ロバートと赤い薔薇
1895年
ここはロンドン。繊維産業によって財を成した裕福な家庭に産まれた少年が居ました。ロバート・ブラントンです。父と母は仕事であまり家に居ませんでしたが、乳母やお手伝いさんが面倒を見てくれたのであまり寂しいと感じることは有りませんでした。大きな戦争が世の中を飲み込もうとしていましたが、幼いロバートにはよく分かりませんでした。
6歳の誕生日に、彼はロマン主義絵画の展示会に連れて行って貰うことになりました。久しぶりに顔を見た父が突然連れて行こうと言い出したのです。父と母との3人でのお出掛けにロバートは大喜びです。
父がヨハン・ハインリヒ・フュースリーという画家の絵を贔屓にしていたので、特別にブラントン一家はサロンに作品を観に行く事ができました。
ロバートは心奪われました。フュースリーの描いた作品の幻想的なこと!
どうやらフュースリーはシェイクスピアをテーマにした作品が多いらしい。そう父から聞いたロバートは、シェイクスピアの本を帰りに買って貰うよう父にねだりました。彼の作品はロマン主義的作品と一言で片付けるには勿体無いものでした。どこか不気味で恐ろしい作品も有りましたが、ゴシック的な雰囲気も相まって神秘的にも見えます。まるで闇の中から立ち上がる一筋の煙のような……。とにかく、このコントラストに魅了されました。フュースリーの絵画との出会いによって、ロバートは画家に憧れを抱くようになりました。
ロバートは考えます。画家になりたいと父に言うと、きっと反対されるだろうと。父の事業の跡継ぎになる事が決められていたからです。そこで、教養として絵画を学びたいと言う事にしました。そうして、父に上手く伝えると父は大喜び!
急いで上等な絵の具とキャンパス、クロッキー帳を用意させました。
さぁ、道具は揃いました。ロバートは、1番初めに何を描こうか悩みます。お友達のマーニー?それともボーダーコリーのチャッピー?動き回られると集中して描く事ができません。そうだ、それならば動かない物が良い。閃いたロバートは、乳母が育てていた薔薇を描く事にしました。お庭にイーゼルを運んで、花壇の前に陣取ります。真っ白な紙に鉛筆で線を描くのはとても緊張しました。なんだか、台無しにしてしまうような気がして……。
ロバートは下書きの為に薔薇の輪郭を描こうとしますが、上手くいきません。真っ直ぐ、滑らかな線が描けないのです。何度も何度も描き直しました。左手でパンを練りながら、何度も線を消しては描いて、消しては描いてを繰り返します。
結局、その日のうちにロバートは絵を描き切る事ができずに、悲しい気持ちになりました。絵を描く事がこんなに難しいだなんてロバートは知らなかったのです。落ち込むロバートを見た乳母が声をかけます。「諦めなければいつか上手になられますよ。」
そうです。ロバートはまだ最初の一歩を踏み出したばかりです。あのフュースリーも、きっと初めはへたくそに違いなかったのです。そう考えると、ロバートは明日も描いてみようと立ち直る事ができました。
それから何日か経って、ようやく満足のいく下書きができました。やっと絵の具を使う時が来たのです。今までは白と黒でしたから、やっと彩を与える事ができます。チューブを捻り、パレットの上にちょこんと置いた赤色の絵具はまるで宝石のようでした。他の色も見てみたいと思いましたが、絵の具は無駄にはできません。つやつや輝く絵具の塊を暫くうっとり眺めたあと、ようやく筆に取ってキャンパスに広げました。
初めての作品は酷いものでした。せっかく描いた下書きも絵の具で隠れてしまい、のっぺりと広がった赤い絵の具は味気なく、下に細く伸びた緑色が無ければ薔薇だとは思えません。それでも家の人は喜んでくれました。乳母は、なんとも得意げに坊ちゃんが私の薔薇を描かれたのよ!と言って、豪華な額縁にその絵を飾り、みんなに自慢していました。
ロバートは幸福です。もっと喜んで欲しくて、褒めて欲しくて、いっぱい絵を描きました。薔薇だけでなく、瓶や卵、それに道行く人々のスケッチなんかもいっぱいやりました。そして10歳になった頃、彼は写実的な絵を描ける素晴らしい才能を開花させていました。父と母も、ロバートを誇りに思っていました。このまま、絵を描き続ける事ができたらどれだけ幸せでしょう。フュースリーのような大作家になれたらどれだけ嬉しいでしょう。ロバートの夢は広がります。
数年後、ロバートは立派な画家になりました。戦時中は従軍画家として沢山絵を描きましたが、ようやく平和な絵を描けると喜びました。
1929年、ロバートが34歳の頃。バルセロナで大博覧会がありました。多くの国から様々な物品が展示されました。モダニズム建築が流行の兆しを見せる中、特にドイツ館の造りは衝撃的なものでした。あらゆるものが真新しく、ロバートは大きなインスピレーションを受けるのでした。
ロバートだけでなく訪れた多くの人々が、世界戦争に燻んだ世の中で、1つの明るい兆しを見た気分でした。
それから大きな戦争が世界で何度か起こりました。そんな最中、ある事件が起きました。
確か1935年くらいのことです。
街の様子がおかしいのです。
人々は騒ぎます。
「やっと手に入れたジャガイモの色がおかしい!」
ロバートは初めは何のことだかさっぱりわかりませんでしたが、直ぐに分かるようになりました。
色がおかしいのです。
ジャガイモだけではありません。車も、人の肌も、それに家の外壁の色もなんだかおかしいのです。こんなに意味不明な色だったでしょうか?その記事が載った新聞が配られた朝には、もう身の周りの色がとっ散らかっていました。
キャンパスは見たこともない色に侵されていました。
薔薇の美しさは損なわれたように思われます。
芝生の青々しさは汚されてしまいました。
焼いたパンの表面の色といったら、なんと食欲をそそらない事でしょう。
あぁ、青かった空が下品でこんなに不自然な色に……。
ロバートは悲しみに暮れながら過去に描いた自分の絵を見ていました。乳母が育てていた瑞々しい赤い薔薇の絵です。あんなに鮮やかで綺麗だったのに、やはりおかしな色をしています。丹精込めて描いた絵です。絵の具のチューブも、色味ごとに並べていたのに、違う色になり変わっています。もしかしたら、絵具は無事かもしれないと思って慌てて絵の具を捻り出しますが、やはりチューブの色と同じ色で、がっかりしました。
これは敵国であるドイツの仕業だと誰かが言いました。人々はパニックに陥ります。でもロンドンだけでなく、パリも、モスクワも、ベルリンでも同じ事が起こっているそうです。真実は誰も、何も分かりません。国もだんまりです。
そんなある時、連日の大騒動がある時ぴたりと治りました。
別に、おかしいことなど無かったのです。赤は赤です。緑は緑です。黒は黒です。皆がその事をほぼ同時に理解しました。元からこの色だったのです。
ロバートは、今日も絵を描きます。1輪の薔薇に、バン、ナイフ、それから籠に盛られた果実。静物画のなかでひっそりと佇む、寂しげな薔薇を塗るのに赤い絵の具をパレットに広げました。赤は赤です。何もおかしくはありません。
……うん、とっても綺麗!
そういえば、同時期にとある財団が収容違反を起こしました。財団の最終フェイルセーフ手段、アンニュイ・プロトコルが実施されたそうです。
人々は何が起こったか知る由もありません。
この作品はクリエイティブ・コモンズ 表示-継承3.0ライセンスに基づき作成されています。
Author: (account deleted)
Title: SCP-8900-EX - 青い、青い空 -
Source:https://scp-wiki.wikidot.com/scp-8900-ex




