第一話 聖女の出発
優しいステンドグラスの光が天使の歌声に反射して煌めく。一切の雑音は耳を犯すことなく、神に愛された音楽だけがひたすら体を包み込むようだった。
「莉音さん、莉音さん」
うっとりと耳を傾ける一人の女性にすぐ後ろから声がかかる。
振り返った彼女はごく色の薄い水色かかった瞳で声をかけた女性を見つめた。
「あれ、マイシスター。慌ててどうなさいましたか?」
莉音と呼ばれた彼女はヒューマンの基準から考えれば到底女性と呼べるほどではなくまだ年端のいかない少女くらいの容姿をしている。
しかし、彼女の持つ聖女の杖は彼女が成人済みであることを暗に示しており、その種族さえも明らかにするものである。
彼女、莉音はドワーフと呼ばれる小さな体躯の小人族だ。
頬にそって短く切り揃えられた緑に濡れる黒髪に肌の露出を許さない聖女のドレス、幼子のような容姿には似合わない色の薄い達観した瞳とふくよかな身体。それらが彼女が女性であることを表していた。
「じ、実は…此度のお祈りの旅へ出かけるはずだったマザーが今し方倒れられて…」
「マザーが!?」
女性の話に莉音は飛び上がって驚く。
聖女たちは数年に一度、その教会で最も歳のいった者が“大使”となり村の安寧のために世界中の教会へ祈りを捧げに出発する決まりがある。
今日は5年ぶりのその日であり、最年長の年老いたシスター、マザーが歌に包まれながら送り出される予定であった。
天使の歌はそのマザーのためのものだ。
ここは自然に愛されたドワーフ村の端に位置するしがない小さな教会である。シスターの数も少なく、多くは莉音と同じように教会へ捨てられ育てられたまだ年若い子ばかりだ。
マザーは若い子たちの母のような存在であり、教会孤児院の創設者のひとりでもある。
「命に別状はないようですが、持病の悪化が…。大使のお勤めは到底無理かと」
「困りましたね。今年、大使を出さぬというわけには…」
教会の外には旅立つマザーを一目見ようと集まった村の人々が不安そうに中を伺う気配が伝わってくる。
彼らにとって村の安寧を祈る存在が倒れたばかりに出なかったというのは精神的に堪えるものがあるだろう。
莉音はひとつため息をつくと、長く尾を引いて引きずっていた聖女のドレスのレースを取り払って身軽なワンピース姿となった。
「足りぬ身ではありますが、わたくしめが大使となりましょう」
「えっ、莉音さん!それはいけません!」
不安そうな顔をしていたシスターは莉音の発言に慌てたようにレースを拾い上げた。
「なぜです。マザーが厳しい今、教会の最年長はわたくしです」
シスターがやめてくださいと制止するのを無視して莉音は高いヒールも脱ぎ捨てる。人形のように飾り立てられていた美しく気高い衣装は面影を失くし、捨てられた飾りはただの布切れとなって地に伏せた。
シスターはいよいよ焦って莉音の腕を掴む。
驚いた莉音は少し困ったようにシスターに笑いかけた。
「マイシスター。離してください」
「あなたは、まだ、若すぎます…」
「しかし、最年長に変わりはありません」
凛とした表情の莉音とは対照的にシスターは迷子の子供と相違ない瞳で先輩の姿を見上げた。
「あなたは、だって…、目が」
「大丈夫です。我が主のお力とご加護があれば」
優しく笑うほとんど色のない灰色がかった薄い水色の瞳は、光こそ失ってはいないが周囲の景色を取り込むことが容易ではない。
彼女が数えでななつのとき、その髪とお揃いだった輝く黒曜は病魔に奪い取られてしまったのだ。彼女が“神の子”であるという地位と引き換えに。
莉音は聖女の杖を片手にゆっくりと教会の外へ歩き出す。
シスターは堪えきれなくなった嗚咽を漏らして渋々ついて歩いた。
「“大使”だなんて。…体のいい口減しなのに」
ぽつりと溢したシスターの呟きにも莉音は優しく笑うだけだった。
数十分もかけることなく今までにない軽装な旅支度を整えた莉音は教会の正面にそっと姿を見せた。
教会前で不安にざわめいていた人々はその姿を見て目を丸くする。
「なんや?盲の聖女さまがきゃったでぇ」
「あれ?大使のお帽子かぶってへんか!?」
口々に言う村人たちに莉音はいたって当然といった仕草で片膝をついて簡易的に祈りを捧げる姿勢をとった。
教会の中から遠く天使の歌声が聞こえてくる。
莉音のための曲だ。
「皆様。マザーに代わりまして、今年はわたくしめが大使としてお勤めいたします。今まで大変お世話になりました」
口上を述べると周りは水を打ったように静まる。莉音が立ち上がると声の出し方を思い出したと言わんばかりに人々はため息をついた。
「えぇ、なにも盲の聖女さまを行かせへんでもええがな…」
「かわいそうや、あの子は目が弱いのに」
「あれでも最年長かえ、おらより若いでよ」
様々な感想をものともせず莉音は弱視とは思えないほどしっかりとした足取りで道を歩き出した。
「莉音さん!!」
先程のシスターが走って追いかけてくる。
シスターは振り返った莉音の手を取り、その手に小さく輝く宝石を乗せた。
「準備が早すぎますよ。削る時間もありません」
「これは?」
莉音は食い入るように手のひらに乗せられた粒を見る。
滑らかに削られた淡い水色のその宝石は莉音の瞳とよく似ていた。
「餞別の嵌め石すら持っていかないおつもりで?主への冒涜ですよ。あなたらしくもない」
「あぁ…忘れていました」
大使となる者は村から出ていく際に首から下げた十字架に嵌める宝石を受け取ることになっていた。
宝石の採掘で暮らすドワーフの誇りを忘れないようにと村人が掘って削ったものを身につけて世界へと旅立つのだ。
「今回は急なことでしたのに、こんな…。これはあなたが?」
「はい。…職人ではないので少し歪ですが…」
「いえ…ありがとうございます」
その時見せた笑顔に初めて寂しさが滲んだ。
「…これから、どこへ行かれるのですか?」
シスターが涙ぐみながら小さな声で尋ねる。莉音は少し考えると安心させるようにシスターの肩に手を置いた。
「とりあえず、大きな街で物を揃えてからお祈りにまわろうかと。…そんな顔をしないでください。平気ですよ」
シスターの瞳から体に似合わない大きな涙がこぼれ落ちる。
彼女は今年で十七の歳になったところだ。莉音がいなくなれば次は彼女が教会で最年長となる。
「お手紙くださいね…きっとですよ」
「書ければ、ですが…わかっていますよ。何かの便りは出しますから。…では、馬車で行くので」
莉音は名残惜しそうにするシスターに背を向け、聖女の杖を頼りにまだ高い日に向かって一人歩き出した。
莉音の、長い旅の始まりであった。