99番テーブル
99番テーブルに腰を下ろした瞬間、店の空気がひとつ沈んだ。
照明は生きているのか死んでいるのか判然とせず、埃を巻き上げながら、ぼんやりと揺れている。光というより、残り香みたいなものだ。床の隅では、小さな黒い塊が走った。ネズミか、あるいはそれに似た何か。影に溶けるのがやけに手慣れている。
壁際には、使い古した化粧品の空き瓶が無造作に並び、マニキュア用溶剤の甘ったるい匂いが、腐臭と混ざって鼻をくすぐった。床に散らばった虫の死骸は、踏み潰されて粉になり、その中にビニール片みたいな透明な羽が、星屑のように散っている。
――なるほどね。
ここは「汚い店」じゃない。「汚く見せている店」だ。
奥の暗がりが、ゆっくりと動いた。
外套とガスマスクをまとった影が、音もなく現れる。人間と呼んでいいのか、一瞬だけ迷う。肩から垂れた外套の影が床に落ち、黒い波のように揺れた。
「ようこそ当店へ」
声は電子音。男女の区別はつかず、微妙に周波数が揺れている。
「あたしを呼んだのは、あんた達かしら?」
灰皿の縁を指先で軽く弾きながら、視線は相手から外さない。
「まだメニューもいただいてないけど……何を“いただける”っての?」
「お望みであれば、なんなりと。ブラックもホワイトもご用意しておりますが」
――出た。
「悪いけど、あたしはその類はやらないタチでね」
ブラックもホワイトも、今じゃ最悪級のドラッグの隠語だ。ちょっと触れれば三日は戻ってこられない。致死量も、笑えないくらい低い。人間を辞めたい奴が使う代物だ。
「左様でございますか」
「ほう。その声で会話する気ね」
電子音が、床に転がるビニールゴミと妙に共鳴している。ざわめきと混ざり合い、空気そのものが振動しているようだ。
「しかし……この店、空調が死んでるわけ?
まったく、マスクが手放せそうにないのよ」
息を吐くたび、マスクの内側が曇る。排気に合わせて、床の粉塵が小さく舞った。
「こちらとしては、この姿形のほうが都合がよいのでして。
料理と申しましても、通常の食材を扱うわけではなく……」
「そんな話、聞きに来たんじゃないの。それより」
視線を走らせる。壁際の黒い影。床のゴミ。暗闇の奥。
「……あたしに照準を合わせてるのが、ざっと数えて七人。
歓迎ムードとは言い難いわね?」
「申し訳ございません。
警戒を解くには、それなりの“安心材料”が必要でして」
「安心材料ねぇ……じゃあまず一つ」
椅子の背で手を組み、少し前に体重をかける。
「あたしは依頼を受けに来ただけ。撃ち合いに来たつもりはないわ」
「で? 依頼内容ってのは……命の危険を感じながら聞くほどの代物?」
「とりあえず……身につけているものを置いていただかないと、こちらも安心できません」
思わず鼻で笑う。
「こっちは照準向けられてるのよ?
そのうえ丸腰になれってわけ?」
「申し訳ございません。
あなた様の“実力”は、十分に存じておりますので」
「……実力? あたしの?」
人差し指をこめかみに当て、大げさに首をかしげてみせる。
「ええ。
私どもの組織を、あなたお一人で壊滅させるなど、チャイを飲むより簡単でしょうに」
「はぁ……買い被りすぎ。誰かと勘違いしてんじゃない?」
両手をテーブルにつき、わざと大きく身を乗り出す。
「この威圧感……とんでもございません。
それに、あなたに危害を加えたあと、我々がどうなるか……想像もつきませんので」
電子音が、ほんのわずか震えた。
床の影が走り、ネズミか虫の気配が耳の端をかすめる。化粧品溶剤の匂いが、やけに濃くなった。
「ですから、どうかご安心を。
形だけでも結構です。お持ちのものを、テーブルに置いていただけませんか」
「武器を置けって言う相手はね、だいたい二種類に分かれるの」
椅子を軋ませ、視線を真っ直ぐ向ける。
「“死にたがり”か、“嘘の達人”。
で、貴方はどちらかしら?」
一拍。
「ちなみにあたしはね……こういう場合、素直に武器を置いちゃうタイプなのよ。
わかる? だから、悪いことしないでね?」
「ありがとうございます。ただ……
あなたには、まだ金属反応がございます」
ほう。
「形状から察するに、体内に埋め込まれているもののようですね」
「さぁ、どうかしらね」
手首のタトゥーが、光を反射して揺れた。少しだけ、熱を感じる。
「女ってのは、いろんなところに、いろんな物を隠してるものよ」
「誠意を見せていただいた以上、こちらも応えねばなりません。
そのまま奥へお進みください。もちろん、銃は置いたままで」
「はいはい」
立ち上がり、床を踏む。虫の死骸が光を弾いた。
「ここまでしてあげたんだから、奥にはちゃんと“ご馳走”が用意されてるんでしょうね?」
「ご希望とあらば準備いたしますが……本当に、ご所望でございますか?」
「冗談よ。水一杯飲むわけないでしょうが」
「……そうでございましょうね」
電子音が、笑ったのか、怯えたのか分からない揺れ方をした。
あたしは深く息を吸い、影の奥へと足を進める。
床のゴミとネズミの影が、まるで次の一手を測るみたいに揺れていた。
――さて。
どうやら、面倒な“ご馳走”が出てきそうだ。




