインを、私に向けて投げてみてくださいな」
「へぇ。ぶつけてもいいの?」
「痛いのは勘弁してください。軽く、で」
「わかったわ。軽くね」
もちろん、軽くなんか投げない。
探偵は指の角度をほんのわずかに変え、
銃弾のような速度でコインを弾き出した――つもりだった。
だが、コインは店主のガスマスクの前、
わずか一センチ手前で、何か見えない力に弾かれるように跳ね返った。
音は、ない。
ただ“結果”だけが、そこにあった。
「へー。これも殺気がない。
あんたからも、奥のスナイパーさんからも」
「そうでしょうね。
そういうものは、感じないかもしれません」
「どうして?」
「なぜなら、持ち合わせておりませんもので」
空気が、一瞬だけ凪いだ。
心臓の音すら吸い込まれるような静寂。
「何をやったの? 普通の訓練じゃ、ここまでできない」
「訓練は……していないかもしれませんね。
むしろ、訓練など邪魔でして」
そう言いながら、店主は自分の胸元を軽く叩いた。
空洞を叩いたような、軽い金属音。
「それにあんたも、全然動じない。
よっぽど仲間を信用してるのね?」
「信用しておりますとも。
手前どもの眷属と言ってもよい関係ゆえに」
眷属。
血ではない、別の“リンク”。
「ふーん。吸血鬼? 悪魔? それとも両方?」
「その類ではございません。
『麗しき美女の血』は必要ありませんので」
「あら、残念」
「それに、美女の定義が分かりかねます」
ゴーグルに、ラボの冷光が反射する。
そこに感情の影は、ひとつも宿っていなかった。
あたしは、本来そこにあるはずの“空気の流れ”を、
まったく感じ取れないまま――
この化け物どもと、向き合うしかなかった。




