8.知らなければよかった
3人は熱石自動車なる乗り物に初めて乗っている。鉄でできた大きなエンジンのを馬の代わりにした馬車である。大きな音はするが、乗り心地は馬車と変わらない。
よく故障するのに割高で利用者はまだ少ない自動車であるが、目的地であるファジラン国最南部に向かう馬車が出てないので、しかたなく乗っている。けれど初めての乗り物にマルコスは大喜びだ。
「自動車はどうして動くの?」
マルコスに質問されて、元獣騎士はしかめ面になって答えに困っている。
「ええと、熱石で特別な液体を気化してだな……」
「きかってなあに?」
幼い子特有の「どうして? なあに?」の質問がどこまでも続くが、テオドールは根気よく答えている。あまりに真面目に返すので、言葉が難しくなって、そのたびに「それはなあに?」と聞かれ、また「ええと……」とどんどんややこしくなって困る彼が面白くてミレナは笑ってしまった。
やせ細っていたテオドールは、この一カ月間で細身ながら体力を取り戻し、意識を飛ばしてしまうことも無くなった。慣れないマルコスの世話もすっかり上手になって、2人は仲良し親子だ。
「マルコス質問はもうお終いだ。さあここに乗って運転手になれ」
テオドールがマルコスを膝に乗せて、器用にポンポン飛び跳ねさせたので、彼はきゃっきゃっと喜んだ。
初めて会った時テオドールを少し怖いと思った。けれど一緒に過ごす程に、彼はどんどん優しくなる。それはミレナにとって嬉しいはずなのに、胸が苦しくなるのはどうしてだろう?
マルコスが熱を出した日に昔を思い出して泣いてしまった。まるで小さな子供みたいに自分は情けなかったのに、テオはずっと抱っこしてくれた。あやすように揺らしてくれて、安心して彼の胸で眠ってしまった。
それはミレナが長い間夢見たことだった。
寂しくて泣いている自分を優しく抱きしめてくれる誰かを、どれほど待ち焦がれていただろうか。
願いが叶ったのに、どうしてこんなに苦しくなるんだろう。
もっとテオに触れたいと思ってしまう。
今までは冷たく「断る」と言っていたくせに……
「これ楽しい! ミレナもしてもらいなよ」
テオドールの膝で飛び跳ねながらマルコスが無邪気に言ってくる。
「ミレナも抱っこしてあげて」とマルコスが膝から降りると、彼が何のためらいもなくどうぞと腕を広げてこちらを見る。
おずおずと彼の膝の上に乗ると、後ろから彼がゆるく抱きしめてくれた。車が揺れると、落ちないように腕の力が少し強まった。大好きな香りに包まれる安心感にとけるような心地になりながら、背中に彼の熱を感じて、またいつもの苦しさが胸を詰まらせる。
「ミレナまた泣いちゃうかな」
「いいんだ泣いて。もっとたくさん泣かないといけない」
耳元で低い声が響いて、抱きしめられたまま頭を撫でられる。マルコスが言った通り、すぐに悲しくなって涙が込みあげた。
この頃の自分はおかしい。どこか壊れてしまったみたいに涙が出てきて止まらない。
何が悲しいのかな……
兄様が私を塔に閉じ込めたこと?
国に帰ったらまた塔に入らないといけない事?
「テオ、どうして私はこんなに泣いてしまうのかな。今まではこんなんじゃなかったの」
「大丈夫だ、たくさん泣いたら治る」
彼の大きな手が繰り返し撫でる、マルコスも腕をよしよしと撫でてくれる。
「それじゃあ10数えるぞ」
マルコスが元気に「うん」と返事をして2人が数えだす。
これがテオドールが決めた抱っこのきまり、ミレナが彼の腕の中にいられるのは10秒なのだ。
「いーち、にーい……」
苦しい、胸が絞られるみたいに苦しくてたまらない。数えないで、終わらないでと心ので叫んでしまう。ゆっくりとした数え方が8の所までくると、もう耐えがたくなって、彼の腕を解くと飛び降りるように離れた。
「ミレナ?」
テオの心配そうな声がしたけれど、とても顔がみられない。涙がこぼれないようにぎゅっと目を閉じる。
終わりになっちゃうんだ。どんなに幸せだとしても、この10を数えるのと同じで、終わりがあっという間にくる。兄様のところに着いたら、私はまた塔にもどるのに、もうテオにもマルコスにも会えなくなるのに、どうして私は彼に抱っこなんて願ってしまったのだろう。
だって知らなかったのだ。
こんなにも、テオの抱っこが安心するなんて、信じられないほどに心地いいなんて。そして、もう一度、もう一度と自分でも呆れるほどに、テオにして欲しくなるなんて…… そして涙が止まらなくなってしまうなんて。
自分がこんなことになってしまうなんて、知らなかったのだ。
ねえミレナ忘れてしまったの? あなたは『悪しきものでしょう?』
頭の中で女の人の声がした。
「もうしない」
目をどんなにきつく閉じても涙がでてきてしまう。こんな私では駄目だ、しっかりしなければ。マルコスを守って兄様の所に連れていくのが私の役目なのだから。そしてそれが終わったら……
「私はもう抱っこはいらない」
「どうしてミレナ。テオの抱っこが大好きなのにいいの?」
目をごしごし擦って、マルコスに無理やり笑いかけた。
「だって私はもうお姉さんだから、甘えん坊はお終いにする」
体中の勇気をかき集めて、大きな声で宣言したのに、テオドールもマルコスも何も言わなかった。しばらくして、マルコスはまたテオドールの膝にのって嬉しそうに遊び出した。
◇◇◇ ◇◇◇
ファジラン国からトルドー国へと抜ける関所を何カ所か試したけれど、テオドールが下調べをすると、どの関所でも「青い瞳の幼子」を連れた旅人を厳しく調べている。
どうやらマルコス王子がファジラン国にいることは、トルドー国の知るところとなっていのだろう。関所の大人に優しく問われれば、マルコスは知っていることを素直に話すだろう。4歳の子に秘密を約束させることは難しい。トルドー国を通らねば、バルテル国に帰ることができないが、無事に関所を抜けるのは不可能に思われた。
そこでテオドールは大きく遠回りすることを決めた。ファジラン国の南に広がる砂漠を越えて行く道を選んだのだ。トルドー国を通れば、旅はあと7日程で終わるはずだった。けれど砂漠を経由するとなると、さらに半月はかかると彼は言う。旅がまだ続くことが驚くほどに嬉しくて、ミレナは罪悪感を覚えた。
テオドールは砂漠を渡る商人達の大きなキャラバン隊に同行を頼んだ。「アレックスの金だからな、気前よく使わせてもらおう」と言って大金を払ってキャラバンの従者を1人雇い専用のラクダも天幕も準備した。キャラバン隊は商人に使用人、護衛の雇われ剣士達、そして自分達と同じ旅人と様々な人が入り混じり、50人を超える。そして大きな体のラクダが列をなす。ミレナ達の砂漠を渡る旅が始まった。
砂漠を渡ることは、十数年前までは命がけの冒険であったが、熱石を使い大気中の水蒸気から水を取り出す機械が発明されてからは、水を得る手段ができ、砂漠で命を落とす者は格段に減った。
日中は暑く、夜間は寒い過酷な行程ではあるが、砂漠でも安全な旅ができるようになった。
魔獣と交配させた大きなラクダは、長い年月の訓練がないと乗りこなせないが、最上位の統制の力をもつテオドールは2時間ほどで乗りこなすことができるようになった。
1頭のラクダの手綱をテオドールが持ち、そこにマルコスとミレナを乗せる。もう1頭のラクダには食糧やら荷物を積んで従者が引く。体験したことのないラクダの背に、マルコスとミレナは初めこそ興奮して楽しんだが、すぐに強い日差しに体力を奪われてラクダの背でしおれた菜っ葉のようになっていた。
日の入り前に、キャラバン隊は停まり、それぞれに野営の準備を始める。雇った従者が手際よく3人が休むための小さな天幕を張り、水を運んできて夕餉の支度をしてくれた。ミレナとマルコスは疲れて動けないほどだったので、テオドールが従者を雇ってくれてとても助かったと思った。
従者のキリルは25歳の若い男性で仕事中は話さないが、休憩時間は友達のように気さくに声をかけてくる。キャラバン隊には14歳からいるそうで、旅には慣れてキビキビとよく働く。子供の扱いも上手なのでマルコスはあっという間にキリルに懐いた。
キリルが準備してくれた天幕には敷布が重ねられた寝床が1か所だけだった。
親子3人が一緒に寝ると思ったのだろう、テオと初めから一緒に眠るのは初めてだった。
もう抱っこはいらないと宣言してから3日程過ぎた。たったの3日であるのに、ミレナにとっては苦しい程に長い時間に感じられた。テオに触りたい、あの匂いに包まれたい。でもそんなことできない。したい、できないがひたすら頭の中をぐるぐる回る。
できるだけテオに近づかないようにしたいたので、キリルに「あんたの旦那は良い男だな」と声をかけられて一瞬「旦那とは誰?」とぽかんとした顔をしてしまった。
ずい分間を置いてから「はい、私の夫は素敵な人です」と棒読みで返すと、キリルは不思議そうな顔をした。
◇◇◇ ◇◇◇
夜中に目が覚めた。砂漠の夜は思ったより冷える、マルコスに毛布を掛け直すとミレナは天幕の端に目をやった。ほんの僅かに灯りをともした熱石ランプで、ぼんやりと横たわるテオが見える。
彼は薄い布1枚しか掛けていない、寒くないかしらと心配になった。
マルコスの隣からそっと抜け出して、テオの近くにいった。寝顔だと思っていたのに、膝をついて覗きこむとこちらを見上げる瞳は大きく開いていた。
「どうしたミレナ」
小さな囁きと共に彼が半身を起こした。
「寒くないですかテオ? あちらで一緒に毛布に入りましょう」
彼は何も答えずに見つめてくる。暗闇の中、魔石ランプのほのかな光が彼の目に映っている。それがなんだか燃えているようで、怖くなった。
怖いのに、もっと見ていたい。見ているだけではなくて、その胸に触りたい……
知っているの、抱きしめられたらどんな感じがするか……
「俺は元獣騎士だ岩の上でも眠ることができる。気にするな」
言ってはいけない、我慢するのミレナ。そう何度も言い聞かせるのに、思っていることと違うことが口から勝手にこぼれ出た。
「抱っこ……して」
ぎゅっと胸が苦しくなって、でももう我慢できなくて、手を伸ばして彼に触れようとした。
「駄目だ……今は……断る」
驚くほどに傷ついた自分がいた。断られることはないと思い込んでいたから、抱っこしてもらえない事実に心が悲鳴を上げた。
自分で我慢して彼に触れないことがこの3日間とても辛かった。けれど拒絶されることに比べたら、たいした痛みでないことに今気づかされた。
「マルコスのところに戻れ」
テオが横になると背を向けて、それきり黙ってしまった。
「ねえテオドール」
返事をしてくれないかと思ったけれど、彼は「なんだ」と答えてくれた。
「この旅が終わったら、テオはグイフォンの谷に行くの?」
「そうだ」
怖くてずっと聞けずにいたことを、ミレナはとうとう口にした。
「谷に行ったら、テオは銀流星を追って跳び降りるの? 多くの獣騎士がそうすると兄様が言っていたの。ねえ、テオはそんなことしないよね?」
テオドールは体をこちらにむけた。黒い瞳が真っすぐにミレナを見ている。
「銀流星がそれを望むなら、俺は一緒に逝く。その気持ちは変わらない」
痛みなのか、痺れなのか……
全身に駆け巡った感覚が何なのかミレナには分からなかった。心の中の柔らかく無防備な部分が、金づちで叩きつけられて潰れて、広がって、もう元には戻らない形に壊れたのに、それでも冷たい金づちが何度も振り下ろされる。
こんなもの、つぶれてしまえ。
なくなってしまえ。
おまえが初めから持ってはいけないものだったのだ。叩いて叩いて潰してしまえ。
誰もおまえの側になどいてくれるはずが無い。
だってそうだろう? おまえは悪しき者なのだから。
テオは私を置いて行ってしまう。
初めから、彼は私のことなど見ていない。ただ魂の友だけが必要なのだ。
気が付いたらマルコスの隣で横たわっていた。いつの間にか自分で寝床に戻ったようだ。
体温が高いマルコスが隣にいてぽかぽかと温めてくれる。
これは私の人生でたった一度のご褒美だと思った。
でも違った。知らずにいた方がずっと良かった。あの塔に帰ったら私はどれだけテオとマルコスを思うだろう。
ああでも…… テオと同じようにいっそ塔の頂から飛び降りればいい。
考えがそこに及ぶと、疲れた体がさらうように眠りへと引き込まれた。
◇◇◇ ◇◇◇
日の出前の薄い光が、透明な青色になって天幕を満たす。
まどろみから瞼を開く、すぐに大好きな香りが全身を包んでいることに気づいた。
テオドール
心の中で名を呼んで、背中から自分を抱きしめる彼の両腕にしがみついた。
彼が私を抱きしめて眠っている。
すっぽりと包まれて、温かくてたまらなく幸せで、今までのことも、こらからのことも、何も考えたくない。今はこの腕に抱かれていたい。
ぎゅうっと彼の固い腕を抱きしめる。
ずっとこうして欲しかったの。
「ミレナあ、」
寝起きが上手くいかなかったマルコスが、ぐずぐず半分寝ながら泣き出した。
目を擦りながら、こちらを向くと「抱っこ、抱っこ」と寄ってきた。
「駄目なの」
自分でもびっくりする大きな声が出た。抱きしめる彼の腕を絶対に離すまいと手でつかんだ。
驚いたマルコスが泣く寸前の顔になった。
「やだやだ、とーさんの抱っこする」
「駄目なの、これは私の抱っこなの! マルコスあっちに行って」
これ以上できないくらい力を込めてしがみ付いていたのに、あっけなく彼の腕が解けて、背中から体が離れるのが分かった。
「わーん、わーん」
天幕の中にマルコスの大泣きが響き渡った。
「何事だ」
寝起きのかすれた低い声が後ろでする。彼の体が離れていく。
「マルコスのばか、ばか」
「うわーん、ミレナのばかあ」
なんてことを言ってしまったかと思うのに、涙がぼろぼろこぼれて、暴走した気持ちが止まってくれない。
「これは私の抱っこなの! マルコス取らないで」
がっと腕を引っ張られて体を起こされる、テオの怒った顔が間近にあった。
「いい加減にしろミレナ」
跳び起きて、裸足のまま走って天幕の外に出た。
私はなんということしてしまったのだろう。あんな小さいマルコスを傷つけてしまった。
私の頭はどうかしてしまったに違いない。