ミーム猫⑤
「え……?」
老人の口から出た言葉が信じられず、思わず橘は赤城の表情を窺い見る。
「……橘さん、この人おかしいわ。一刻も早くここを去りましょう。」
「聞いとるか?目ン玉だよ、目ン玉!じゃないと。なっ!?」
老人は、意味のわからないことをずっと喚いている。怒っているのか、心配しているのか、何を伝えたいのかがよく分からない。
「……あの、お爺さん。私達、彼を病院に連れて行きますので。お爺さんも気を付けて帰って下さい。」
「あぁ、そう……。良かったねェ~~」
老人の様子が明らかにおかしい。うろうろと橘達の周りを回遊して、嘗め回すように観察するのだ。一方的に視姦されているような居心地の悪さといったら、この上ない。
「んーー。かわいそうに。かわいそうだなぁ、若いのに……。」
「ちょっと。赤城さん……まだあの爺さんブツブツ言ってますよ。」
「関わらない方が良いわ」
橘は、倒れた有坂を担ごうと身を屈めた。しかし、その眼前に老人がゆらりと立ちはたがる。
「俺にも孫がいる。やってやるから。な?そいつ貸せ!」
「えっ?ちょ……何するんですか!」
老人は橘に襲い掛かった。有坂を引っ剥がそうと、凄い力で橘を押し倒しにかかる。何故そこまで必死なのか?それをする事で何が起こるのか?彼に聞きたい事は山盛りだが、この様子だとまともに話をする事は出来ないだろう。橘は負けじと老人の襟元を掴み返し、老人を蹴り飛ばした。
「これでも喰らえ」
橘は懐に忍ばせていたスプレー状の液体を老人の顔に向かって噴射した。老人は顔に掛かった飛沫に驚き、顔を擦って呻きだした。
「ウゥッ……」
「今のうちっ」
橘は有坂を担ぎ上げ、車の後部座席に押し込んだ。彼女が助手席に乗り込んだのを確認し、赤城は慌てて車を発車させた。バックミラーに映る老人の姿が小さくなっていくのを見て、ほっと胸を撫で下ろす。
「なに、今の?」
「記憶処理剤です。護身用に多少ブレンドしましたけれど。」
Cクラス職員なのだから、記憶処理剤を携帯し取り扱うことは問題ない。問題は、彼女に薬剤の知識があるとは思えないことだ。財団が使用する記憶処理剤は素人がアレンジできるような簡単な化学構造はしていない筈である。それに、彼女に凶器となり得るものを持たせておくのはなんとなく嫌な感じがしたのだ。
「……一般人へ使用するには危険すぎるわ。貸しなさい。私が預かっておく。」
「えぇっ!そんなぁ。」
「この任務が終わったら返してあげるから。」
渋々と橘はスプレーボトルを赤城へ手渡した。百均の店で売っているような、至ってシンプルなスプレーボトルの中に薄っすらとピンク味を帯びた液体が揺らめいている。財団が使用する記憶処理剤は無色透明だ。橘は一体何の薬物を混ぜたのだろうか。いずれにせよ、危険物である。赤城はスプレーボトルをポケットに仕舞った。
「それにしても田舎ってやっぱり変な人も多いのね。有坂君は大丈夫?」
「こんにちは…………ねこ……」
有坂はぐったりと項垂れてうわごとのように意味不明な言葉を呟いている。
「ダメそうです。急いだほうがいいかもしれません。」
「ドクター、彼は無事ですか?」
「命に別状はないね。数針縫っとくから大丈夫。治療が済んだら研究のために日本支部に身柄を移そう。じゃ、帰っていいよ。」
財団管轄の病院へ辿り着くなり、有坂の検査が行われた。軽トラと接触したことにより外傷を負ったものの、大事には至らなかったようだ。なお、SCiPから受けた精神的影響の方は、この病院では施設の機器が万全ではなく、解明する事は出来なかった。ともあれ、彼は身柄を日本支部に送られて精密な検査を受けることになる。
「良かった。よろしくお願いします。」
「…………。」
待合室を出た2人の間に、気まずい空気が漂う。トラブルにより有耶無耶になっていたが、やはり赤城の橘に対する不信感は薄れていない。何故、彼女はクリランスレベル以上の情報に触れることが出来たのか。赤城は自分のコンプライアンス知識を疑ったが、今までそのような事例は聞いたことが無い。それに、有坂が居なくなって分かったことがある。彼はムードメーカー的な側面があったのだ。彼がいなくなることにより、自分よりずっとキャリアの低い橘とこんなにも話しづらくなってしまうものなのだろうか。……彼女は、こんなにも冷たい空気を纏っていただろうか?
「……これから、どうしましょうか。後日調査班を作ると言っても、私達手持ち無沙汰ですよね。その間、私達にできる事など無いのでしょうか?それに、有坂と爺さんの事故処理を放っぽってきてしまいましたよ。警察沙汰にはなりたくないですね。」
「事故に関しては、あなたがあのお爺さんに噴射した記憶処理剤が効いていることを願いましょ。現場に行くのは控えて、町での聞き込みを続けましょうか。それから役場へ行って、過去の記録や資料を虱潰しに調べる。過去の似た様な事案を洗い出すの。確か、エージェントが役場に潜入しているはずよ。」
「なるほど。では、調査班が来るまで情報集めですね。」
「そう、情報集め。切り替えていきましょ。……そうだ。橘さん、今日の報告書の作成をお願いしても良い?私は調査依頼書を作るから。書き上がったら、いつも通りに報告書プラットフォームにアップロードしておいて。」
「分かりました。」
その晩、宿にて。
「はー……疲れた。報告書、報告書っと。」
結局、宿に戻って来れたのは23時頃になってしまった。風呂に入る前に、面倒な仕事は終わらしてしまおう。橘はそう思い、ノートPCを机の上に広げて報告書を書き始めた。必要項目に入力しながら、今日1日の事を振り返る。
――今日は、本当に大変だった。体がくたびれている。慣れない山道の運転に、整備もされていない道の登山。有坂が突然錯乱し、その有坂を追うために何度あの悪路を歩いたことだろうか。それに、訳のわからない老人に絡まれた事も記憶に新しい。……そもそも、有坂はどうしておかしくなってしまったのだったろうか。確か、井戸を覗いてねこがどうとか言っていたような。
時系列に沿って、事の経緯を記入欄に入力していく。
薄暗い部屋の中、PCのモニターが煌々と橘の顔を照らしていた。ふと、何気なく目を文章から外すとモニターに反射して、自分の背後に見慣れぬ物が映っていた。
「……ん?」
棚の上に、何かがある。こんなぬいぐるみを飾っていただろうか。小さくてよく見えない。いや、あれは棚の上に鎮座しているのでは無い。浮いている?白っぽい何かが、自分の右肩の辺りに浮かんでいるように見えるのだ。橘は思わずモニターに顔を近づけた。
ジーっと目を凝らしていると、それは、突然ぱちりと瞬きをした。
「えっ?」
映っていたのは、粘土細工のように歪な、ギョロ目の生き物だった。視認した瞬間、ゾワワワッと一気に鳥肌が立つ。橘は、慌てて背後を振り向いた。
「ねこです」
ねこがいる。ねこがいる。橘はそれを認識してしまった。
「あー、あー…………。ねこ……?いました。はい。」
橘は、朦朧としながら報告書に「廃村の井戸小屋にねこがいた」という文言を打ち込んでいた。
「……送信、そうしん。よろしくおねがいします……。」
まだ未完成の報告書を、財団報告書プラットフォームに送信した。
橘はこのとき、分かっていなかった。そもそもまともな思考ができない今となっては、どうしようもなかったのだ。
――これが、財団をパニックに陥れることになるとは。
後書き
この作品はクリエイティブ・コモンズ 表示-継承3.0ライセンスに基づき作成されています。
Author:m0ch12uk1
Title: SCP-040-JP -ねこですよろしくおねがいします-
Source:http://scp-jp.wikidot.com/scp-040-jp




