「デートのお誘い」
厨房を抜け、さらに奥へと案内されたあたしは、足音が妙に吸い込まれる通路の先で立ち止まった。
背後では、油と古い金属が混じった匂いが、まだ微かに追いすがってくる。
換気扇の低い唸りも、ここまでは届かない。
目の前にあるのは、今までのチープな扉とは明らかに異なる一枚だった。
装飾は一切ない。
無骨で、厚く、ただ「閉じる」ことだけを目的に作られた構造。
まるで、この先にあるものを外界から切り離すための境界線みたいだ。
覗き窓はない。
あるのは、横にスライドする最低限の小窓だけ。
中を“確認する”ためではなく、
中に“確認される”ためのものだと直感で分かる。
独房。
そんな言葉が、自然と頭に浮かんだ。
「あたしを独房にでも閉じ込めるつもり?」
軽口のつもりで言ったが、声は思ったより硬かった。
「もしかして、外には茨でも生えてるのかしら?」
店主は、ほんの一瞬だけ視線を伏せた。
その間が、すべてを物語っている。
「そんなことはございません」
静かで、やけに丁寧な口調。
「貴女を拘束したら、どうなるかくらい……我々は、身をもって勉強させていただいております」
脅しでも誇張でもない。
淡々とした事実の確認。
それが逆に、背中を冷やした。
特殊な仕事に就いていた人間は、秘匿性を守るため、
国家レベルの“保護プログラム”の対象になる。
拘束しようとした瞬間、
どこからともなく監視の目が集まり、
国だの国際社会だの、面倒な存在が一斉に首を突っ込んでくる。
敵対国家にとって、特殊部隊の情報は垂涎ものだろう。
だが、簡単に口を割るほど、あたしは安くない。
あれは単なる組織じゃない。
命を預け合った、ファミリーだった。
「危険だって分かってるのに、ここまで案内するってことは……」
扉から目を離さずに言う。
「相当、切羽詰まってるみたいね?」
店主の肩が、ほんのわずかに沈んだ。
「……ご明察でございます」
一歩下がり、道を譲る仕草。
「どうか、扉の奥へお進みくださいませ」
あたしは、扉に手をかけた。
指先に伝わる、冷たい金属の感触。
重い。
鈍い抵抗が、こちらの意思を測るみたいに返ってくる。
油の匂いが、古い記憶を刺激した。
――これは、民間施設のドアじゃない。
戦時下のシェルター。
そう呼ぶのが一番近い。
「さて……ご馳走が用意されてるといいんだけどね」
軽く言ってみせるが、空気はまるで笑わない。
この先にあるのは、歓迎でも、安心でもない。
ただ、“覚悟を要求する何か”だ。
……そういえば。
昔、一度だけ、似たような空気を味わったことがある。
拘束時間は、四時間弱。
目隠しをされ、車に乗せられ、あちこちへ連れ回された。
景色は見えなかったが、
潮の匂い、車体の揺れ、方角、時間、体感速度。
それだけで、場所の輪郭は掴める。
最初から、命の危険は薄いと分かっていた。
わざわざ連れ回すということは、
殺す気がないということだ。
――つまり、デート。
世の中には、変わった趣味の人間がいる。
もっとも、正式にデートに誘った男は、ただ一人だけだったけど。
“それらしい誘い”はいくつもあった。
だが連中は、途中で怖気づいて逃げていった。
まあ、当然だ。
唯一誘ったその男だって、
後日の格闘訓練で肩を脱臼させてしまって、
デートどころじゃなくなった。
泣きそうな顔をしていたが、あたしは悪くない。
訓練で手を抜くってことは、
実戦では死を意味する。
手加減を求めるなら、最初に言うべきだった。
そんな隊員が居たら、部隊には置けない。
蹴り出して、荷物を投げ渡して。
「では、お元気で」
そんな感じだろうな。
結局、その“ドライブ”も呆気なく終わった。
ハンバーガーショップで立ち寄る暇もなく、
ドレスを着てディナーを味わうこともなく。
拍子抜けするほど、あっさりと。
大手組織から分かれた新興勢力が、
自分たちに箔をつけるために目を付けたのが、
あたしだったらしい。
SOS発信器なんて付けていないのに、
どこから嗅ぎつけたのかは知らない。
だが、音もなく現れた、
それと分かる特殊スーツを着た若い“時の亡霊たち”が、
あたしを攫った連中を、まとめて闇へ連れて行った。
仕事は相変わらず早かった。
その後のことは知らない。
知る気もない。
ロクな結末じゃないのは、確かだ。
ただ一つだけ。
あたしを「部隊長」と呼ぶのは、もうやめてほしい。
くすぐったくて仕方がない。
ファミリーは、もう解散した。
……それでも。
こうして世界は、まだ回っている。
あたしたちが守ってきたみたいに。
さて。
この扉の向こうには、
一体どんな世界が待っているんだろうか。




