7.マルコスがしでかしたこと
マルコスが熱を出した。
宿のベッドで赤い顔をして眠っている、その横でミレナが彼に付きっ切りのまま離れない。
「なあミレナ、医者はただの風邪だと言っただろ、心配し過ぎだ」
テオドールが昼飯を食べたらどうかと声を掛けるが、彼女は「うん分かった」と返事をするのにマルコスから離れない。
ファジラン国とトルドー国の国境沿いの街道を、連日乗合馬車で南下していた。
祖国バルテル国に入国するには、トルドー国を通らねばならない。
国内の王位継承争いで、アレックスが獣騎士隊とともにファジラン国に逃れる時、トルドー国上空を通過した。
その時、最強の聖獣である竜族を使役する軍団が現れた。
エカテリナの策略によってグリフォン獣騎士団は大打撃を受け、そしてテオドールの銀流星は死んだのだ。
だから、王となったアレックス陛下は、グリフォンをマルコス王太子の迎えに寄越すことができない。
完全に敵対する第二王子派の味方付いたトルドー国を飛ぶのはあまりに危険だからだ。
庶民に扮したミレナとテオドールは、マルコスを連れて無事トルドー国内を通り抜けることができるだろうか?
トルドー国に隣接した地域の移動は、テオドールを今まで以上に緊張させた。
1週間前、町中の往来で意識を飛ばせてしまう失態を犯した。危うくミレナを連れ去られるところだった。彼女を失ったかもしれないと想像した時、気が付いたら抱きしめていた。
怖かった。そして彼女を失うと思うだけで怖くなる自分自身に驚いた。
どうしたんだろう俺は? アレックスの命令に従っているだけなのに……
旅をしてもうすぐ1カ月、家族として2人と共にあることで……今まで感じたことのない強い感覚にテオドールは支配されるようになった。
この感覚は……
父性だ!
マルコスの世話して、同じように4歳児みたいなミレナのことも面倒を見て、そうしているうちに自分は父親になってきたのだろう。
可愛いマルコスのことはもちろんだが、ミレナのことも守ってやりたいと思う。
あの下卑た笑いの邪な顔をした男たちがミレナに触れたと知った時、頭の中が沸騰してあいつらを本気で殺そうと思った。マルコスがいたから何とか耐えたが……
ミレナを傷つけるものをけして許さない……
これは父親が娘を思うような気持ちなのだろう。テオドールは胸を騒がせる初めての感覚が父性なのだと自覚した。
男として彼女に触れる訳では無いのだから……どうか許して欲しい。テオドールは心の中でミレナに謝罪する。
ミレナに触っていないと眠ることができたない。
それに気づいたのは、マルコスが初めておねしょをした晩だった。彼女の頭に偶然手が触れて、そのまま落ちるように熟睡した。
銀流星が逝ってから1度としてまともに眠れていなかったのに、それは劇薬のようにテオドールを救った。しかし、17歳の女性にむやみに触れるなどできるはずもなく……ましてや布団の中でなどと……
そんなこと許される訳がない。
そうして、眠らずにいた結果、あの祭りの日に限界が来て意識が飛び、心は銀流星の場所に行ってしまった。眠気で弱ると銀流星の声に抗えないのだ。
2度と意識を飛ばせる訳にはいかない。だから……
あの日から、眠りについたミレナにそっと触れていた。
指の先でいい、
肩にほんの少し、自分の手が触れるだけでいい。
ほんの少しでいいから、そうすれば眠ることができて、あなたを守れるから……
だから許してほしいミレナ。
◇◇◇ ◇◇◇
マルコスは昼過ぎに目を覚まし、よく食べてよく喋った。もうねんねしたくないと駄々をこねたが、ミレナになだめられて、大人しくベッドに上がった。
「コケコッコー! 朝ですよー。さあ卵は何個あるかな?」
「うーんとね、2こ」
ミレナが手を開くと、丸めた紙が1個でてきた。
「マルコスはずれ、卵1個」
マルコスはもう一回やる! と喜んだ。ミレナは寝た真似をしないと朝にならないから、横になれとマルコスを促す。「うんねんねする」と彼は素直に聞いて布団にもぐる。すぐに寝た真似をした。
しばらく静かに待ってからまたミレナが「朝ですよー」と起こす。そうしてマルコスが卵の数を当てる。マルコスを楽しく遊ばせながら、彼女は4歳のやんちゃな男の子を、ちゃんとベッドにいさせる。
ミレナは本当に上手にマルコスを世話する。神殿で同じ年頃の子供がいたからだと彼女は言う。けれど、世話の仕方を知っているだけで、母になれるはずがない。
彼女は驚くほどに献身的だ。己を捧げてマルコスを心から愛している、本物の母になったように。
自分に対してもそうだ、それが当たり前であるかのように「あなたに触れたいの、仲良くしたいの」と口にして、瞳が優しく笑いかけてくる。「だってあなたは私の夫でしょう? 妻は夫を愛するものでしょう?」
アレックスが母になれと命じれば、マルコスの母になり。
そして命じられれば知らない男の妻となり、何もかもを投げうって愛してくる。あの目は本気だ。それなのに、兄が命じれば他の男でも同じようにするのだと、迷わず答えた。
ミレナは異常だ。
自分自身の望みをほとんど言わない。王女はもっと我儘でもいいはずなのに、マルコスと夫である自分の心配しかしない。ミレナはミレナを見ていない、自分のことを全く大切にしない、それなのに、一つのことだけは執拗に求めてくる。
『抱っこして』
何度彼女に求められただろう。きつく断ってからは言ってこないが、マルコスを抱っこする度に、彼女の視線が乞うているのが伝わる。「私も抱っこして欲しいの……」
胸の深いところがうずくようにもやもやする。
夕刻になると、マルコスの熱はさらに上がった。昼間は元気を取り戻したのに、また赤い顔で寝付いてしまった。
「どうしようテオドール」
「そんなに心配するな、食欲もあったし薬も飲んだ。明日には良くなる」
ミレナは深刻な顔でまたマルコスのベッドから離れない。
「あなたは昼もろくに食べなかったのだから、夕飯は食べて欲しい。俺が見ているから」
用意した夕飯が載っているテーブルに、ミレナは「うん分かった」と行こうとして、そして動かなかった。
そこでテオドールは気が付いた。彼女はマルコスから離れないのではなく……
不安のあまり離れることができないのだ。
「どうしてそんなに心配する? ミレナ?」
緑が混ざった茶色のヘイゼルの瞳を覗き込むと、あまりの不安げな顔に思わず頭を撫でてしまった。
瞬間、ぶわっと彼女の瞳が涙で一杯になり、目じりからこぼれた。
「どうしよう、マルコスが死んじゃったらどうしよう」
「死ぬわけないだろう? ただの風邪だ」
ミレナが勢いよく首を振る、そのまま大きくしゃくりあげて泣き出した。
「だって大僧正様も風邪だって、すぐよくなるって言った。でも、でも……熱が下がらなくて……寝てしまって……それで……」
ミレナの手が縋るように伸びてくる。
だが受け止めることはできなかった。テオドールが後ろに身を引くと、彼女の目が1度大きく開いた後、焦点を結ばなくなった、どこか別の場所を見るように視線がさまよう。
「冷たくなるから……温かくしたくて、大僧正様を温かくしてあげたくて……真っ暗で」
「ミレナ何を言っている?」
「真っ暗なの……大僧正様の体がどんどん冷たくなるの……」
消え入りそうに震えながら彼女は泣いた。ベッドの脇に座り込んで両腕で自分を抱いて、小さくなる。
それは幼子にしか見えなかった。
胸を突きあげてくる感情が何か分からないが、限界だった。これは幼い少女なのだと己に言い聞かせて、彼女をそっと抱きしめた。
溺れる者が救いを求めるように腕をまわして、きつくしがみ付いてくる。胸が彼女の涙に濡れていくのが分かった。
「大僧正様とは誰なんだ?」
一つずつ質問すると、彼女は要領を得ないまま、何度も「真っ暗で、冷たくなる」とくり返しながら神殿であったことを話した。
ミレナが暮らしていた神殿にはご本尊と呼ばれる熱石があった。それは想像を超えた、信じられないほどに熱い石だったようだ。
近くによれば人間が蒸発してしまうほどの熱で、神殿の奥深くに祭られていた。石まわりに水を引き、高温の水蒸気を発生させることで、極寒の冬でさえ山奥の神殿で温かく暮らすことができたのだという。
しかし何百年と続いたそのご本尊の熱も徐々に下がっていき、ミレナが暮らす頃には、人々は去り、忘れられた神殿となった。それでも30人ほどが暮らしていたそうだ。
それから月日と共に、一人、また一人と去って行き。最後の1年はとうとう大僧正と2人きりになった。料理から洗濯から、すべてを熱石が生む水蒸気とお湯で生活していのに、その熱源が失われていく。
暖房もままならない寒い部屋で、70歳を過ぎた大僧正が発熱しそのまま意識を失い冷たくなっていく。
「だから温めたかったの。ご本尊の側にいけばきっと温かいと思ったの。だから毛布に乗せて、引っ張って、引っ張って……」
暗闇の中、岩山の奥深くに祭られたご本尊に向かって老人を懸命に運んでいく、15歳の少女が見えた。
恐らくもう大僧正は亡くなっていたのだろう。けれど山奥の神殿にたった一人になった孤独を受け入れられず、ミレナは死体を温めようとして、岩山の奥へと進んだのだ、暗闇の中をひたすらに。
テオドールは、少女が体験した惨い孤独を知り、ただ強く彼女を抱きしめることしかできなかった。
「それで、大僧正様をご本尊の近くで温めてた後、どうなったのだ?」
問いかけると、ミレナが顔を上げて小さく「兄様が……」とつぶやいた。
「よく、分からないの。気が付いたら兄様がいたの。それで、嬉しくて…… 迎えにいくから待ってろよと言った約束を、ずっと待ってたから……」
ミレナはその日に戻ったように、にっこりと笑った。
「嬉しかったの。今まで生きてきた中で一番嬉しいと思った。兄様の背に抱きついてグリフォンの背に乗って飛んだの。幸せで…… それで……」
それで……
その先をテオドールは知っている。
『私はミレナを、牢獄の塔に閉じ込めたのだ』
アレックスが選ぶしかなかった残酷な事実。
笑ってしまうほどにミレナは不幸だ。神殿に隠されて、孤独の暗闇に取り残されて、やっと救いにきた兄を見て幸せの絶頂に登らされた直後……もっと酷い地獄に突き落とされた。
牢獄の塔は出口が無い。
高い塔の天辺に唯一の出口がある。そこに行けるのはグリフォンを操る者だけだ。
だから塔から出るにはグリフォンが迎えに来なければならない、ミレナにとってそれは兄。自らを牢獄に閉じ込めた兄を、ミレナはまたひたすら待つ。
ずっと一人ぼっち。
誰も彼女に触れない。
『抱っこして』
その言葉の意味が、テオドールの心臓を掴み、強烈な力で握りしめてくる。鼓動が止まってしまう程に苦しい、ミレナの孤独が苦しい。
どれほど寂しかっただろうか…… 絶望的な孤独を味わう夜をいったい何度越えたのだろうか?
ミレナは愛されることを渇望している。
兄が選んだ男なら誰でもいいのだというほどに、人の温もりを求めている。
ミレナをただ強く抱きしめてやることしかできなかった。
自分の性欲が抜け落ちていて良かったと心から安堵する。父親のように、可哀想な少女を抱っこしてあげた。
◇◇◇ ◇◇◇
泣いたままミレナはテオドールの胸で眠ってしまい、仕方がないのでマルコスの隣に寝かせた。
ベッドの脇に座り込んで、2人の寝顔を見ていた。
アレックスに届けるまでの期限付きの親子ではあるけれど、もう少し彼女に優しくしてやろうと思った。彼女が自分を求めるのは、幼子のような抱っこであるし…… 幸い自分は男としての欲はもう無くなったから、父親のように接することができるだろう。
彼女の亜麻色の柔らかな頭を撫でてやる、泣いて腫れた目元が緩んで、微笑んだように見えた。
ああ駄目だ。彼女に触れると眠くなる……
座り込んだまま、うとうと眠ってしまった。
「にゃー!!」
聞いたことの無い、変な悲鳴ではっと目が覚めた。
「うにゃー、にゃー。助けて! これ何? にゃっ、助けてテオ!」
変な声をあげ続けるミレナにマルコスがくっついている。それはいつもの抱っこなのだが、マルコスの頭がちょうど胸の所に密着していた。
灯りを落していない部屋で、何が起きているのか非常にはっきり見えた。
「な! マルコス何しているんだ」
寝ぼけているのだろう。目を閉じたマルコスが、胸をはだけさせたミレナの乳房を赤ん坊のように吸っている。ちゅう、ちゅうと音がする。ミレナがまた「にゃー」と声をあげた。
「テオ取って、お願い」
お願いされるままに、マルコスの体を抱えて持ち上げると、ちゅぽんと音をさせて、マルコスの口がミレナの胸から離れた。
ミレナは素早く胸を隠すと、布団にもぐって丸くなった。
無言で眠ったままのマルコスを抱いて、もう一方のベッドに降ろし首まで布団をかけた。部屋の灯りを小さくして、黙って浴室に向かった。
服を脱いで、浴室に入ると、シャワーを全開にして冷水を浴びた。
「何てことをしでかしてくれたマルコス……」
見てしまった……彼女の……
吸われて濡れた……
ピンクの……
やばい
やばい
やばい!!
冷水を浴びながら両膝をついて、一向に治まらない己の昂ぶりを見ながら嘘だろと呟く。
あれを目にした瞬間に、全身を駆け巡った痺れと熱。
深い谷底に落ちて、雪に埋もれて凍り付いていたはずの雄の本能が、引きずりだされて火を付けられた。
ずっと目覚めていると思っていた。はっきり意識があるのだと疑いもしなかった。しかし自分は銀流星を亡くしてから常に半分は意識が無かったのだ。たった今やっと覚醒したことが分った。
どうしてできていたのか、もはや分からない。
若い女性と、1カ月も一時も離れず一緒にいて同室で眠っていた。さらに同じベッドにこっそり入って肩や頭に触れて……
やばい
男の欲が復活してしまっては、これからどうやって彼女との距離をとればいいのだ。
別室に寝るか? いや、それでは何かあった時に守れない。
夫役は期限付きで、本当の結婚ではないのだから……
彼女に何かするなんて許されないことだ。
『本物の夫だろう? だって正式に神殿で誓っただろうが、だからおまえはミレナの夫だ。何をしたっていいんだぞ』
アレックスが意地の悪い顔をして笑っているのが見えた。
夫婦のふりをするだけでいいのに、どうして彼が正式な結婚をさせたのか疑問だった。だがぼんやりしていた自分は命令されるままだった。
今になってアレックスの思惑が分かってきた。
あいつは俺をミレナの夫にすることで、この世に繋ぎとめたいのだ。
「ちくしょうアレックス、おまえはいつも油断ならない。だがおまえの思う通りに何でもなると思うなよ」
自分の望みは、銀流星をグリフォンの谷に連れて行き魂を解放すること。
その時銀流星が望むなら、一緒に逝きたい。
それだけが望みなんだ。