1-04 悪役令嬢に憑依したとたん婚約破棄を言い渡されましたが婚約破棄は破棄だそうです
気がつくと婚約破棄を言い渡されていた。
何も分からないまま、どこかの令嬢に憑依したようだ。自分が誰なのか記憶がない。
どうやら人生の帰路に立たされているらしい。
婚約破棄。誰だか知らないが、ならばボロを出さないうちに立ち去り状況を整理しよう。
だが、呼び止められた。
「婚約破棄は破棄だ」
前言撤回されている。立ち去る機会を失ってしまった。
混乱のまま憑依した者の記憶を探れば、絶望感。
顔は可愛いが、とんでもなく素行の悪い令嬢。名は、アンナリセ。やりたい放題の侯爵令嬢だった。
自分の記憶は覚束ないが、アンナリセの記憶は少しずつ甦ってくる。
対峙しているのはグレクス。デュマ小国の王子だ!
王子の婚約者? いずれは結婚し王妃! それって最高の人生なのでは?
そのためにはアンナリセの悪行を全部償わなくっちゃ!
グレクスとの結婚生活を願い、決意する。
新たな波乱の人生が始まろうとしていた。
「余りにも大人気ない。婚約は破棄だ」
と、遠くに聞こえた気がする。
何? 何なの? ここどこ? わたし誰?
唐突に知らない場所にいて、知らない男と相対していた。とても豪華な衣装を身につけた綺麗な顔の男だ。キョロキョロするわけにもいかない。
見上げて凝視している男は、しかし見覚えがある。金茶の髪に青い眼。デュマ小国の王子だったような?
なぜ、男の顔を知っているのかも分からない。
わたし誰かに憑依した?
ぐるぐると思いが回ったが、それは瞬間的なこと。
どうやら女性に憑依したらしいが、婚約破棄を告げられた現場だったと理解した。
思考は二転三転、空回りするが、とにかくこの場を離れなくては!
「承知いたしました。では、ご機嫌よう」
そう告げるのは可愛らしい声だ。
丁寧に礼をして、そそくさと立ち去ろうと踵を返した。一刻も早くこの場を去って、状況を把握しなくては。豪華で綺麗な衣装を身にまとい、髪は豪勢に結い上げられている。頭が重い。
「まて!」
王子だと思われる男が不意に止めた。
「なんでしょう?」
身を翻しそびれたが、体勢を整え礼をとり直す。
「婚約破棄は破棄だ」
「は?」
「婚約破棄は忘れてくれ。婚約者のままでいてくれ」
まぁ、証書を渡されたわけじゃないし、構わないかな?
元より何がなんだか全くわからない状態だ。わたしはもう一度、了承のしるしとして丁寧な礼をした。
「アンナリセ、少し付き合え」
王子は困惑しているアンナリセという名の、わたしの腰に手を回す。誘導するように歩き始めた。茶に誘ったようだ。記憶曖昧なまま、しかたなく、つき従う。
拙い。記憶が何もないのに、婚約者らしき王子に対応しなくちゃならないの?
婚約者なのだとしたら入れ替わったと、すぐ気づかれてしまうだろう。
デュマ小国の王子。名は確かグレクス・デュマ……。
海洋貿易で栄えるデュマ小国の王になる身だ。ここは小国を束ねる王都からは遠く離れた西の地。噂に違わぬ華やかな宮殿。栄華を誇っているという、わたしが知る噂は確かなようだった。
本当に華やかね。
グレクスに連れられて歩きながら、豪華さに驚き続けた。
憑依する直前、わたしは王都にいた、と、ぼんやりだが記憶が浮かぶ。王都に住み王宮に仕える者としての知識。儀式で見掛けたお陰で、グレクスの顔も知っていたようだ。
そして自分のことを思い起こそうとしていたのに、憑依した身体の持ち主の記憶がひらめいた。
アンナリセ・ヘイル。ヘイル侯爵家の令嬢だ。
鏡を覗く記憶。なんて可愛い顔! 金髪巻き毛に翠の瞳。わたし、今、この姿なの?
アンナリセはグレクスのことが好きすぎて、誰も寄せつけたくなかった。近づく者たちに散々嫌がらせをし続けている。大人気ない、と、最初に聞いたグレクスの言葉が理解できた。
ちょっと! そんなに素行の良くない令嬢に憑依しちゃったの?
この身体に憑依したからには、アンナリセとして過ごすしかなさそうだ。
戻る身体はない――と、何かが告げている。憑依はとけないらしい。
しずしずと上品に歩きながら記憶を掘り下げて行く。アンナリセの記憶からは、ろくでもない事実ばかりがでてきた。
くだらない魔法を使い、気に入らない者がいると、その魔法でズブ濡れにさせたり、転ばせたり。そして令嬢らしからぬ言葉で罵倒する。
グレクスに近づくものには全く容赦ない。
親が決めたとはいえ、ちゃんと婚約者なんだから心配することないのに。あまつさえ王子の婚約者であることを鼻に掛けやりたい放題だった。婚約破棄も無理もない。
でも、グレクスには首っ丈。
だから、婚約破棄された衝撃で意識が飛んで死んでしまった――。
アンナリセの魂は、もう戻ってこない。わたしは自分が誰だかわからないまま、アンナリセとしてグレクスの婚約者として生きる。
「今日は大人しいな」
グレクスは、好ましそうに笑みを向けてきた。
それは、アンナリセが、ずっと求め続けていたグレクスの好意的で優しい表情だ。
豪華な庭園の四阿に、軽食と茶が用意されている。
いつもなら、アンナリセはグレクスにまとわりつき、四六時中ああでもないこうでもないと喋りまくっていた。とても真似はできない。バレるのは時間の問題だろう。だが、何も説明はできない。アンナリセの突然の心変わりだと、判断してもらうしかないだろう。
「グレクスさまの婚約者として相応しい者になりとうございます」
アンナリセだったら絶対に言わないな、と、記憶を弄りながら、わたしにとっては極自然な言葉を告げた。王都で誰かに仕えていたのだろう。
「ずっとそのままで居てくれ」
グレクスは、しみじみと呟き軽食を食べている。わたしは、思ったよりも優雅な仕草で茶を飲んで、アンナリセの変貌をグレクスが心の底から歓迎しているらしきを感じとった。
このまま、アンナリセとしてデュマへと嫁ぎ、王となるグレクスの伴侶として生きる――。
それは、もしかして、とても素敵な人生?
だが、そう思った瞬間、アンナリセの今までの悪行が心に渦巻いた。拙い。これ、全部、謝罪するなり償うなり、なんらかの行動をしなくては安心して嫁げない。グレクスを狙う令嬢は多く、いつ足元を掬われるか分かったものではなかった。
しかし、そんなことが可能なのか……。
「はい。わたし心を入れ替えました」
本当に入れ替えられてしまった。わたしはアンナリセとは別人だ。だが、婚約破棄されたことで反省し、心を入れ替えたのだと思ってもらえることを期待した。
グレクスに嫁ぐことは、願ってもないことだ。顔も好みで、態度や仕草も、デュマ小国の王子という点も、何もかも申し分ない。
「ああ、とても良いよ。これなら安心して伴侶になってくれと言える」
グレクスは、とても魅力的な笑みを向けてくれた。きゅん、と胸が高鳴る。アンナリセが心の底から望んだ言葉だろう。
「はい。今までの悪行の数々、なんとか償いいたします」
悪評をどこまで塗り替えられるか全く未知数だが、安心して嫁ぐために何もかも、真っ新になるように努力しよう。
グレクスはヘンに勘ぐってこないし、今のわたしを婚約者と認めてくれている。
さて。わたしは、アンナリセ・ヘイル。裕福で権力を持つ侯爵家の令嬢。
アンナリセの記憶を探りながら、悪評と悪行を打ち消して行こうと心に誓った。
――◇◇――
グレクス・デュマは、アンナリセの突然の変貌を心から歓迎していた。
別人と魂が入れ替わったとしても、何の問題もない。むしろそのほうが好ましい。そんな風にすら感じていた。
だが、当人が心を入れ替えたというからには、そういうことなのだろう。
悪行三昧であっても、グレクスはアンナリセのことを気に入っていた。何より顔が可愛い。今日のように、しとやかな振る舞いであれば、その可愛らしさは倍増する。
特に、婚約破棄を言い渡した直後からのアンナリセの魅力的な振る舞いは衝撃的だった。婚約破棄したことを深く後悔した。罪悪感ではない。速効で取り消した。受け入れて貰えて本当に良かった。
グレクスは、あの瞬間を反芻するように何度も思い返す。
すっかり惚れ直していた。出逢った当初のトキメキが、戻ってきたように感じられたのだ。
「ああ、トレージュ。お前との婚約はなしだ」
ひっそりと近くへと歩み寄ってきたアンナリセの義妹、トレージュへとグレクスは告げた。
アンナリセとの婚約を破棄した後で、トレージュとの婚約を発表する手筈だったが取りやめだ。
義妹といってもトレージュはアンナリセと歳は同じ。
「どうしてですの? あれほど、お義姉さまを疎んでいらしたのに?」
トレージュの取り澄ましながらも、ぎりりと歯がみする気配を感じとり、グレクスは一瞥して視線を外す。
「気が変わった」
そっけなく告げた。
悪行を極め続けるアンナリセに比べれば、どこのどんな令嬢でもマシだ。まして、同じヘイル侯爵家の者であれば、家同士の確執を心配する必要もない。と思っていたのだが、さっきのアンナリセの可憐な姿を見てしまった後では、礼儀正しく聖女のように美しいトレージュであっても色褪せていた。
それに、トレージュは相当な策士。
権力欲しさに義姉の婚約者を奪おうとする相当にしたたかな女だ。
「お義姉さま、絶対ヘンでしたわ。とても、お義姉さま本人だとは思えません」
トレージュは暗に、アンナリセの偽物だとでも言いたいようだ。だが、変貌はグレクスの目の前で起こり、誰かと入れ替わる隙などなかった。
それに、別人だとして何の問題があろう?
お義姉さまの悪行をのさばらせてはダメ。デュマのためになりません、などと言いながら、トレージュのほうこそ何か腹黒い計画がありそうだった。
アンナリセは確かに大人気ないことばかりしていたが、元より腹黒くはない。
そして、今や、すっかり理想的な令嬢と化した。
グレクスは、俄然、アンナリセを見せびらかしたい衝動に駆られている。大規模な夜会を開き、改めて披露することに決めた。