1-24 いよぽん ──クソ真面目な怨霊はときどきデレる──
天正十五年(1587)、一人の男が時の権力者に暗殺され、死して怨霊──祟り神となった。
その男の名は河野通直。享年二十三歳の戦国大名伊予河野氏最後の当主。
そんな彼が諸悪の根源に恨みを晴らし、この世に留まり続けて幾百年──。
時は流れて平成後期。一人の訳あり少年キオと出会うことで、複雑な彼の毎日は少しずつ変わっていく。
「ねぇねぇいよぽん! 今日は何して遊ぶ?」
『い・よ・の・か・み! 誰がいよぽんだ!』
祟り神。なのに生前からの生真面目さとドがつくほどのお人好し。
隣の『落武者ども』こと村上水軍(の亡霊)が起こすドタバタに巻き込まれ、今日もいよぽんの雷が落ちる。
それは、四月のとある日曜日のこと。
その日は夜が明ける前から雨がしとしとと降り続いていた。明るくなってからも湿っぽい空気があたりを包み、見知らぬ誰かが練習をしているのか──どこか遠く雨音の向こうで、ピアノの音が微かに聞こえてくる。
四歳になるキオは養父に手を引かれ、濡れたやや急な石の階段を滑らないよう、一歩ずつゆっくりと上がっていった。養母に着せられた雨ガッパや長靴の隙間から雨が入り込んできて気持ち悪く、早く脱いでしまいたい。そんな気持ちでいっぱいになり、今すぐにも駆け上がりたくて仕方がない。
その階段の上には大きく立派な楼門がそびえ立ち、その前にはこれまた大きな桜の木が植えられていた。といっても既に桜の季節は終わりかけのうえに、残念ながらこの雨でほぼ葉桜と化していたが。
ふと、その桜の下に、一人の若い男が立っていることに気がついた。和服──それも、養父がよく見ている時代劇で見たような格好だが、不思議と後ろの楼門によく似合っている気がして、キオは思わず見入ってしまった。
少し考え事をしているように俯いた白い顔は、養母が大好きな歌のお兄さんによく似ている。
「どうしたんだい?」
立ち止まったキオを、階段の一段上から不思議そうに養父は見下ろした。その反応で、キオはああ──とすぐに理解する。
美しい彼は、既にこの世の者ではないのだと。
「なんでもないよ。お父さん」
首を横に振り、そのまま彼の横を通り過ぎて──そして立ち止まる。
「先に行ってて。ボク、お庭、見てくるから」
養父は少し困ったような顔をしたが、「イタズラするなよ」と言いながら楼門をくぐり、そして寺の境内へと入っていった。
『去れ。童……風邪をひくぞ』
麗しい見た目に反し、ドスの効いた低い声。しかし声をかけられたキオは嬉しそうに振り返って、男に駆け寄った。
男にとってそれは予想外の反応だったのだろう、彼は目に見えて狼狽える。
「はじめまして。ボクは、しげもと みきおです!」
養母の教えの通り、「初めての人には元気よく自己紹介」と、キオは男に挨拶をした。
「お兄さんは?」
見上げる男は、思わず口籠もる。キラキラと眩しいキオの眼差しに、えー、その、あの──と、男はブツブツ繰り返して、やっとのこと口を開いた。
『い、伊予守、とでも、呼ぶが……よい』
白かった男の頬が、ほんのりと紅潮する。
どうやら最初の低かった声は無理やり作って出していたようで、先ほどより幾分高く、聴き取りやすい声だった。
「いよ、の、かみ……?」
聞き慣れない響きに、キオは首をかしげながら、何度もその言葉を繰り返す。
そして何かを思いついたか、邪気のない満面の笑顔で──。
「じゃあ、いよぽん! いよぽんって呼ぶね!」
『い、いよぽ……』
絶句した男のすぐそばで、ブフーッと誰かが吹き出した。
楼門の横の白い漆喰の壁をすり抜けて、数人の男たちがゲラゲラと笑いながら飛び出してくる。
品の良い男に対し、代表格の男を除いて全員荒くれ者といった容貌。一部の者は透き通って向こう側が見えていたり、むしろ影だけで明確な姿を現せなかったりなのだが、それでも皆一様に、男を指差しながら楽しそうに笑っていた。
『いよぽん……いよぽんか。よかったなぁ牛福! 可愛い呼び名をつけてもらって』
『お頭! ダメですよ笑いすぎ……すみません伊予守さま! 無理ですぅ自分もツボに入りました!』
突然現れてゲラゲラ笑う男たちに、伊予守はふるふると肩を振るわせる。
途端空の色が濃くなって、急激に風と雨足が強まった。
『いきなり湧くなーッ! この酔いどれ落武者どもがッ! 鎮海山に帰れーッ!』
伊予守の怒声とともに、ドカーンッ! と一筋の落雷が、谷を挟んだ向いの山に落ちる。思わずキオは驚いて尻餅をついてしまい、水で濡れた階段にぺったりと座り込んでしまった。
『あ、その……』
キオが石段から転げ落ちなかっただけマシな状況ではあるが、ずぶ濡れとなり、同時に雷の音と衝撃で完全に萎縮してしまったキオを見て、どちらかというと伊予守の方が混乱しているようだった。
『あの……すまな……』
「美貴雄! 大丈夫か!」
雷の音に驚いたのは養父も一緒だったようで、慌ててキオに駆け寄ってきた。
濡れるのもお構いなしにキオを抱き上げる養父の腕は温かく、キオはほっと安堵し、とたん、涙が溢れてきた。
『……すまなかった』
お前を怖がらせる……つもりは、なかった。
キオの嗚咽を聞きながら、申し訳なさそうに伊予守は口を開く。その声は、なんとかキオの耳に届く程の大きさで、とても優しい声色だった。
しかし、伊予守の姿が見えない養父は彼の前をサッと通り過ぎ、本来の目的の訪ね先である寺の境内──庫裡の方へ、これ以上キオが濡れないよう、早足で向かう。
涙と養父の肩の向こう側に、しょんぼりと肩を落とす伊予守の姿がキオには見えた。
※※※
──なんて、落ち込んだ時期が自分にもありました。
伊予守はげんなりと、今日もニコニコと笑顔で手を振るキオを見て頭を抱える。
キオに泣かれたのはあの最初の一日だけ。当然、伊予守は嫌われたものだと思ってはいたが、キオは週に一回、父に連れられこの寺に通うようになり──恐怖より興味が優ったか、翌週からはじゃれつく子犬のように伊予守に絡んできた。
三年経った今では隣の落武者どもとも、しっかり馴染んでいる。──いや、この状況、伊予守でもどうかと思うけど!
「いよぽんにたろちゃん! こんにちは!」
『うむ! こんにちは。キオ。今日も元気があってよろしい』
いや、よろしいじゃない。何で例によって寺に居座ってるんだ。と、じっとりと伊予守は「たろちゃん」と呼ばれた落武者代表格の四十男を見上げた。
村上掃部頭元吉。彼は能島村上水軍の頭領であった男。つまり、現代『村上海賊』という名称で伝わる水軍を率いていた男である。
──もっとも、かの水軍で後世一番有名な頭領は、彼の父である武吉であるのだが閑話休題。
たろちゃんこと元吉は、意味深な笑みを浮かべながら伊予守を見下ろし返した。
『お前もいい加減、このくらい能天気になってもいいんじゃないか? 牛福よ』
『……余計なお世話だ。あと、仮にもお前は私の甥だろ。気安く幼名で呼ぶな』
ふんっと、伊予守はそっぽを向く。
『甥と言ってもワシの方が十以上年上じゃがなぁ』
元吉の母は、伊予守のかなり歳の離れた異母姉だった。おまけに元吉を産んで間もなく──伊予守が生まれる前に亡くなったため、当然のことながら面識は無い。
『むかーし船の上で酔ってぴーぴー泣いて、ワシにくっついとったのはどこの誰かのぉ?』
『何歳の頃の話だ! 覚えとらんわそんなこと!』
キッと伊予守が元吉を睨む。とたん、空がモノの例えでもなんでもなく、言葉通り雲行きが怪しくなった。
「わーッ! いよぽん駄目!」
慌てたキオが悲鳴のような声をあげる。
「今日はおかあさん、どうそうかいってところに出かけてるの! お願い! 洗濯干したままだからやめてあげて!」
「う……」
キオの言葉に、伊予守は思わず固まる。とたん、もくもくとわいていた雲が、風に流されるよう、スッと青空に溶けていった。
しんと静かな空気の向こうから、今日もあの日のように、何処かからピアノの音が微かに聴こえてくる。
『難儀じゃのー。祟り神ってやつも』
そんなピアノの音をかき消す──といっても、彼にしてはかなり小さな声で、元吉がつぶやいた。
そんな彼の隣で拳を握り、わなわなと震えながら伊予守は叫ぶ。
『どれもこれも! あんの糞禿鼠と無脳のせいだぁッ!』
結局ドカーンッ! と雷が落ち、しまったと伊予守は固まった。
『……すまない。キオよ』
「あー……まぁ、でも、やっちゃったモンはしょうがないよねぇ……」
狐雨のように、晴天の空からざぁざぁと降り注ぐ雨に打たれながら、キオは二人を見上げ、苦笑いを浮かべた。
※※※
今は昔。具体的には昌泰四年。
一人の男が太宰府に流され、失意の中、二年後に死去した。
その男の名は菅原道真。彼は今となっては真偽不明の子孫と伝承を瀬戸内や九州の各所に残しながら、現在では日本三代怨霊の一角を担い、また、火雷神や学問の神──天神として彼は人々に祀られている。
まぁ、そんな天神の血を、女系の記録がほとんど残らない日本の歴史の中、約六六〇年後の伊予国は来島出身の牛福丸──伊予守こと河野通直が、彼自身知らないまま引いていたとしても別段おかしくはない話ではある。
もっとも、史実において、現時点で村上氏および河野氏と菅原道真との明確な血縁関係を表す記録はみられないということもあらかじめ断っておくが。
夕刻、いつものようにキオを見送った後、ぼんやりと空を見上げる伊予守に、元吉が唐突に声をかける。
『お前みたいなのを、最近ではじぇねりっくと言うらしいぞ』
『誰が後発天神だ』