初任給の使い方 ~初恋を添えて~
これは、有坂がCクラス職員として雇用されて丸1ヶ月が経った頃の話である。
「有坂翔馬様 20**年*月の給与明細を添付します。」と書かれたメールが寮の個人パソコンに届いているのを見つけた時、有坂は思わず二度見した。そして、明細書のPDFデータを開いて明細を見た途端、腰を抜かして椅子から転げ落ちてしまった。
獄中に居た頃にも刑務作業による給与は貰えていたのだ。刑務作業とは言っても、それは居室で紙袋を延々と作らされる苦痛極まりないものだった。薄っぺらい紙に糊を付け折り曲げる行為を延々と繰り返すだけの退屈な作業を嫌々やらされていたのである。作業によって得られる報酬は月たったの1万円程度。実を言うと、世間一般の労働者が得られる賃金と左程変わりはしないのであるが、有坂は口座に振り込まれた金額を見て仰天したのである。
「いち、じゅう、ひゃく、せん、まん、じゅうまん……。」
桁を数えて、有坂は興奮した。こんなに貰って良いのかよ。――そう有坂が思うのも無理はない。纏まった金を手にするのは初めての事だったからだ。彼は何度も何度も明細書を眺めなおす。その度に口角が上がってしまい、ここに橘が居たら気味が悪いとでも言われそうな程、勝手に顔が緩んだ。有坂はまるで億万長者にでもなったかのような気分で浮かれていた。
しかし、大きな問題が1つあった。
有坂は、金の使い道をまるで知らなかったのである。
Cクラス職員に雇用されたとき、記憶喪失の身だと知らされた。覚えているのは、刑務所にずっと閉じ込められていたことと、鍵開けが得意だということだけだ。収監される前までどんな生活を送っていたのか、家族や友人がいたのかさえ分からないのだ。自分の記憶をいくら遡ってもモヤが掛かったように不明瞭で、どうしても思い出す事が出来ない。従って、自分が過去にどんなことに金を使ってきたのかが分からないのである。
趣味は?――特に無い。寝ることくらい。
ならばファッションに使うのはどうだろう?――駄目だ、まるっきり今の流行りが分からない。仕事をしていると制服が支給されるから、私服がそもそもいらない。
ならばいっそのこと、貯蓄に回すのはどうか?――いいや、そんなのつまらん。初任給だ、パーっといこうぜ。
有坂は欲しいものを探すためにパソコンでネットサーフィンに耽った。そして思い付きで、通販サイトに登録し、パズル2つと知恵の輪10個、そしてルービックキューブを買い物カゴへ入れた。これくらいしか欲しいものが思いつかなかったのだ。そして金額も碌に気にせず、購入ボタンを押した。――――合計32400円。
駄目だ。散財したつもりが全然減らない。しかも、当然の事ながらネット通販とはすぐには届かないものであることを忘れていた。金は使ったのに、モノが無いのでは実感が湧かないではないか。失敗した、と有坂は後悔した。
悩んだ有坂は、昼食を摂るために食堂に向かうことにした。今まで、高くて敬遠していたスペシャルセットを頼んでみることにしたのだ。メインのおかずと、サブおかず、それに雑穀米に豚汁と小鉢2品。さらに、本日のデザートまでついてくる。「資本は身体」がモットーの食堂シェフがこだわり抜いて作った健康定食である。
食券を購入し、受け取り口で列に並んで待っていると、なんとなく前に並ぶ女性が目に入った。いや、なんとなくという偶発的な理由では無い。匂いだ。良い匂いがしたのだ。シャボン玉のように軽やかで、それでいて高級そうな甘い嗅ぎ慣れない匂い。それで、匂いの発生源を目で追ったら前の女だったというわけで合点がいった。香水でもつけていやがるのだ。
仕事に香水をつけてくるとは何事だ!
ふざけてやがる、どんな顔なのか見てやろうとその女を注視していると、彼女はランチプレートを受け取るためにほんの数秒だが横を向いた。ちょうど顔が見えそうだ。
チラッと見えたその横顔に衝撃を受けた。――美人だ。いや、美少女と呼んだ方が良い年齢なのかも分からない。10代後半か20代前半のようだが、若々しい肌艶に、きちんと手入れされた艶めく長い髪と華奢だが均整の取れた体型。すらりと伸びた脚がストレッチの効いたズボンに包まれて、美しい曲線を描いている。まるで人形のような女性だ。服装を見る限り、特殊部隊員だろうか。――こんなカワイイ子が?バケモン相手に戦えるのだろうか?有坂は疑問を隠せなかった。
女性とは無縁の人生を歩んできた有坂も人並みに異性に関心がある。席へと去っていく彼女の後ろ姿を思わず目で追ってしまう。もっと彼女をよく見てみたいと思うのは、自然な事であった。
スペシャルセットを受け取っている間に見失った彼女を探す。昼の混み合うピークの時間をとうに過ぎていたため、人はまばらだ。あたりを見回すと食堂の奥側、人工庭を眺められる窓際に彼女は1人座っていた。
彼女の視線になるべく入らないように、有坂は少し離れた席に陣取った。見ていないフリをしながら食べるスペシャルランチの味はよく分からなかった。美味い筈の食事よりも彼女の事で頭がいっぱいだったのだ。彼女は食べる時に邪魔にならないように髪を結え、ラーメン定食を無心で啜っていた。その桃色の唇が咀嚼のたびに上下するのを眺めて、柔らかな感触を想起して自分が恥ずかしくなった。その一方で、偶然にもこっちを見ないだろうかなど不埒な考えが思考を占拠する。
凝視していたその時、彼女とガッツリ目が合った。長い睫毛に縁取られた瞳に射抜かれ有坂の時が一瞬止まる。ほんの1秒にも満たない刹那が、有坂には永遠のように感じられたのだ。どうにかこの一瞬を写真のように切り取って、いつでも眺められるようにできないだろうか……。
「…………あ、その……。」
その瞬間、彼女はその可憐な顔に似合わない程に顔を顰めた。
――なんと、まぁ露骨に嫌そうではないか!
ラブロマンスを無意識に期待していた有坂は、あまりのショックに唖然として硬直してしまった。箸で摘んでいた豆腐ががぽろりと盆の上に落ち、形を崩した。
そんな有坂を睨みつけながら彼女は不快そうな表情を隠す事なく席を立ち、返却棚へと食器を返しに去っていってしまった。待って欲しいなんて言う暇もなく、有坂はぼうぜんとしていた。
頭の中で、自問自答が止まらない。……何故だろう。胸が痛い。俺、何か悪い事しちゃったかな。あぁ、俺目付きが悪いから睨まれていると思ったんだ。きっとそう。…………また会えたら、謝りたい。睨んでなんか無かったんだ。ただ君が綺麗だから……。
どうして話しかけてすらいないのに嫌われてしまったのか分からないが、自問自答が止まらない。一方的に拒絶された有坂は、初任給をどう使うかなんて些細な事柄はどうでも良くなってしまった。心が真っ白になってしまった気分を引き摺りながら寮に戻り自室に向かうと、部屋の前に小包が届いているのに気が付いた。朝にネット通販で頼んだ玩具が届いたのである。置かれた場所はドアの真ん前。どかさないとドアが開けられない。力任せにドアで荷物を押しやってしまいたい気分になったが、ドアノブを強く握ったところで思い直す。
「……。」
有坂は仕方なく小包を抱え上げ、部屋に持って入った。
「………………ハァ……」
有坂翔馬、26歳。
初めての恋は、儚く散った。




